ふつうの鍋の場合は、火を付けたままそのまま置いておくと、だんだんとくたっと、イマイチな状態になってしまうわけだが、おでんは置けば置くほどうまくなる。これがおでんが酒の肴として、長きにわたって人気を博してきた所以なのだな。今回はっきり解ったわ。
2010-10-31
進化
ラーメンは戦前から戦後、おもに屋台を引いて商売するというところから始まったわけだが、当時の飲食店の状況というものを考えてみるに、麺類という同業種に限っていえば、そば屋、うどん屋というものが全盛だったろう。今でこそ、麺類の主流はラーメン屋ということになってしまっていて、うどん、そばというのは、どちらかと言えばレトロな、通好みの食べるものということになっているが、当時、安くてサクっと食べられる麺類といえば、うどん屋やそば屋だったはずだ。
そういうところからラーメンが、今やそばやうどんを上回る地位を獲得しているというのは、もちろん先人たちの、大変な苦労や努力のたまものであるということは言うまでもないのだが、それだけの理由ではなく、ラーメンが「反主流」であったという、そのこと自体にも、大きな秘密が隠されているのではないかと僕は思うのだ。
「安くてサクっと食べられる麺類」という需要は、うどんやそばによって満たされていたわけなのだが、逆に言えば、それはうどんやそばに対する人々の期待というものが、はっきりとした形で存在し、それを外れることは許されない、ということも意味しただろう。それに対してラーメンというものは、いちおう「中華風の」という縛りはあったにせよ、それはそれほど強いものではなく、実際北海道や九州では、中華風とはほとんど言えないようなラーメンが発展しているわけで、「縛りがゆるくて、自由度が高い」という状態であったに違いない。それはすなわち、可能性の大きさというものであるわけで、その新天地こそが、既存の、すでに完成した体系をもっていたうどんやそばを駆逐し、それらを周辺に追いやり、新たな主流となっていくための原動力であったのではないかと思うのだ。
今の人間は、服を作り、着るようになっているから、べつにからだに毛が生えている必要はなくなっているのだが、はるか昔に思いを馳せれば、初めから服を着るなどということができた筈はないわけで、体毛が生き物が進化のなかで獲得した、体温調節のための重要な機能であったと考えれば、それをある時、ヒトが失ってしまったということは、生存のためにはどんでもなく不利であったということだったろう。ほとんど奇形であるとも言えることなのじゃないか。
今一般的には、なぜ毛が生えていないのかということについて、人間はことばを発達させ、その延長に服も作れるようになり、毛を生やしている必要がなくなったから、毛が生えなくなったと説明されているのじゃないかと思うが、むしろ逆で、毛を生やせないという、生存のために圧倒的に不利な状況に追いやられてしまったからこそ、同時に獲得したことばというものをもって、ヒトは新たに生き延びる方策を立てなければいけないことになったと、そういうことじゃないかと思うのだ。だからもしヒトに毛が生えていたら、どんなにことばを話す可能性を持っていたとしても、その可能性を活かすことはなかったのではないかと思う、今日このごろなのです。
そういうところでラーメンは、「うどんでもそばでもない麺類」という、隙間を狙ったものとしてスタートした。老舗のラーメン屋というものが、多くは、何年ものあいだ屋台で営業していたことを考えると、ラーメンは初めから、人々に受け入れられ、人気を博したというものではなく、むしろうどん好き、そば好きの主流派からは、「あんな変わったもの食べやがって」というような、軽蔑の目で見られるようなものであったと考えても、それほど外れていないのじゃないかという気がする。
そういうところからラーメンが、今やそばやうどんを上回る地位を獲得しているというのは、もちろん先人たちの、大変な苦労や努力のたまものであるということは言うまでもないのだが、それだけの理由ではなく、ラーメンが「反主流」であったという、そのこと自体にも、大きな秘密が隠されているのではないかと僕は思うのだ。
「安くてサクっと食べられる麺類」という需要は、うどんやそばによって満たされていたわけなのだが、逆に言えば、それはうどんやそばに対する人々の期待というものが、はっきりとした形で存在し、それを外れることは許されない、ということも意味しただろう。それに対してラーメンというものは、いちおう「中華風の」という縛りはあったにせよ、それはそれほど強いものではなく、実際北海道や九州では、中華風とはほとんど言えないようなラーメンが発展しているわけで、「縛りがゆるくて、自由度が高い」という状態であったに違いない。それはすなわち、可能性の大きさというものであるわけで、その新天地こそが、既存の、すでに完成した体系をもっていたうどんやそばを駆逐し、それらを周辺に追いやり、新たな主流となっていくための原動力であったのではないかと思うのだ。
100万年ほど前に現れた「ヒト」は、ことばを話すようになったということで、大きく発展し、今や地球上の生き物のなかで、食物連鎖の最上位に位置し、主流派というべき地位を獲得するに至っている。人間がことばを、どのようにして話すようになったのかということについては、はっきりしないことが多く、様々な説が唱えられているという状況であると思うが、ヒトの誕生について、僕がいちばん不思議に思うことは、なぜヒトには、からだに毛が生えていないのか、ということだ。
今の人間は、服を作り、着るようになっているから、べつにからだに毛が生えている必要はなくなっているのだが、はるか昔に思いを馳せれば、初めから服を着るなどということができた筈はないわけで、体毛が生き物が進化のなかで獲得した、体温調節のための重要な機能であったと考えれば、それをある時、ヒトが失ってしまったということは、生存のためにはどんでもなく不利であったということだったろう。ほとんど奇形であるとも言えることなのじゃないか。
今一般的には、なぜ毛が生えていないのかということについて、人間はことばを発達させ、その延長に服も作れるようになり、毛を生やしている必要がなくなったから、毛が生えなくなったと説明されているのじゃないかと思うが、むしろ逆で、毛を生やせないという、生存のために圧倒的に不利な状況に追いやられてしまったからこそ、同時に獲得したことばというものをもって、ヒトは新たに生き延びる方策を立てなければいけないことになったと、そういうことじゃないかと思うのだ。だからもしヒトに毛が生えていたら、どんなにことばを話す可能性を持っていたとしても、その可能性を活かすことはなかったのではないかと思う、今日このごろなのです。
2010-10-30
おでん
おでんのネタランキング、僕は1位ジャガイモ、2位たまご、3位大根、4位牛すじ。大根は下ゆでして入れたが、ジャガイモは、ぐつぐつ煮ると、すぐ煮崩れてしまうので、沸き立たないよう、とろ火に火加減して、時々水を足しながら、待つこと2時間。
