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2012-01-31

人を信用する方法。
「残り野菜の鶏鍋」


この年になると、世の中で、色んな人間を見てくることになる。

若い頃には、面白そうなことがあれば、すぐに飛び付くことができるけれども、信用したと思った人が、実は後で、信用ならぬ人だったと分かるというようなことを、何度か繰り返すうちに、人間というものは、そう簡単に信用してはいけないものだと学ぶようになる。

しかしもちろん、ある程度は人を信用しないと、世の中でやっていくことはできないから、なんとか折り合いをつけていくのだけれど、結局のところ、生きていくとは、闘うことだと、深く認識することになるのだろう。



闘うことは、もちろん必要なことだけれど、それでは闘いは、何を生み出すのか。

勝者には安穏とした生活が、約束されてはいるだろうが、しかしそれも、いずれは終わりを告げる。

おごれる者は、久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。

平安時代の人たちの諦念は、現代にも変わらず、人の心をうつ響きがある。



闘いは、避けられないことだけれど、しかし闘いだけが世の中だとは、思いたくない。

それはべつに、今に始まったことでなく、人間が生まれてこの方、考え続けてきたことだろう。

一時の勝利ではなく、永続する価値を求め、人間はさまざまな文化を生み出してきた。



人間は、勝たなければ生きていけないのは、確かなことだ。

しかしほんとうの問題は、勝つことにあるのではない。

勝つことにより、何を成し遂げようとするのかが、問われなければならない。

勝つこと自体が目的であるのなら、それは何ともつまらないことだ。



ただこの目的ほど、他人から見えにくいものはない。

目的など、いかようにでも、口にすることができる。

崇高な目的が、勝利をおさめた途端に取り下げられるのを、人は何度、目にしてきたことか。

人がただ口にする、その目的を、そのまま鵜呑みにすることは、ただの世間知らずというものだろう。



人が口にする言葉を、信用できるかどうか、判定できるものは、ただ、その人の行動にしかない。

自分が口にする言葉を、その人自身が信じているかどうかは、その人が口にする言葉通りに、その人が行動するのかどうかを見ればよい。

勝つために、その人が口にしている言葉と、違うことをするのなら、その人は、自分の言葉を信じていない。

自分の言葉を信じていない人の、口にする言葉を信じてはいけないことは、言うまでもないことだ。





昨日は何を食べようか、考え始め、ふと冷蔵庫をのぞいてみた。

そこに見つけたものは、大根、ニンジン、シイタケ、ゴボウ。

そして戸棚には、ジャガイモ、玉ねぎ。

これだけあれば、メニューは決まりだ。

鶏肉といっしょに煮込み、醤油味の鍋にする。



昆布と削り節でだしを取り、酒とみりん、それに醤油で味付けする。

うすくち醤油を使うのは、ただ汁の色が、黒くならないようにするためだ。



味付けした汁に、材料をすべて叩き込む。

ゴボウとジャガイモは、切ったらしばらく水に浸してから入れる。



鍋を煮ながら、酒を飲む。

つまみはスグキと、豆腐よう。



15分ほど、アクを取りながら煮れば、出来あがり。

七味と青ネギをふって食う。



餅を入れ、雑煮にするのもいい。



2012-01-30

日本を変えるただ一つの方法。
「常夜味噌鍋」


生活を変えるのは、意外に難しいことだというのは、僕にも分かる。

生活は、「習慣」として進んでいくところも大きいから、いつでも保守的な側面をもつ。

やり慣れていることを、「やらない」というのは、ほんとうにそれで大丈夫なのか、なかなか確信がもてず、踏み出す勇気が出ないものだ。



やったことがないことは、どんなことでも、「分からない」ものだ。

人には、会ってみなければ、どんな人だか分からない。

新しい店は、入ってみなければ、どんな店だか分からない。

思い付いた料理も、実際に作って、食ってみなければ、どんな味がするのか、ほんとうのところは分からない。

未知のものは、言い換えれば、経験による実績がないわけだから、経験済みの実績あるものと天秤にかければ、経験のあるものが、いつでも信頼性は、高いことになる。



若いうちは、自分自身が経験したことが、そう多くないために、新しいことをやってみるのに、ためらうことも少ないけれど、年を経て、経験が増えるにしたがって、新しいことをするのが怖くなる。

