人間の意識と、生き物のからだとが、物事をつくり上げていく過程がこのように共通するということは、素人の考えとして、それらは同じ原理に基づいているものなのではないか、ということを思い浮かべる。まだ見つけられていない、生命に関する何らかの原理があって、それは万有引力の法則やアインシュタインの相対性理論のように、この宇宙を支配しており、それがこの地球上に生き物を生み出し、また同様に、人間の意識をも生み出した。それがまったく共通するように見える意識の過程と発生や進化の過程を見比べたときに、誰でもが思い付く、最も単純な考えだ。実際これまで、多くの人たちが、生き物と人間の意識とを同じように支配する原理というものについて、様々な理論を提出してきた。
その理論の中でいちばん古くからあり、今でも言われ続けているものは、生命や人間の意識は、「神の意思」によって支配されている、というものだ。実際これを今でも信じている人は相当な数に上るだろう。
しかし150年ほど前にできた「科学」は、それを否定した。科学においては進化を、何らかの「意思」に基くものではなく、生き物はその時々で、遺伝子が突然に変化してしまうことがあり、それが様々なからだの形や機能をつくり出すが、そのうち自然の環境の中で、生き延びる力が強いものが生き残り、そうでないものは絶滅することによって、今の様々な生き物が出来上がってきたと説明する。このとき遺伝子に起こる突然の変化は、あくまで偶然によるものであって、何ら意思と呼べるようなものではない。
科学にとっては「客観性」が金科玉条だ。「意思」とか「思い」とか、そういう主観的なものを一切排除して、数学によって説明でき、実験によって確かめられることだけが、真実であると規定した。そうすることによって、すべては、部品を組み立てることによって作られる機械のようなものとして説明されなければならず、人間の意識のように、意思も思いも持つものと、生き物とは、はっきりと区別されることとなった。
しかし科学がそのように、人間の意識とそれ以外のものについて、いくらはっきりと線を引こうとしても、それが人間の素朴な直感に大きく反することは否めない。実際ただの偶然の積み重ねによって、眼なら眼のような、複雑極まりない、ある機能を持つように設計されたとした思えないようなものが、いくら何億年という時間があったにせよ、出来上がっていくとは、素朴に考えると、あり得るとは思えない。
科学者の中にももちろん、同じように思う人はたくさんいて、科学の成立以後にも、進化がただの偶然の積み重ねによって実現するものであるということに対して、数多くの異論が唱えられてきた。アメリカなどでは、進化はあくまで、ある意思に基いて行われてきたものであるという理論が、キリスト教を支持する科学者によって唱えられ、一部の高校などでは、科学の主流の進化論ではなく、そちらを教えなければならないということにすらなっていたりする。
それはまさに今、喧々諤々とした議論が行われている真っ最中なのであり、ある理論が提案されては、それが潰され、ということが、続けられている。それを潰す側である、科学の主流派の態度というものは、あまりにも頑なであるように、素人から見ると映るのだが、しかしそれは、科学が守らなければいけない、科学の成立の基盤に関わる一線、についての問題なのだ。科学が「意思」のようなものを認めてしまっては、科学でなくなってしまうのである。
(つづく予定)