いや大根にもよく味がしみて、ジャガイモはほくほく、完璧な出来上がりでございました。
ただ一つうまくいかなかったのは、昆布。これはだし昆布をそのまま流用したのだが、だしを取ったあとだったせいか、結ぼうとしてもぶつぶつ千切れてしまってうまくいかず、しかもだいたい、出がらしになってしまっていて味がない。昆布はだしを取ってしまってはいけなかったのか。ようわからん。
テレビ
僕は家にテレビを置いていないのだが、それはべつにテレビが嫌いだからということではなく、あまりに好き過ぎるからなのだ。というか、僕は性格的に物事にハマりやすい質で、何にでものめり込むと、そこから抜け出せなくなってしまいがちなのだが、テレビの場合見だしたら、まったく消せなくなる。休みの日など朝から晩まで、廃人のようにずっと見続けているなどということはザラだったし、平日の深夜なども、早く寝た方がいいのは解っているのに、床に入りながら、いつまでもテレビを眺めていたりしたものだった。
しかもそれが、多少なりとも有意義なニュースなり、教養番組なり、そんなものを見ればまだ良さそうなものなのに、できるだけ下らなそうなものを、わざわざ選ぶ。だから延々と、バラエティ番組を見続けることになる。面白いとか面白くないとかいうことを超えた、まさに中毒状態、余暇のほとんどをテレビか、または飲み会に費やすということになってしまっていたので、これはさすがに生活に支障をきたすということで、引越しを機に、テレビを捨てたのだった。
番組の中でも、とくに釘付けにされてしまうのが、明石家さんまと、松嶋菜々子の出ているもの。松嶋菜々子の場合、連続ドラマになるわけだから、単にその時見てしまうというだけではなく、毎週同じ時間に、テレビの前に座らないといけないという羽目になる。それはさすがに辛すぎるので、チャンネルを変える時に、チラリとでも松嶋菜々子が映ったら、即座にチャンネルを変え、そのあとはそのチャンネルは見ないようにしていた。松嶋菜々子の出ているドラマは、もう正座して、前のめりになって見ないと、気が済まないようになってしまうのだ。
僕がとくにハマりやすい性格であるということはあるとしても、テレビがこれだけ、日本人、いや、世界中の、文明国と言われるところは、皆同じようなことになっていると思うから、人間の、と言っていいと思うが、生活にとって無くてはならないものになったというのは、人間の何らかの性質に、テレビが大きく合致したからなのだろう。実際ただで、見るものをあれだけ気持ちの良い、いわば殿様気分にさせてくれるのだから、たしかに見ないのは損なのだ。
もう8年前に39歳で亡くなったのだが、消しゴム彫刻家でテレビ批評家のナンシー関が、僕はとても好きで、週刊文春に連載していた頃には毎週楽しみに読み、亡くなってしまってから、著作を改めて、ほぼ全て読んだのだが、それを読みながら、ナンシーはなぜ死んでしまったのか、ということを、ずっと思い続けていた。死因はいちおう、太り過ぎによる心臓疾患ということだったと思うが、やはりある人にのめり込むと、ただそういう医学的な理由を聞いても、ほんとに納得することはできず、その人の運命として、死はどんな意味があったのかを、考えずにはいられない。
でも晩年のナンシーの批評を見ると、そのテレビに対する愛情を、失いかけていたのじゃないかと思うところがある。タレントやテレビ制作者に対して、往年の批評のような、毒舌ではあるけれど、クスッと笑えるというものではなく、あたかも抗議しているかのような、まっすぐな論調が増えるのだ。生前単行本に収録する時には、そういうものは全て取り外したのが、死後そういう、単行本に収録されなかったものだけが集められたものを読んで解った。ナンシーにとっては、自分が大好きだった、家族や友達関係の中心にあったテレビが、徐々に変わっていってしまったということを、悲しむ気持ちがあったのじゃないかと思う。そして独身だったナンシーにとって、最愛の存在を失いかけているというそのことが、あの早過ぎる死の理由なのではなかったかと、僕は思っている。
しかもそれが、多少なりとも有意義なニュースなり、教養番組なり、そんなものを見ればまだ良さそうなものなのに、できるだけ下らなそうなものを、わざわざ選ぶ。だから延々と、バラエティ番組を見続けることになる。面白いとか面白くないとかいうことを超えた、まさに中毒状態、余暇のほとんどをテレビか、または飲み会に費やすということになってしまっていたので、これはさすがに生活に支障をきたすということで、引越しを機に、テレビを捨てたのだった。
番組の中でも、とくに釘付けにされてしまうのが、明石家さんまと、松嶋菜々子の出ているもの。松嶋菜々子の場合、連続ドラマになるわけだから、単にその時見てしまうというだけではなく、毎週同じ時間に、テレビの前に座らないといけないという羽目になる。それはさすがに辛すぎるので、チャンネルを変える時に、チラリとでも松嶋菜々子が映ったら、即座にチャンネルを変え、そのあとはそのチャンネルは見ないようにしていた。松嶋菜々子の出ているドラマは、もう正座して、前のめりになって見ないと、気が済まないようになってしまうのだ。
僕がとくにハマりやすい性格であるということはあるとしても、テレビがこれだけ、日本人、いや、世界中の、文明国と言われるところは、皆同じようなことになっていると思うから、人間の、と言っていいと思うが、生活にとって無くてはならないものになったというのは、人間の何らかの性質に、テレビが大きく合致したからなのだろう。実際ただで、見るものをあれだけ気持ちの良い、いわば殿様気分にさせてくれるのだから、たしかに見ないのは損なのだ。
しかしそれは、よくよく考えてみれば、というか、考えなくても当たり前のことだが、ただより怖いものはないのであって、テレビ局の人間は、一つでも多くの広告を見せようとしているのであって、またその広告を見せるための技術たるや、この数十年の歴史の中で、洗練に洗練を重ね、テレビの番組の中には、とてつもないノウハウが込められているのに違いない。そういうプロ集団に対して、こちらが勝ち目がないのはいわば当然であって、もちろん好き好んで勝手にハマっているのだが、ハメられているという言い方をしても、あながち間違いとは言えないわけだ。
もう8年前に39歳で亡くなったのだが、消しゴム彫刻家でテレビ批評家のナンシー関が、僕はとても好きで、週刊文春に連載していた頃には毎週楽しみに読み、亡くなってしまってから、著作を改めて、ほぼ全て読んだのだが、それを読みながら、ナンシーはなぜ死んでしまったのか、ということを、ずっと思い続けていた。死因はいちおう、太り過ぎによる心臓疾患ということだったと思うが、やはりある人にのめり込むと、ただそういう医学的な理由を聞いても、ほんとに納得することはできず、その人の運命として、死はどんな意味があったのかを、考えずにはいられない。