今のままでも、べつだん食うに困るわけでもなし、それならば、失敗の危険を犯して、新しいことをするよりも、現状維持のほうがいい。

それはもちろん、間違ったことではないし、それこそが、「大人の分別」というものだろう。



しかし「内なる声」というものがあることも、これまた事実だ。

人間は、どんなに機械化された世の中に住んでいても、自分の中に大自然を飼っている。

多くの場合、世の中と、自分の内なる大自然との折り合いをつけることは、なんとかうまく行くけれど、それがどうしても、うまく行かなくなることだって、長い人生の中にはあるものだろう。

折り合いがつかないまま、解決できずにいるうちに、人間は病気になったり、自ら死を選んでしまったりすることもある。

自然の力は強いから、どんなになだめすかし、都合がいいようにさせようと思っても、言うことを聞いてくれるものではない。



そういう時には、腹を決め、自然の言うことを聞くしかない。

そのためには、今持っている何かを、捨てなければいけない。

何を捨てたらいいのかは、自然が教えてくれる。

それも、中途半端ではいけない。



水泳で、息継ぎをする時、「息を思い切り吐けば、自動的に吸えるものだ」と習ったことがある。

初心者は、肺に息が残っているのに、さらに息を吸おうとするから、息継ぎがうまくできない。

息を吸うことを考えるのでなく、思い切り吐くことだけを考えれば、あとは身体が、自動的に息を吸ってくれるものだと。

何かを捨てようとする時も、おなじだろう。

中途半端に何か残しておくことをせず、徹底的に捨ててしまえば、あとは自分の自然が、なんとかうまく、やってくれるものだ。



何かを捨てることは、自分の生活の一部をなす、欠かすことができないと、それまで思っていたものを、取り外すことになる。

だから捨てることには、かなりの勇気がいるけれど、何かをほんとに変えようと思うのなら、それをやらなければ仕方がない。

仕方がないから、やるしかない。

たいへん簡単なことなのだ。



「日本を変える」と、坂本龍馬気取りの人が多いご時世となっているが、日本など変えられるわけがない。

「日本」などというものは、ない。

ただあるのは、国民一人ひとりの「生活」だけだ。

国民一人ひとりの生活が、集まったものが、「日本」なのだろう。

政治家を替えたって、日本など変わるわけがない。

国民の生活が変わらないのなら、どんなに何を変えたって、日本は今のままだろう。



でも、少なくとも明らかなことは、ちょっとした勇気を持ちさえすれば、自分の生活を変えることは、できる。

自分の生活を変えること、そのものが、日本を変えることだと、知ることが必要だ。





昨日は、ほうれん草が食いたいと思った。

青菜はどれも好きだけれど、やはり甘みがあり、やわらかなほうれん草は格別だ。

ほうれん草というと、瞬間的に連想するのは、豚肉、常夜鍋。

しかし常夜鍋も、あまり連発するのも芸がない。



それで、常夜鍋を、水炊きにするのでなく、味噌味で炊いてみた。

昆布と削り節のだしをとり、ここに赤だし味噌をたっぷりと溶き込む。

