何がそんなに面白いのかというと、この人、僕と、物事を考えるクセみたいなものが、そっくりなのじゃないかと思うのだよな。
ってべつに、これは自分との共通点を自慢したいとかいうことじゃなく、郡司さんがそれだけ、たくさんの人に支持されうる広さ持っているということなのじゃないかと言いたいのだが。
最近では僕は、マイケル・ポランニー、小林秀雄、そしてこの郡司さんだな、強烈に面白いと思った人は。
ビッグスリー。
今回僕は、郡司さんの考え方の内容について、ちょっと書いてみたいと思ってるんだが、書けるかどうか自信がない。
郡司さんは哲学についての素養がものすごく深くて、もうほとんど哲学者と言ってもいいくらいなものなのだが、僕はそういうの、全然ないからな。
でもあえてひとことで言ってしまえば、物事にはつねに、どんなものにも、「全体」と「部分」という二つの側面があり、人間を初め生命はすべて、この二つの側面から世界を認識しているのだ、ということなのだ。
郡司さんはもちろん、このことを、こうやってただざっくりと文章で表現するということではなく、哲学的に明確な形にし、さらにそれを数学で表現し、コンピュータでシミュレーションすることによって、現実の粘菌だとか、鳥の群れだとか、人間の認識についてのある心理実験だとか、そういうものと比較するということをしているということなのだな。
その前提として、こういうことがあって、これは郡司さんも「生命壱号」の中で書いているのだが、地球の深海の奥底の方に、もしかしてまだ人間が存在を認識していない、未知の生物がいるとして、って実際、こないだもそういうものが大量に見つかったと新聞に書いてあったから、そういうものはいるはずだと思うのだけど、それは人間にとって、存在すると言えるのか、という問題がある。
人間にとって存在する世界というものは、人間が現に認識しているものだけである、という言い方も、たしかにできないことはないわけだ。
だって人間は、自分が認識できない世界を、知りようがないとは言えるわけだから。でもそれとはべつに、世界というものは人間が認識しようがしまいが、あくまで存在し、人間がそれを認識できるということは、世界の側に、それを可能にするような何かの働きがあるからだ、という考え方もある。
このあたりのこと、下手に踏み込むと大変なことになるので、このくらいにしておくが、この、世界というものを形作っている基本となるものが、認識なのか、それとも存在なのか、ということは、これまで長らく議論の中心となっていたものであって、決着がついていないものだ、というのだな。
同じような問題として、「生きもの」というものを考えるとき、それが「機械」と同じようなものなのか、それともそうではなく、機械の働きには還元できないような、「生気」とでもいう、生きものに独特なあるものが存在するのか、という問題もある。
これは現在の科学では、生気は存在しない、生きものはあくまで、機械の一種であって、生きもののふるまいはすべて、分子一つ一つのふるまいからさかのぼって、説明することができるのだ、ということになっているが、しかし例えば、人間が誰でもあきらかに持っていると知っている、人間の「意識」などというものについて、分子の働きから説明するということについて、いまだその手がかりすら見つかっていないということはある。
いや手がかりくらいは、見つかっているのかもしれないが。
しかしこの全体と部分というもの、そうやって簡単に口で言ってしまえるようなものではない、なかなか奥深い事情があるのだ。
「部分」というのは、そのあたりにある石ころでもいいし、分子のひとつひとつでもいいし、そういうものを示すものだから、誰もが知っているようなものであるのだが、「全体」ということが難しい。
言語学では、「一語文」と呼ばれたりはしているが、単語が組み合わされて、文ができるという考え方からは、本来、このひとつの単語が、同時に文でもあるということは、導き出せないものだ。
郡司さんが言うのは、そういう問題について、その「どちらなのか」を問うてしまうことが、そもそも間違いなのであって、認識と存在、生気と機械、それら全体性をもつものと、個別性をもつものとをあわせることによって、それをひとつのものとして説明していくということを考えなければいけないのだ、ということなのだ。
しかしこの全体と部分というもの、そうやって簡単に口で言ってしまえるようなものではない、なかなか奥深い事情があるのだ。
「部分」というのは、そのあたりにある石ころでもいいし、分子のひとつひとつでもいいし、そういうものを示すものだから、誰もが知っているようなものであるのだが、「全体」ということが難しい。
「ことば」についての例で考えてみると、これまでの言語学では、「文」というものは、まず「単語と」いう部分があって、それがいくつか、文法という規則でつなぎ合わされて、できていると考える。
文という全体は、単語という部分の組み合わされたものだ、というわけだ。
それはもちろん、正しいには違いないだろうが、それではそこで、小さな子どもが、って、大きなオヤジもそう言うときがあるが、お母さんや奥さんに対して、「牛乳」と言ったとする。
大きなオヤジは「めし」とかだろうけど。
牛乳や、めしは、言語学的に言えば単語であり、部分であるはずのものなのだが、実際にはそれらは、「牛乳をくれ」とか、「めしをくれ」とか、完結した意味を運ぶものになっているのであって、すでに全体をもっている。言語学では、「一語文」と呼ばれたりはしているが、単語が組み合わされて、文ができるという考え方からは、本来、このひとつの単語が、同時に文でもあるということは、導き出せないものだ。
同じようなことを、郡司さんは「生命壱号」の中で、「砂山のパラドックス」というものとして説明している。
ここに砂の山があると。
砂の山というものは、砂粒がたくさん集まってできたものである。
であるから、砂の山から、砂粒をひとつ取り出してみても、それが山であることには変わりがない。
ということで、砂山から、砂粒を取り出すという作業を、何遍もくりかえしていくと、山はどんどん小さくなり、終いには砂粒ひとつが残ることになる。
しかし、初めに、砂山から砂粒をひとつ取り出しても、それは砂山のままであると定義した以上、残った一粒の砂粒も、山であると考えなければならない。
これは矛盾、パラドックスであると。
これまで、この砂山のパラドックスは、全体と部分とが、うまく折り合いをつけることの難しさを表すものとして、例に出されてきたものだそうなのだが、それを郡司さんは、考え方を180度、変えてしまうわけなのだな。
砂粒が砂山、上等じゃないか、それでいいのだ、というわけだ。
べつに「山」というものが、砂粒がいくつ以上あったら、それは山ということにしましょうと、あらかじめ決められたことではない。
というより、山という全体は、もともとそのように、砂粒が何粒以上なら山で、それ以下なら山ではない、などというように、はっきり決められないものなのだ。
全体と部分とは、正反対のものでありながら、その境目をはっきりと決めることができない、決めることができないというところに本質があるのであって、それならば、そういう、決められないモデルを作ってみようじゃないかということで、郡司さんはコンピュータのシミュレーションに取り掛かるというわけなのだな。
それが「生命壱号」というものなのだ。
たぶん。