ナンシーは僕と同い年で、僕は幼稚園の頃だったか、物心がついてすぐの頃、カラーテレビが家に来た時のことを覚えているから、僕くらいの年の人間が、生活の中にいつもテレビがある、テレビ第一世代だと言っても、そう外れてはいないと思う。小さな頃、年末のレコード大賞、紅白歌合戦や、正月番組などを、家族や親戚と見た思い出というものは、自分にとっての原風景であるといってもいいようなもので、また学校へ行ったら、友達と昨日のテレビ番組の話をしたり、テレビというのはそういう、たくさんの人との嬉しいやり取りの、中心に存在するものだった。
ナンシーにとってもそれは同じで、テレビが好きで、テレビを愛し、それをただ受動的に楽しむのではなく、もっと積極的に、つまらない番組でも、見方を変えることにより、こんなに楽しめるんだ、ということを示したのが、あのテレビ批評だったと思う。ナンシーは毒舌と言われていて、今雑誌などでテレビ批評をする人で、ナンシーの批評の形だけを真似して、芸能人をこき下ろしたりする人が何人もいるのだが、そういうものとナンシーの批評は、根本的に違うと思う。ナンシーの批評には、常にその根底に、テレビへの愛情があった。
でも晩年のナンシーの批評を見ると、そのテレビに対する愛情を、失いかけていたのじゃないかと思うところがある。タレントやテレビ制作者に対して、往年の批評のような、毒舌ではあるけれど、クスッと笑えるというものではなく、あたかも抗議しているかのような、まっすぐな論調が増えるのだ。生前単行本に収録する時には、そういうものは全て取り外したのが、死後そういう、単行本に収録されなかったものだけが集められたものを読んで解った。ナンシーにとっては、自分が大好きだった、家族や友達関係の中心にあったテレビが、徐々に変わっていってしまったということを、悲しむ気持ちがあったのじゃないかと思う。そして独身だったナンシーにとって、最愛の存在を失いかけているというそのことが、あの早過ぎる死の理由なのではなかったかと、僕は思っている。
2010-10-29
鶏の鍋
野菜はちょっと前は、肉には水菜を合わせたくなることが多かったが、寒くなるとやはり、白菜、長ネギ。白菜はグルメシティでは、ちょうどいいサイズの1/8カットが売っていて、それが58円だから、菜っ葉にするよりだいぶ安い。あとは油揚げとしめじ。
味付けは、水炊きにしようか迷ったが、結果、うすくち醤油。そうすると、まったく特徴のない鍋になって、名前を「鶏の鍋」という以外に言いようがなかった。
ラトナカフェ
きっかけになったのは、最近行った「SPICE CHAMBER」で、今の日本の主流のカレーは、インドからイギリスを経由して、イギリス人がシチューなんかと同じものとして解釈したものが、日本に入ってきて定着しているわけだが、SPICE CHAMBERではもう一度、インドカレーの原点に戻り、スパイスを自分で吟味することにより、これまでの日本のカレーとは違う、しかしまさに日本人好みといえる、あっさりとしたシンプルな味を創り出している。こういう作業は、インド人には決してできないことだからな。
日本人が作るインドカレーの店というのは、あまり多くはないのだが、家から近くのこの「ラトナカフェ」はその一つ。もっと早く行ってみたかったのだが、この店はスパイス教室もやっていて、そのためしばらく店を休んでいた。店を休んでまでやるスパイス教室って、どんなものなんだ。
日本人が作るインドカレーの店というのは、あまり多くはないのだが、家から近くのこの「ラトナカフェ」はその一つ。もっと早く行ってみたかったのだが、この店はスパイス教室もやっていて、そのためしばらく店を休んでいた。店を休んでまでやるスパイス教室って、どんなものなんだ。
ランチは6種類くらいのメニューがあったが、ここはオーソドックスにチキンカレーを選択。食後のチャイは、ホットかアイスかを選べるようになっている。全て900円で、大盛りは100円増し。
カレーの他に、ちょっとしたおかずも付いていて、サツマイモのサラダと、ナスと厚揚げを煮含めたようなもの。どちらもスパイスが使われているが、とてもうす味。日本でインド料理を食べると、スパイスの風味はかなり強烈な印象があるが、実際にはこういううす味もあるということなのだな。
カレーは二種類付いてきて、豆のカレーと、チキンカレー。豆のカレーは、細かく砕かれた豆が入っているのだが、これもおかずと同じで、とてもうす味。豆の素朴な味が生かされた、精進料理を思わせるような仕立て。
チキンカレーは、スパイスはわりと強めにきいていて、脂ももちろん使われているのだが、インドカレーにありがちな、余分なまろやかさがなく、鶏肉と炒め玉ねぎの味がストレートにする、ワイルドな仕上がり。全体として感じるのは、スパイスや調味料に頼るのではなく、あくまで素材の味を大切にし、スパイスはそれを活かすために使という姿勢だな。
ごはんは玄米と白めしから選べるようになっていて、僕の選んだ白めしは、インディカ米のようだった。かために炊かれていて、カレーには言うまでもなくよく合う。
食べ終わってご主人に聞いてみたら、日本によくあるインド料理屋は、宮廷料理の流れを汲んで、生クリームやらナッツのペーストやらをたっぷりと入れ、こってりとまろやかに仕立てたものが多いのだが、この店はそういうものとはまったく逆、インドのおふくろの味とも言えるもので、インドレストランの調理人が賄いで食べたりするようなものなのだそうだ。
なるほどな。そういう意味ではまさに、素材の味を大事にする、京都らしいインドカレーと言えるのじゃないか。
ラトナ カフェ (カフェ / 大宮駅、四条大宮駅、二条城前駅)
昼総合点★★★★☆ 4.0
2010-10-28
豚ロース塩焼き
民主主義
「民主主義」とかいう、また大上段に振りかぶった題名を付けて、結論が決まっているわけでもなく、色々思っていることもあるから、何か書くことがあるだろうと思っているのだが、大したことが書けるわけがない。でもこの日記は、自分の頭を整理するためのものでもあるのだから、それでもいいのだ。
だいたい菅総理の顔が、まったく見えてこない。仙石官房長官やら、岡田幹事長、蓮舫大臣などの話題ばかりが聞こえてくる。菅総理はたぶん、自分はあくまで監督であり、プレーするのは選手のほうだ、自分は彼らがプレーしやすいような環境を整えることが役割だ、などと思って、部下の話を聞き、その意見を追認し、たまにちょっとした指示を与える、みたいなことで、自分は十分仕事をしていると自負しているのだろう。また部下の方でも、そうやって何でも追認してくれる上司は、自分が思ってもみなかったような指示をされ、仕事が全部やり直しになってしまうような上司に比べたら、自分らにとって好都合だから、上司がそうやって、積極的に指示をしないということを推し進めるはずだ。上司の方はまた、そういう下心があって部下が自分を褒めたりすることを、自分は良い上司だなどと勘違いしたりする。いま菅総理のまわりでは、そういう負のループが、猛烈な音をさせながら回り始めているという感じがする。