味噌なら何でもいいかもしれないが、やはりグツグツ煮込むには、赤だし味噌は最高だろう。

好みで砂糖やみりんを、入れてみたって悪くはないが、ここはむしろ、味噌だけの方が、素朴な味がしてうまい。



材料は、豚コマ肉、ほうれん草、安売りをしていた、中国産のシイタケ、油揚げ。

ほうれん草は、そのまま入れるとアクが出るから、かならずさっと下茹でしておく。



一回に食べる分だけ、鍋で煮る。

ほうれん草は、下茹でしてあるから、最後に入れて、温めるだけでいい。



七味をふって食う。

これは、うまい。

豚肉が、味噌と合うのは言うまでもないが、ほうれん草も、味噌と合う。

ほうれん草の味噌汁の感覚だ。

油揚げとシイタケに、味噌味のだしが、たっぷりと染みこむのもいい。



豚のだしがたっぷり出た、残り汁で煮るシメのうどんは、まさに、絶品。



2012-01-29

池波正太郎に学ぶ日本の未来。
「ねぎま鍋」


池波正太郎が、

「鯛の刺身を、良い酒をすこし落とした醤油をつけ、塩をつまみ入れた熱い煎茶を吸い物がわりにし、ご飯といっしょに食べる」

というその食べ方が、なぜそれほど魅力的かといえば、それが池波自身の手によって、自分の家で長年にわたり、鯛の刺身を食べるうちに、編み出されたものだからだ。

煎茶に塩をつまみ入れたものを吸い物がわりにするなど、どこの料理屋でされているとも思えない。

料理の本にだって、載ってはいないだろう。

料理屋や料理の本など、商業ベースの場所には絶対にない、家庭にだけ存在し得るものの匂いがする。



また煎茶に塩をふり入れて吸い物にするなど、横着ともいえそうなことを、池波の奥さんが考え出したとも思えない。

これはやはり、男が、自分の家で、自分自身が食べるために考え出した食べ方だと、強く感じられることになる。



この種の、男が自分の家で、考え出した食べ方について、池波は「そうざい料理帖」の中で、いくつか紹介している。



たとえば、「豚肉のうどんすき」。

作家子母沢寛の家に招かれた時、話を聞いたというもので、豚肉を鍋にたぎらせた湯で煮たあと、そこへうどんを入れ、醤油にみりん、昆布だしのタレで食べる。



また池波が10代のころ、ちょくちょく家に遊びに行った、「三井さん」が食べていた、大根の煮たのの話もある。

厚く輪切りにした大根を、長火鉢にかけた土鍋で、昆布だけ敷いて気長に煮る。

そのあいだ三井さんは、手製のイカの塩辛で酒を飲む。

大根が煮上がる寸前に、鍋に少量の塩と酒を振り込み、皿にうつし醤油を2、3滴落とした大根を口に運んだ三井さんは、

「む・・・・・・」

と、いかにもうまそうな唸り声をあげたという。



このように戦前までは、男が自分が食べるものに関して、誰に教わるということでもなく、主体的に考えるということが、日常の風景だったということだろう。

しかし現代では、それはとても珍しいものになってしまったのではないか。

多くの男は、会社帰りにどの店へ食事に行くかとか、その店で何を注文するか、というところまでは考えても、家ではただ、奥さんに出されたものを、文句を言わず食べることに甘んじている。

