春に桜を見て、つくづく思ったことは、京都で桜を見るというのは、ただ桜の木を見るということとは、ぜんぜん違うのだよな。桜はもちろん、木そのものもきれいなわけだが、それが黒っぽい色の日本建築に、うまい具合にあしらわれていると、きれいさの次元がまったく違うものになる。これは完全に、一つの芸術であると言って、間違いないと思うのだ。京都ではそれを、都であった千年以上の長きにわたって、磨きに磨きをかけてきたのだと思うのだよな。だからハッとするくらいきれいな桜というのがいくつもあった。
というわけで、紅葉もやはり、見なくちゃいけないなと思い、11月に入ったあたりから、ネットで見頃情報をチェックしていたのだが、今日になって初めて、見頃マークが点灯したので、早速行ってきたというわけなのだ。
今日は詩仙堂、圓光寺、曼殊院へ行ったのだけれど、この中では僕は、圓光寺がいちばん良かったな。そのなかでもベストショットはこれ。
書院の座敷、ちょうどこの写真を撮ったあたりに、二人くらい、ずっと長い間座って、庭を眺めている人がいた。たしかに庭の景色は、こうやって建物の屋根や柱によって切り取られたものを眺めるほうが、同じ景色を直接見るより、趣きが深いのだよな。
だから建物の中から見る庭園の風景というものは、絵画のようなものなのだよな。庭園自体がまず、木々の一本一本を、きれいに見えるように、計算して植えるわけだろうが、さらにそれを、建物によって切り取ってみせることで、一層きれいに見えるというわけなのだ。昔の人達、すごく色々考え、研究したのだろうな。たいしたものだ。