そういう「社長気取り」の状態に陥ってしまうというのは、一にも二にも、自分が本来何をしなければいけないかということについて、自覚的ではないからだ。周りの人間にちやほやされるという居心地の良さに負けてしまう。総理大臣の周りの人間が、総理をちやほやする有り様といったら、すごいものがあるのだろう。僕なんか中国マッサージのネエちゃんに、ちょっとちやほやされただけで、すぐ延長したくなってしまうのだから、想像に余りある世界だ。すごいものが色々出てくるのだろうな。女でも金でも、やりたい放題だ。菅総理はこれまで、公私共に貧乏暮らしが長かったから、そういうものに免疫がなかったぶん、骨抜きにされてしまうのも早かったということだ。
しかし、自分がやらなければいけないことというのは、本来、自分の胸に手を当てて、自分で悟ることなのだ。人は決して、自分が本当にやらなければいけないことを教えてはくれない。菅総理は戦後に生まれ、日本の高度経済成長の、一番いいところを謳歌した世代だ。やるべきことは決まっていて、あとはそこで何位になるかだけが問題になる。日本がそうやって、何も考えずに過ごしてしまった数十年というもののツケを、今まさに払っているということなのじゃないかと思う。
菅直人が民主党代表選に勝利して、ひと月ほどがたった。まあ、やはりダメだったな、というのが大方の評価だろうし、僕ももうほとんどそう思っている。日本の総理大臣の座というものは、それはもちろん重いものであるわけだが、総理大臣のまわりで起こることは、中小企業の社長の場合と、根本的にはそれほど変わらないだろう。重役やブレーン、利害関係人の話は聞くが、それではどうしたら良いのかまったく決断できず、けっきょく周りの人間に丸投げするという、典型的なダメ社長の姿と、菅総理の今の姿勢は、よく重なるように僕には思える。
だいたい菅総理の顔が、まったく見えてこない。仙石官房長官やら、岡田幹事長、蓮舫大臣などの話題ばかりが聞こえてくる。菅総理はたぶん、自分はあくまで監督であり、プレーするのは選手のほうだ、自分は彼らがプレーしやすいような環境を整えることが役割だ、などと思って、部下の話を聞き、その意見を追認し、たまにちょっとした指示を与える、みたいなことで、自分は十分仕事をしていると自負しているのだろう。また部下の方でも、そうやって何でも追認してくれる上司は、自分が思ってもみなかったような指示をされ、仕事が全部やり直しになってしまうような上司に比べたら、自分らにとって好都合だから、上司がそうやって、積極的に指示をしないということを推し進めるはずだ。上司の方はまた、そういう下心があって部下が自分を褒めたりすることを、自分は良い上司だなどと勘違いしたりする。いま菅総理のまわりでは、そういう負のループが、猛烈な音をさせながら回り始めているという感じがする。
そういう「社長気取り」の状態に陥ってしまうというのは、一にも二にも、自分が本来何をしなければいけないかということについて、自覚的ではないからだ。周りの人間にちやほやされるという居心地の良さに負けてしまう。総理大臣の周りの人間が、総理をちやほやする有り様といったら、すごいものがあるのだろう。僕なんか中国マッサージのネエちゃんに、ちょっとちやほやされただけで、すぐ延長したくなってしまうのだから、想像に余りある世界だ。すごいものが色々出てくるのだろうな。女でも金でも、やりたい放題だ。菅総理はこれまで、公私共に貧乏暮らしが長かったから、そういうものに免疫がなかったぶん、骨抜きにされてしまうのも早かったということだ。
「自分が何をしなければいけないかということについて自覚的ではない」と書いたが、菅総理は間違いなく、自分ではそうとは思っていない。なぜなら菅総理に対して、周りの人間は、「ああしてくれ、こうしてくれ、総理たるものこうあるべきだ、総理がこうしてくれなければ困る」などと言い続けているはずだからだ。たぶん中国やアメリカなどからも、そうした注文が来ているだろう。それに対して菅総理は、言われた通りにやっているというわけだから、自分はやらなければいけないことを全てやっていると思うことこそあれ、何かが不足であるなどとは、露ほども思っているわけがない。もし菅総理を批判したとしたら、「これ以上自分に何をしろと言うんだよ」と言うだろう。
しかし、自分がやらなければいけないことというのは、本来、自分の胸に手を当てて、自分で悟ることなのだ。人は決して、自分が本当にやらなければいけないことを教えてはくれない。菅総理は戦後に生まれ、日本の高度経済成長の、一番いいところを謳歌した世代だ。やるべきことは決まっていて、あとはそこで何位になるかだけが問題になる。日本がそうやって、何も考えずに過ごしてしまった数十年というもののツケを、今まさに払っているということなのじゃないかと思う。
というわけで、民主主義の話には全くならずに、なんだか終わってしまったのですが、それはそれということで。
朝めし
2010-10-27
豚汁風鍋
調味料は、味噌に醤油、酒にみりん、おろしたニンニクとショウガ、それに韓国唐辛子。今回もアクは取らずに、というかあまりにてんこ盛りだったので、アクを取れずにそのまま調味料を入れてみたが、まったく問題ない。
鍋は基本は、あまりグツグツ煮込まず、野菜などがまだ固いのがあっても、さっと火を弱めてとろ火にしてしまう。初めは硬すぎだったものが、次第に丁度良くなり、そのうちとろとろになっていくという、味の変化もまた楽しい。
中国マッサージ
家から徒歩2分というところに、中国マッサージの店がある。家は、徒歩1分の場所にはガールズバーがあるし、なかなかの環境なのだ。中国マッサージは日本全国津々浦々、繁華街と言われる場所にはどこにでもあるだろう。さすが華僑の伝統を持つ国、自分のところで食えないとなったら、さっさと外へ出ていくのだ。繁華街には以前は韓国人も多かったが、国が豊かになってきたからなのか、あまり見かけなくなってきた。
中国人の女性というのは、日本人に比べると素朴に見えるから、僕のようなバカな男は、すぐにほだされてしまって、優しげな紳士を気取りたくなってしまう。でも実は、中国人というのは国民的に、商売に対して貪欲な人たちなのじゃないかという気がする。中国スナックなどでも、20歳くらいにしか見えない、純情可憐なオネエちゃんが、ドリンクや延長を、何のてらいもなくせがんでくる。罪悪感など微塵も感じていない。
中国はこのところ、経済的に実力をつけてきて、日本ともいよいよ、摩擦が起こり始めている。でもこういうのって結局、それがどんなものであれ、やりたい事がある方が勝つ気がするな。いま日本として向かっていきたい目標とか、なくなってしまっているものな。とは言ってももちろん、ダメなものはダメと、きちんと線を引いていかないと、有り金をぜんぶ取られてしまうことになるのだが。