たまに腕まくりをして、凝った料理を作ることはあっても、それが日常となることはない。



池波正太郎は、「食卓の情景」で、旅に同行した若い友人「片岡君」について書いている。

旅先の料亭で、うまいものを食い、片岡くんに「うまかったかい?」ときくと、片岡くんははにかんだようにうつ向き、

「ええ、でも納豆と味噌汁が食べたかった・・・」

という。

納豆と味噌汁くらい、奥さんに作ってもらえないのかときくと、新婚半年の片岡君、

「ええ、ワイフがそんなのは下等だからといって、朝食にはハムエッグとトーストしか食べさせてもらえないんです・・・」

腹を立てた池波、

「食べたくないものが出たら、お膳をひっくり返せ。そうしないと、一生食いたいものは食えねえぜ」

とタンカを切ったが、片岡君の顔色は冴えなかったという。



池波が若い頃ならともかく、今、男が奥さんの作った料理が乗ったお膳をひっくり返しでもしたら、即離婚は間違いないところだ。

しかし、池波の言うことにも一理ある。

人間が、自分の食べるものについて、主体的に考えることは、べつに男や女にかかわらず、本来「生活の中心」ともいえることであるはずだろう。

それを現在、なぜか、多くの男が、できないこととなってしまっている。



言うまでもなくこれは、男が悪いのでもなく、ましてや女が悪いのでもないだろう。

ここにこそ、現在の「日本」の問題が、凝縮して表れているといえるのではないか。

敗戦により、日本人はそれまでの流儀を捨て、生活のスタイルをアメリカからの輸入に頼るようになった。

自分がほんとうに食べたいものを考えようとするのでなく、テレビや映画で、アメリカ人が食べているものを、真似して食べるようになる。

その結果、日本の家庭から、「食」が消えてしまいかけているとすら、いえる状況なのではないか。



僕自身は、離婚して一人で暮らしているから、仕方なく、毎日の食事を自分で作っているともいえるのであって、奥さんのいる男が、どうしたら、自分の食を主体的に考えることができるようになるのか、よくわからない。

もちろんそれは、男が家庭の専制君主となることではないだろう。

しかしそれを考えようとしていくことの中に、日本の明るい未来が見えてくるのではないかという気も、しないこともない。





昨日食べたのは、池波正太郎「そうざい料理帖」に載っている、「ねぎま鍋」。

池波は、「大トロの」ねぎま鍋として書いている。

池波が子供の頃は、マグロは何といっても赤身で、大トロなど寿司屋でも出さなかったし、魚屋に買いに行けば、大トロはただでもらえたものだったそうだ。

もちろん今では、大トロを鍋にしてしまうなどというもったいないことはできないから、赤身、しかも本マグロではなく、もっと安いマグロを使うことになる。

スーパーで、台湾産のびんちょうマグロが、100グラム157円。

これならまあまあ、手が出ないこともない。



煮汁は、だしに酒、みりん、それに醤油で味付けする。

そうざい料理帖には、「すこし淡目の調味で」と書いてある。

僕もその通りにやってみたけれど、それよりも、煮詰まって、こってりと甘辛くなってきた煮汁のほうがうまかった。



そうざい料理帖には、マグロとネギだけを入れることになっているが、これはもちろん、好きな具材を加えたらいいことは、言うまでもない。

マグロは、すこし厚めの短冊切りにする。

長ネギは、ぶつ切りをたっぷりと。



先にネギや、他の具材を煮ておいて、やわらかくなったら、マグロを入れ、まだ中が半生くらいの状態で引き上げる。



七味をふって食べるとうまい。



シメは、煮汁をうすめてうどんを煮る。



2012-01-28

昔の日本の価値観を、今に活かすこと。
「鯛の塩焼き鍋」


池波正太郎がいいのは、戦前の日本の価値観を、戦後になっても保ち続けたところにあるという気がする。

戦争が終わり、日本人はそれまでとは断絶した、完全に新しい価値観のもとで、生活をするようになった。

もちろんそれにより、経済大国への道を歩み、僕などもその恩恵を、十分に受けてきたのだから、戦後の価値観をまったく否定してしまうことは、できるわけがない。

でもそのしわ寄せが、たまりにたまってしまい、身動きが取れず、にっちもさっちも行かなくなってしまっている現在、多くの人が全否定している、「戦前」というものについて、何か学ぶべきものがなかったのか、もう一度点検してみることは、決して無駄ではないだろう。



池波正太郎は、戦後の価値観について、非常に懐疑的であったのだと思う。

そして意識して、戦前の時代の流儀を、今の時代の人たちに伝えようとした。

食卓の情景」の冒頭に、自分が家庭の専制君主として君臨し、奥さんとお母さんという2人の女性を統治する様子が描かれている。

専制君主が、現代の日本人に嫌われることなど、池波は百も承知だったろう。

僕も、なんだか今、復活の兆しを見せつつある、専制君主は大嫌いだし、専制君主は、現在の日本の問題を解決するのでなく、さらに日本を、奈落の底へたたき落とす役割しか、果たさないものと思っている。

しかし池波は、自分が専制君主として君臨した姿をことさらに描くことにより、現代の日本人が、何か大切なことを忘れてしまっているのではないかということを、問いかけたかったのではないかと思う。



僕が長年暮らした東京は、日本の中で最も、戦後の価値観に染まってしまっている場所だと思うけれど、地方へいけば、まだまだ昔の価値観が残っているところは、たくさんあるのだろう。