中国マッサージといってもピンからキリまであるわけだが、家に近くのはピンでもキリでもない、標準的なやつ。エッチなサービスは一切なしで、普通にからだを揉んでくれる。マッサージとかにあまり行ったことがない人は、マッサージ店の良し悪しというものは、技術力で決まると思うかもしれないが、もちろんこれも商売だから、そんな簡単なことじゃない。男の客を相手にして、女が商売するわけだから、当然そこに色んな力学が働くわけだ。
中国人の女性というのは、日本人に比べると素朴に見えるから、僕のようなバカな男は、すぐにほだされてしまって、優しげな紳士を気取りたくなってしまう。でも実は、中国人というのは国民的に、商売に対して貪欲な人たちなのじゃないかという気がする。中国スナックなどでも、20歳くらいにしか見えない、純情可憐なオネエちゃんが、ドリンクや延長を、何のてらいもなくせがんでくる。罪悪感など微塵も感じていない。
日本人的な感覚からすると、オネエちゃんがどんなにかわいく、サービスが良かったとしても、そのことと、そのオネエちゃんにたいしてお金を払うということは、やはり別のことだ。日本というのは、無償の行為が尊ばれる国だから。そこで「システム」というものが登場することになる。オネエちゃんとお客とのあいだにシステムが介在して、これはこういう理由で、当然お金を払うものである、という理屈付けをするわけだ。
ところが中国人の場合、それは何の疑問もなく直結している。「私のことを好きだったらお金をちょうだい」ということを、20歳のオネエちゃんが、屈託なくアピールしてくる。バカな日本人にとっては、そのあり得ないストレートさが、逆にシステムに縛られている自分から見て、かわいらしいことのように思えてしまって、お金を注ぎ込んでしまうことになるわけだ。
中国はこのところ、経済的に実力をつけてきて、日本ともいよいよ、摩擦が起こり始めている。でもこういうのって結局、それがどんなものであれ、やりたい事がある方が勝つ気がするな。いま日本として向かっていきたい目標とか、なくなってしまっているものな。とは言ってももちろん、ダメなものはダメと、きちんと線を引いていかないと、有り金をぜんぶ取られてしまうことになるのだが。
2010-10-26
サバのチゲ
これは考え方としては、サバの味噌煮にコチュジャンとニンニク、唐辛子を加えたというもので、うまいに決まってるだろう、てなもん。汁が魚臭いのじゃないかと心配する向きもあろうが、まっ、たく、もん、だい、なーい。唐辛子とニンニクが、臭みを完全に消し、さらにそれをうまみへと変換してくれるのだ。
しかも今日は、まったくアクを取らないという荒業に出てみた。全然だいじょうぶ。こっちの方がコクがあってうまい、というくらいだ。
鍋に野菜を並べ、水に浸しておいた昆布と水を入れ、僕はいちおう煮立ってからヤンニョムを入れたが、初めから入れてしまっておいても、アクを取らないわけだから、何も問題なかったな。アクを取りたい人は、沸騰してアクを取ってから、ヤンニョムを入れる。5分くらい煮たら、火をトロ火に落として、食べ始めて大丈夫だ。
このところのサバは、脂が乗ってきているから、死ぬかと思うほどうまいです。
「うまさ」の違い
京都というのは、全国的にはあまり知られていないが、ラーメンがうまい場所で、しかもまったく系統の異なる、違ったラーメンがいくつもある。スープが甘辛かったり、豚骨のみを使っただしに、生醤油の品のある風味が一本びしっと通っていたり、ものすごくこってりしていたり、獣臭ただようスープに背脂まで入れて、それを唐辛子で引き締めていたり、それぞれはっきりとした特徴があって、旗印をきちんと掲げている。これは京都という場所が、千年以上都だったということによって培われた、ブランドをつくり上げることのうまさということなのだと僕は思う。ラーメンに限らず、「男前豆腐」などというものにしても、味に特徴があるということに飽きたらず、パッケージまで、他にはどこにもない、強烈なものに仕立ててくるわけだ。
ところが面白いことに広島には、それとは正反対の、対極ともいえる姿勢も見えるのであって、広島には「広島つけ麺」という、冷やした麺を激辛のつけ汁につけて食べさせるというものがあるのだが、この元祖と言われる店では、お客に対して、私語禁止、新聞や雑誌を読みながら食べるのは禁止、残すのは禁止、写真撮影も禁止という、ほとんど軍隊かと思うような、日本の一般的な感覚ではまったくあり得ない、そんな店が存在することすら想像もできないようなことが、普通に行われ、客も嫌がるわけでもなく、それに従っている。これは客の方が、店に対して、「仕える」存在になっているということだと思う。激辛な食べ物というものも、ある意味、舌に対する暴力とも言えるわけで、それを口を腫らし、涙を出しながら、黙って食べるということも、従順さの一つの表現と言えなくもない。
名古屋にいた頃には、僕はあまりラーメンは食べなかったのだが、名古屋には「あんかけスパ」という面白い食べ物があって、「あん」という名古屋独特のソースがかかったスパゲティなのだが、これが食べてみても、何が原料なのかまったく解らない、というものなのだ。名古屋というのは、物事をとにかく重ねていく文化であると思うのだが、その「あん」も同じで、ミンチやトマトや、野菜、果物、スパイスなどなどが入っているとのことなのだが、それら材料のいずれの味も感じず、「うまみ」だけが感じられるというものになっている。個別の材料の味が、わざとしないように、味を調整しているのだと僕は思うのだが、それは広島で特徴を消すということとはまた意味合いが違って、それら多様な材料によって、「純粋なるうまみ」というものを表現しようとしているように思えるのだ。個別の材料に固有のうまみではなく、それを超えた、普遍的なものとしてのうまみ。そういう意味では、これは京都とは対極にあるとも言えるよな。
それに対して広島のラーメン、広島のラーメンというのも、全国的にはまったく無名なのだが、実は広島というのはラーメンがうまい場所であって、その中でもいちばんの老舗店の味というのが、食べた瞬間に、「あ、僕はこういうラーメンが食べたかったんだ」と思ってしまうような、なぜ店主は僕の気持ちが解るのだと思ってしまうような、そういうものなのだ。京都のラーメンとは違って、特徴と言えるものをあげるのは難しく、むしろ特徴などというものは極力感じさせないようにしているとすら思える。そうではなく、客が何を望むのか、それを過不足なく読み取り、その通りのものを出してくる。余分なものは一つもなければ、足りないものもない。まさに神業とも思えるのだが、広島はラーメンだけではなく、老舗の食堂やお好み屋でも、そういう味を出してくるところは多く、それって「人に仕える」ということの、理想的な姿だと言えるのじゃないかと僕は思ったりする。
ところが面白いことに広島には、それとは正反対の、対極ともいえる姿勢も見えるのであって、広島には「広島つけ麺」という、冷やした麺を激辛のつけ汁につけて食べさせるというものがあるのだが、この元祖と言われる店では、お客に対して、私語禁止、新聞や雑誌を読みながら食べるのは禁止、残すのは禁止、写真撮影も禁止という、ほとんど軍隊かと思うような、日本の一般的な感覚ではまったくあり得ない、そんな店が存在することすら想像もできないようなことが、普通に行われ、客も嫌がるわけでもなく、それに従っている。これは客の方が、店に対して、「仕える」存在になっているということだと思う。激辛な食べ物というものも、ある意味、舌に対する暴力とも言えるわけで、それを口を腫らし、涙を出しながら、黙って食べるということも、従順さの一つの表現と言えなくもない。
名古屋にいた頃には、僕はあまりラーメンは食べなかったのだが、名古屋には「あんかけスパ」という面白い食べ物があって、「あん」という名古屋独特のソースがかかったスパゲティなのだが、これが食べてみても、何が原料なのかまったく解らない、というものなのだ。名古屋というのは、物事をとにかく重ねていく文化であると思うのだが、その「あん」も同じで、ミンチやトマトや、野菜、果物、スパイスなどなどが入っているとのことなのだが、それら材料のいずれの味も感じず、「うまみ」だけが感じられるというものになっている。個別の材料の味が、わざとしないように、味を調整しているのだと僕は思うのだが、それは広島で特徴を消すということとはまた意味合いが違って、それら多様な材料によって、「純粋なるうまみ」というものを表現しようとしているように思えるのだ。個別の材料に固有のうまみではなく、それを超えた、普遍的なものとしてのうまみ。そういう意味では、これは京都とは対極にあるとも言えるよな。
水
吉田戦車のコラムに、鍋が好きで、一人暮らしの時代は20個以上持っていた、と書いてあるのを見つけたのだが、実は僕も鍋が好きで、引越しですべて捨ててしまったが、以前、中華鍋3、行平鍋2、土鍋4、その他パスタ鍋やら両手鍋やらで、10個以上持っていたことがある。
これだけの鍋を持つというのは、もちろん必要性はまったくないわけで、そうではなく、東急ハンズやプロ用の調理器具を売っている店に行ったりすると、もうその鍋が欲しくて欲しくて仕方ないと、1度や2度は我慢しても、寝ても覚めても鍋のことを考え続け、というのはちょっと大げさだが、けっきょく買ってしまうと、そういうことになってしまうのだ。
実際僕は、僕が料理にハマったきっかけである、鶏がらだしを自分で取るということをした時も、トロ火で沸騰させないようにやったから4、5時間かかったのだが、そのあいだ中ずっと、鍋の前に張り付き、中の様子を見ていた。これが面白くて、初めに鶏がらから、水に何かが溶け出すのだろう、水の色が黒っぽくなり、それはアクを取ったりしても、なくならないのだが、それがある時さーっと、まるで潮が引いたみたいに、澄んだ黄金色になるのだ。そうするとそれが、だしが取れました、というサインだったりするわけなのだが、その様子を4、5時間、見続けていても、僕は飽きることがない。
料理をするのでも、最近毎日のように食べてる鍋料理とか、まさにそうなのだが、僕は煮るのが好きで、焼くというのはまあ、好き嫌いとかじゃなく、必要上やるが、蒸し物とか揚げ物、和え物などにはまったく興味が湧かない。
でもそういう僕の性質が生かされていると思うところもあって、僕は集団で何かをするという時、やるべきことが上から降ってくるということじゃなく、一人ひとりが自分の思いを語りながら、そしてそれを皆で聞きながら、全体として一つにまとめていくということが、好きなのだ。これは自分が煮るのが好きだということと、同じ好きさであるような気がする。そうやって以前、今でもずっと売れ続けている本を、いくつか作ったこともある。
これだけの鍋を持つというのは、もちろん必要性はまったくないわけで、そうではなく、東急ハンズやプロ用の調理器具を売っている店に行ったりすると、もうその鍋が欲しくて欲しくて仕方ないと、1度や2度は我慢しても、寝ても覚めても鍋のことを考え続け、というのはちょっと大げさだが、けっきょく買ってしまうと、そういうことになってしまうのだ。
男は何をするにも、道具に凝ることが多いと思うが、これもその一つなのだろうと思う。釣りの好きな人は、その延長に包丁に凝ったりする人がいると思うが、僕は包丁にはまったく興味はない。あとキャンプ用品というのも、けっこう凝り方としてはあると思うが、僕はそれにも興味がない。もう鍋だけ。しかも鍋に似ていると思われる、フライパンには興味がない。でも中華鍋は好き。というのを分析すると、ぼくは「煮る」のが好き、ということになるのだと思う。
実際僕は、僕が料理にハマったきっかけである、鶏がらだしを自分で取るということをした時も、トロ火で沸騰させないようにやったから4、5時間かかったのだが、そのあいだ中ずっと、鍋の前に張り付き、中の様子を見ていた。これが面白くて、初めに鶏がらから、水に何かが溶け出すのだろう、水の色が黒っぽくなり、それはアクを取ったりしても、なくならないのだが、それがある時さーっと、まるで潮が引いたみたいに、澄んだ黄金色になるのだ。そうするとそれが、だしが取れました、というサインだったりするわけなのだが、その様子を4、5時間、見続けていても、僕は飽きることがない。
料理をするのでも、最近毎日のように食べてる鍋料理とか、まさにそうなのだが、僕は煮るのが好きで、焼くというのはまあ、好き嫌いとかじゃなく、必要上やるが、蒸し物とか揚げ物、和え物などにはまったく興味が湧かない。
ところが僕が好きなのは、単に煮るということだけではなく、例えば洗濯とかも、好きだったりする。それが、べつに物をきれいにするのが好きということではなく、例えば洗濯機が回っているのを、上から見るのが好きなのだ。衣類がじゃぶじゃぶする水の中で、右往左往している様子。これも気を付けないと、ずっと見続けてしまったりする。
あと小さな頃、僕が大好きだった遊びがあって、それは洗面台に水を張って、そこに色紙を入れていくこと。そうすると色紙の色が水に溶けて、色んな違った色の色紙を入れれば、その色が混ぜ合わさって違った色になり、最後には黒っぽくなってしまうのだが、僕はそれをしょっちゅうやっていた記憶がある。
というようなことを考え合わせるに、僕は水に何かを入れて、ぐつぐつ、じゃぶじゃぶとしながら、そこから何かが水に溶け出していき、混ぜ合わさっていくという、そういうことが好きらしい。なぜ僕がそういうことが好きなのか、自分でもまったく解らないし、他に同じような嗜好の人がいるのかどうかも、聞いたことはない。
でもそういう僕の性質が生かされていると思うところもあって、僕は集団で何かをするという時、やるべきことが上から降ってくるということじゃなく、一人ひとりが自分の思いを語りながら、そしてそれを皆で聞きながら、全体として一つにまとめていくということが、好きなのだ。これは自分が煮るのが好きだということと、同じ好きさであるような気がする。そうやって以前、今でもずっと売れ続けている本を、いくつか作ったこともある。
朝めし、モギケン