僕は名古屋と広島、それから今、京都に、それぞれ2年ほど住み、東京の価値観とはまったく違ったところで、人々が生活しているのを感じた。

とくに名古屋と、そして京都は、戦前よりもっと昔、明治維新前の中世の価値観を、今でも持ち続けているのではないかと感じる。

京都は古都だから、それも当然だろうと思う人も多いかもしれないが、実は名古屋も、京都と比肩しうる、古い伝統がいまだに生きる場所なのではないかと思う。



明治維新により日本に導入された「近代」の価値観は、ひとつの言い方として、「効率」を何より重視するものであると言ってもいいだろう。

もちろん現代社会において、効率を無視する者は、生き残ることができない。

しかし効率だけで、人間のすべてを正していこうとするときに、生まれてくる歪みが、現代の日本を蝕んでいると言えるのじゃないのか。



名古屋が生んだ世界企業トヨタ自動車では、現在でも建前としては、すべての作業員が、ラインを止める権利をもつと聞く。

不都合があったとき、ラインを止め、どうしたらその不都合を解消できるのかを、ラインの従業員全員で話し合う。

それは一見、非効率的であるように思えるけれど、逆にそれこそが、次元のちがう効率に導かれることになることを、トヨタ自動車はその成長により、証明したといえるのじゃないか。



関係者の全員が納得するまで、とにかく話しあう「寄り合い」は、江戸時代以前の伝統だ。

現代では「談合」とよばれ、むしろ法律に反することとすら思われているけれども、かならずしも悪いことばかりではないことも、知る必要があるように思える。





というわけで、前置きが異様に長くなってしまいましたが、昨日食べたのは、池波正太郎「そうざい料理帖」に載せられている、「鯛の塩焼き鍋」。

池波は鯛が好きで、そうざい料理帖にも鯛の料理がいろいろ出てくる。

池波は、鯛の刺身を食べる時には、生醤油に良い酒をすこし落とし、濃くいれた熱い煎茶に、塩をつまみ入れたものを吸い物がわりにして、ご飯を食べるのだそうだ。

僕も一度やってみたいと思いながらも、家ではご飯を食べないために、まだ果たせずにいる。



池波が、銀座の料理屋で、鯛の刺身を食べた時のくだりも趣深い。

有名な店へ入ったが、懐が寂しかったので、隅の席に座り、鯛の刺身とハマグリの吸い物で、酒を一本飲んだ。

それから半分残しておいた鯛の刺身で、ご飯を一膳食べ、おもわず「ああ、うまかった」とつぶやいたら、カウンターの向こうの板前が、にっこり笑って会釈してくれたという。

しかし今ではその店も、そういうのどかな雰囲気が失われてしまい、客に出す料理もひどいものになってしまったと、池波は書いている。



鯛の塩焼き鍋は、折り詰めに入った鯛の塩焼きを、池波が食べるときのやり方だ。

「深めの鍋に湯を煮立て、鯛はまるごと入れ、煮出したら豆腐のみを入れる。味付けは酒と塩のみがよい。 
これを小鉢に引き上げ、刻み葱を薬味にして食べるのは、飯より酒のときだろう」

前からやってみたいと思っていたのだけれど、昨日スーパーへ行ったら、連子鯛がわりと安く出ていた。

けっこう大きいのが、399円。

まあまあいいんじゃないか。



まずこれを、塩焼きにする。

鯛は皮が弱いから、焼く時にはまず、よくよく焼き網をあたため、さらにサラダ油を塗ってから魚を置くようにしないと、皮が焼き網にくっついて、ベロベロに剥がれてしまうから、注意が必要だ。