ただこれは、粉チーズが汁に溶けて、それが鍋やスプーン、器にこびりつき、それを洗うのが、ちょっと大変だな。
朝ツイッターを見たら、茂木健一郎が朝からUストリームで一人ライブ放送をやるというので、早速見てみた。
モギケン、って僕は茂木氏のことを、勝手にモギケンと呼んでいるのだが、発信力高いのだよな。実は僕は10年ほど前、茂木氏、っていきなり呼び方変更だが、とは何度か会って、いっしょに飲みに行ったこともあるのだが、その飲み屋へ行っても、リュックからノートパソコン、って当時まだバカでかかったマックブックだっと記憶するが、を取り出して、茂木氏が当時盛んにやっていたメーリングリストや掲示板をチェックしていた。それらは今、ツイッターに移行したみたいだが、ネットを通じて大勢の人とやり取りするということは、茂木氏は昔から活発にやっていたのだ。
僕がかかわるカレッジへ来た時も、その感想をA4一枚くらいにまとめたものを、とくべつ頼みもしないのに、すぐに翌日送ってくれた。茂木氏はべつに、依頼されたどうのこうのということではなく、自分が何かを、即興的に文章にまとめるということを、訓練のように続けていたのだな。その訓練はその後花開き、文筆家として大成したわけなのだが、訓練自体は今もツイッター上で、「連続ツイート」という形で続けられている。僕もそういう姿勢に、影響されることは大きいのだ。
ツイッターでのライブ放送も、理由なく思い付いたそうだが、30分間、音楽もかけながら、さながらDJ、視聴者からのツイートによる質問に答えていた。これも茂木氏にとっては、訓練のようなものなのだな。毎朝45分、ランニングもしているのだそうだ。しかもウォーミングアップなしで、いきなり走り出す。からだに悪いと思うのだがな。僕はそういうところは真似しないのだ。茂木氏はいきなり朝からトップスピードなのだそうだが、僕は起き抜けはダラダラして、午後も昼寝したりして、夕方頃からトップスピードに入る。
2010-10-25
鶏もも肉のトマト鍋
味が決まったらブロッコリーとしめじを入れて、ぐつっとさせたら出来上がり。
いやこれ、かなりバッチリだったと思います。作っているあいだ、煮込もう、などと思わなくて全然よくて、かまわずガンガン作業を進めていく。野菜がちょっとくらい硬くても、卓上のコンロでとろ火で温めておくと、そのあいだに火が通る。
手づくり洋食屋 手塚
東京に住んでいた頃には、洋食屋というものはついぞ見かけたことがなく、浅草とかにでも行けば、老舗の店があるのかもしれないが、それ以外はもう死に絶えたと思っていたら、東京以外の町には、けっこうあるのだな、洋食屋。名古屋でもけっこう見かけたし、広島では「喫茶店」と名前の付くものが、実は洋食屋だったりする。それも不思議なのだが。
とりあえずビール。この頃は、昼にはビールは飲まないようにしていて、それは午後眠くなってしまうからなのだが、考えてみたら、ビールを飲まなくても、午後は眠くなるのだから、そんなことあまり気にすることでもなかったのだ。
メニューの筆頭はチキンソテーだったが、ここはやはり洋食の定番、ハンバーグを注文。定食で850円。
ハンバーグ定食。
洋食屋といえば、やはりポイントは、何といってもドミグラスソースだろうが、ここのドミグラスソースは、たぶんトマトが入っているのだな、赤みがかっていて、ちょっと酸っぱい。たしかにドミグラスソースって、日本人的にはどうかと思わなくもないな。実際とんかつについては、ドミグラスソースは放棄して、もっと酸味がある、ウスターソースになってしまったわけだからな。この店も同じ考えで、本式にこだわるよりも、日本人の嗜好に合わせた、ということなのだろうと思う。
付け合せは、粉チーズのかかったパスタと、ザワークラウトをベーコンと一緒に煮含めたようなもの。粉チーズと、トマト風味のソースが、なかなかマッチしていてよい。サラダはべつに付いている。ドレッシングはゴマ風味。
これに、この店では味噌汁とタクワンが付いてくる。洋食屋というのは、こだわったスープを出したりするところが多いが、いやたしかに日本人にとっては、白めしを食べるには、味噌汁とタクワンの方がいい。これは洋食屋としては、「定食屋」と呼ばれてしまう危険を孕むわけだが、あくまで現実的なのだな、この店は。
全体としてこの店、洗練されていながら現実的。二律背反をあわせ持った、なかなかのセンスと言えるのじゃないでしょうか。
手づくり洋食屋 手塚 (洋食 / 丸太町駅(京都市営)、二条城前駅、烏丸御池駅)
昼総合点★★★★☆ 4.0
京都も例外ではなく、洋食屋は多い。繁華街のことはよく解らないが、住宅街の裏通りなどに、いかにも「街の洋食屋」という風情の店を、ものすごくたくさん見かける。これどうなんだろう、ほかの都市に比べても、京都には洋食屋が多いのじゃないかという気がするのだがな。
京都といえば、当然和食だろうと、外から見ると勝手にイメージするのだが、実はラーメンがうまかったり、この洋食屋や、あと喫茶店とパン屋も多い。不思議なところだ。京都といえば、まずは「古都」なのだが、同時に大学の街でもあるわけだから、意外に進歩的なのかもな。共産党も盛んだし。歴史と革新が共存するところなのだ。おもしろいな。
この「手づくり洋食屋 手塚」は、食べログで調べて、わりと評判がよかったから来てみた。わりと新しい感じの、こぎれいな店。どちらかといえば、女性にターゲットを当てている感じ。午後1時をだいぶ過ぎて行ったのだが、ほぼ満員に近かった。
付け合せは、粉チーズのかかったパスタと、ザワークラウトをベーコンと一緒に煮含めたようなもの。粉チーズと、トマト風味のソースが、なかなかマッチしていてよい。サラダはべつに付いている。ドレッシングはゴマ風味。
これに、この店では味噌汁とタクワンが付いてくる。洋食屋というのは、こだわったスープを出したりするところが多いが、いやたしかに日本人にとっては、白めしを食べるには、味噌汁とタクワンの方がいい。これは洋食屋としては、「定食屋」と呼ばれてしまう危険を孕むわけだが、あくまで現実的なのだな、この店は。
味噌汁は赤だし。京都といえば、白味噌が有名だが、赤だしが出てくることもけっこう多い。だしもうす味かと思っていたら、真っ黒なラーメンもあったりするし、要は京都というのは、名古屋が何にでも八丁味噌を使うというように、白味噌やうす味にこだわっているということではなく、その料理に合わせて、TPOをわきまえた調味料を使うということなのだ。考え方が洗練されているのだよな。実際ハンバーグには、赤だしが実によく合うと思った。
全体としてこの店、洗練されていながら現実的。二律背反をあわせ持った、なかなかのセンスと言えるのじゃないでしょうか。
手づくり洋食屋 手塚 (洋食 / 丸太町駅(京都市営)、二条城前駅、烏丸御池駅)
昼総合点★★★★☆ 4.0
2010-10-24
レバニラ炒め
炒め物はまさに時間との勝負で、一瞬の気の緩みが、結果を大きく左右することになるから、炒め始める前に、材料も調味料も、すべて準備して、精神を統一してから始めないといけないものだと思うのだが、今日はニラは炒めている最中に切ればいいやと、横着をしたその瞬間、調味料を合わせておくのも一緒に忘れて、レバーを炒めながら、ニラを切り、調味料を合わせと、バタバタになってしまい、レバーがちょっと炒めたりなかったり、野菜は逆に炒め過ぎたりして、出来上がり的にはちょっとイマイチだったかな。調味料に味噌とコチュジャンを入れてみようと思っていたのも、時間がなくなって出来なかったし。
ポイントとしては、レバーにきちんと味を付けておくこと。適当な厚さに削ぎ切りしたレバーは、水で洗い、中に固まっている血を落として、そこに塩、醤油、酒、おろしたニンニクとショウガ、などを入れてよく揉み込み、さらに片栗粉とゴマ油を加えて、全体をよく混ぜておく。
いやまあしかし、悪くはないっすよ。食べられないとか言うことは、全然ないっす。
ツイッター
ツイッター、僕もけっこうアクティブに活用していて、今では生活の中に、なくてはならない存在となっているのだ。ってもちろん、なくなったらなくなったで、何とかするとは思うけど。
ツイッターがどんなものか、知らない人のために説明しておくと、ひとことで言うと、メールとブログとチャットの、おいしいところだけを取り出し、ひとつにまとめたものだ。これまでの、ネットにおける三大コミュニケーションツールを、ひとつにまとめてしまったようなものだから、そりゃ人気になるのも当然なのだ。
ネットを使っている人は、まずは最低限、メールは使っているのだろうが、自分が具体的な誰かに向けて、その誰かというのは、一人である場合もあるし、複数である場合もあるわけだが、言いたいことを送ったり、誰かが送ってきたメールに返信したり、それを人に転送したり、ということをする。ツイッターも、それと同じものであるという側面もあるのだが、違うのは、メールの場合、やり取りする相手というのはあくまで、自分が実際にメールアドレスを聞いた人か、または誰かが送り先として指定してきたか、というものに限られるのであって、あくまで閉じられている。メールを実際にやり取りしている人たち以外の人は、そのやり取りを知ることはできないわけだ。
ところがツイッターの場合、やり取りは基本的に開かれた場の中で行われていて、メールを送ったり、受け取ったりする相手に相当する「フォロワー」は、もちろん自分が直接、相手に知らせることもできるのだが、それ以外に、登録したメールアドレスを頼りに、自分の知り合いが、勝手に自分を見つけてくる場合もあるし、さらには検索機能を使って、自分の発言に興味を持った、見ず知らずの人が、自分をフォローしてくる場合もある。だからひとつの言い方としては、ツイッターとは、知り合い以外の開かれた人たちと、メールのやり取りをするものであると、そう考えることもできる。
ツイッターの場合、その「開かれている」というのが、全世界に向けて完全にオープンになっているので、自分の発言を、世界のとんでもないところにいる人が見るという可能性もあって、実際面白いツイートは、皆が転送することによってどんどん広まっていくし、そういう広がりの規模が大きいところが、ツイッターの楽しみであるとも言われている。
またツイッターが、そうやって不特定多数に向けて開かれたものであるという性質上、誰かとやり取りをするということではなく、自分のメッセージを発信するという、簡単なブログのようなものとして使うこともできる。字数が140文字までに限定されているので、逆に発信するのも手軽だし、読むのも手軽だ。だからやり取りではなく、発信だけのためにツイッターを使っている人も多い。
またツイッターが、そうやって不特定多数に向けて開かれたものであるという性質上、誰かとやり取りをするということではなく、自分のメッセージを発信するという、簡単なブログのようなものとして使うこともできる。字数が140文字までに限定されているので、逆に発信するのも手軽だし、読むのも手軽だ。だからやり取りではなく、発信だけのためにツイッターを使っている人も多い。
さらにツイッターは、ある人数の人を登録してあれば、誰かはかならず、同じ時刻に発言していたりするわけで、それに対して返信をし合うということになると、リアルタイムでのやり取り、チャットと同じようなことになる。でもチャットの場合は、リアルタイムでのやり取りが目的だから、そこに集中していないと、会話がすぐ解らなくなってしまうのに対して、ツイッターの場合は、やり取りがもう少しゆるいので、そこまで集中しなくても、話の流れはきちんと解るようになっている。
ネット上には、色々おかしい人もたくさんいて、ブログに対するコメントや、掲示板やチャットなどは、めちゃくちゃなことが書き込まれることも多いわけだが、ツイッターは基本的に、自分の発言の履歴を誰でもが見られるようになっているから、いつもは大人しいのに、その時だけ凶悪なことを書く、ということは、できにくいようになっているし、また「ブロック」してしまえば、その人の発言は、二度とこちらに届かないようになるから、おかしな人によって多大な迷惑を蒙るということは、少ないような仕掛けになっている。
とまあ、僕のブログを見てくれている人でも、ツイッターをやっていない人は多いので、長々と説明してしまったわけなのだが、僕はツイッターを、まったく価値はないけれど、誰かに言わずにはおられないことを言う場として使っている。
僕はひとりで住んでいるから、家の中には話し相手がいない。ひとりで暮らし始めた頃、いちばん困ったのは、たとえばテレビを見ていて、思わず笑ってしまった場合など、そのおかしさを誰かに言いたいのだが、言う相手がいないものだから、ひとりである自分を思い出すことになってしまって、そうすると今度は急に寂しく、悲しくなってしまうということが、よくあった。最近は、まさにそういうとき、ツイッターに書き込むようにしている。べつに返事が欲しいわけではないのだが、もしかしたら誰かが見てくれるかもしれない、という場所にそれを書き込むことで、十分満足するのだ。
読むのも同じで、僕は情報として価値があるものよりも、完全に自己満足でやっている人のものを読むほうが楽しい。色々な情報を送ってくる人が、次々とフォローしてきたりするのだが、そういう人をこちらからフォローするのは、もうやめてしまった。ツイッターを通して、情報など欲しくないのだ。あとやけに礼儀正しい人もいて、朝起きると「おはよう」とか言ってくる人がいるのだが、そういうものも全部切ってしまった。べつにツイッターに、人間関係はいらないのだ。
最近は、朝起きたり、夜寝る前とかに、ベッドの中にノートパソコンを持ち込んで、ツイッターを見るのが楽しみになっていて、訳の解らないつぶやきを見たり、自分で訳の解らないことをつぶやいてみたりするのが、睡眠と覚醒のあいだのぼうっとした頭には、なんとも心地良い。
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