鯛といっしょに入れる具をどうするか。

これについては、ずいぶん悩んだ。

池波は「豆腐だけ」というわけだが、僕の食欲には、どうしてもそれでは足りない。

池波流は洒落ているには違いないが、今回は素直に、自分の食欲に従うことにした。

豆腐のほかに、長ネギのぶつ切りと、えのき茸。



昆布だしに酒をたっぷり注ぎ込んだ汁で、まず鯛だけ、アクを取りながら10分ほど煮る。

10分煮て、焼く時にふった塩が汁に出てから、味付けをする。

実はこれも、池波は「塩だけ」と言っているが、ほんとは醤油もすこし入れたほうがいいんじゃないかと、作る前には疑う気持ちがあった。

しかしまず塩だけつまみ入れ、味を見てみると、塩焼きした鯛の香ばしい味が出ていて、たしかにそれだけで十分うまい。

人のレシピを、何でも自分流にしてしまうのは、考えなければいけない場合もあるということだ。



味付けしたら、あとは残りの材料をすべて入れ、ひと煮したら出来あがりとなる。

小さいながらも、尾頭付きの鯛が入るから、非常に贅沢な感じがする。

鯛のうまみがたっぷり出て、大変うまいことは、言うまでもない。



シメは雑炊でも、うどんでも。




2012-01-27

ニンニクとショウガをきかせ必殺の味。
「スペアリブおでん」


「おでん」と「鍋」は、冬場の燗酒の友として、東西の横綱ともいえる存在だ。

どちらもたっぷりの汁で煮るところは似ているが、鍋がさっと煮て食べるものであるのに対し、おでんはゴロゴロの具を、たっぷりと時間をかけて煮て、味を含ませる。

具が大きいから、皿によそっても、しばらくは冷たくならない。

鍋の温かみを、皿に移して、それを時間をかけ、チマチマと楽しむというのが、おでんの醍醐味ということになるわけだ。



このおでんの具だが、大根や玉子、厚揚げなどの他には、ちくわやらさつま揚げやら、魚の練り物がよく使われることとなっている。

日本は歴史的に、魚を中心に食べてきたから、魚をゴロリとしたおでんの具に仕立て上げるためには、練り物にたよる他なかったということだろう。

でも現代では、日本人も肉食をするようになっているのだから、おでんにゴロリとしたかたまりの肉を入れたって、ちっとも悪くない。

悪くないどころか、これが非常にうまいから、やってみることをぜひ勧めたい。



肉はやはり、スペアリブとか、鶏の手羽元とか、骨付きのやつが、だしもよく出るし、またおでんとしての風情もある。

今回はスペアリブ。

下茹でなど一切せず、そのまま鍋に入れる。

あとは大きく切った大根。これもそのまま鍋に入れる。

そこへ、まずはだし昆布。それから皮だけ剥いた、一かけのショウガ。やはり皮だけ剥ぎとった、一かけのニンニク。それに長ネギの青いとこを入れる。

水を張って、火にかける。



初めのうちは、アクが大量に出てくるから、ていねいに掬いとる。

火を弱め、コトコトと1時間ほど煮る。

肉や魚を煮るときは、湯気によって雑味が飛ぶから、フタはしない方がいいといわれる。



1時間煮たら、ネギは捨て、たっぷりの酒と、醤油で味をつける。

ここに厚揚げを入れ、さらに30分ほど煮る。

もちろん、ゆで卵やら、コンニャクやら、シイタケやらを入れても、間違いなくうまい。

煮終わったら、かならずそのまましばらく置く。

冷えるにつれ、味がしみ込んでいくことになる。



卓上のコンロで、鍋を温めながら食べる。

スペアリブのだしがたっぷり出て、「うまいに決まっているだろう」という味。

豚のだしのおでんとは、ちょっと意外な感じもするが、違和感はまったくない。



残り汁をうすめてラーメンにすると、これがまた、非常にうまい。



2012-01-26

メニューを考えることの不定性。
「鶏とカブの塩鍋」


ここ何ヶ月か前から、「料理」のランキングに加わるようになって、なんとなく、主婦の気持ちが分かるような気になっている。



以前は「日記その他」というところにいたから、べつに何でも、勝手なことを書き、料理は多くの題材のうちの一つということで、それほど気を遣うこともなかった。

食事のメニューも、純粋に自分が食べたいものを食べるという以外には、考えることもなかったのだが、料理のランキングに入ると、やはり多少は見栄えのするものを、ブログに載せたいという気にもなってくる。

そこで毎日あれこれ、今日の食事を何にするか、けっこうな時間を使って考えるようになったという次第なのだ。



そうすると、これが意外に大変だ。

自分が食べたいだけならば、考えるのに大して造作はない。

極端にいえば、同じものが何日か続いたって、そう気になるものでもない。

しかし人に「食べたい」「作りたい」と思ってもらいたいと思ったら、そういうわけにはいかない。

やはりそれなりに人の興味を引き、食欲をわかせるようなものを、考えないといけないことになる。



ところが今度は、人のことを考えすぎるあまり、「自分が食べたい」という気持ちを忘れてしまうと、料理をするのが、つらい、嫌なものになってしまう。

人のことだけを考えるのでもない、かといって、自分のことだけを考えるのでもない、人と自分とが、いっしょに楽しめるものを、なんとか考えたいと思うわけだが、これこそ、主婦の人たちが、毎日やっていることなのだろう。



おそらくすべての創作は、そのようにして行われるものなのじゃないか。

芸術家が、自分が楽しむことだけを考えていたら、人を感動させるものを創ることはできないだろう。

かといって、人を楽しませることだけを考えたものは、すでに芸術ではない。

そのあたりの微妙なバランスに、人は死ぬまで、悩み続けることになるのじゃないかと思うのだけれど、たぶん、それが「生きる」ということなのだろうな。





というわけで、昨日も何を食べようか、料理本を見たり、ネットを検索したりしながら、あれこれ考え、結論として決まったのが、「鶏の塩鍋」。

まあ僕の場合、「鍋」であることは、大前提で外れようがないのだけれど、これまで鶏肉の鍋を作る場合、水炊きにするか、醤油で味をつけるか、韓国風、トマト味、カレー味などの味付けにするか、ということにしてきた。

でも考えてみたら、鶏の水炊きをやり、その残り汁に塩コショウして雑炊にすると、非常にうまい。

下手に醤油をたらしてしまうより、塩コショウだけのほうがうまいのだ。

それでたしかに、鶏の塩鍋はいけるのじゃないかと思い至り、やってみることにしたわけなのです。



使った鶏肉は、手羽元。

手羽元は、何といっても、安いのがいい。また骨が付いているから、だしがよく出そうな感じがする。

でもこれは、手羽元でなくても、手羽先とか、モモ肉とかでももちろんいいし、骨付きのぶつ切りモモ肉などが手に入れば、最高かもしれません。

これに、よく塩をすり込んでおく。

うす味で煮るわけだから、肉に味をつけておかないと、まったく味がしないことになってしまうわけですよね。

あとはカブ。カブは今が旬だから、ほんとにうまい。

というか、カブは、旬の時でないと、あまり手に入りませんよね。

カブの葉と茎も、いっしょに入れる。

それにニンニクを1かけ。

これらの材料を、昆布をしいた鍋に入れ、その上から水を張り、日本酒をドボドボと注ぎ入れる。



鍋を火にかけ、アクを取りながら、コトコト20分ほど煮る。

途中で味をみて、塩が足りなければ、塩をふる。



火を落とす少し前に、ぶつ切りにした長ネギを入れる。

最後にゴマ油をスプーン1杯、たらし込んだら出来あがり。



粗挽きの黒コショウをふって食べる。



ちょっとシャバっとした感じにはなるけれど、味として足りないところはない。

鶏のうまみをたっぷり吸い込み、やわらかく煮えたカブが美味。

こってりさせたければ、バターをのせる。

逆にあっさりした刺激が欲しければ、レモン汁も良い。

日本酒にも、もちろんのこと、よく合う。



2012-01-25

甘い大根おろしが、ブリの味を引き立てる。
「ブリと水菜のみぞれ鍋」


ブリといえば、やはり合わせる材料の定番としては、「大根」ということになるわけですよね。

ブリも大根も、冬が旬。

「旬のものどうしは相性がいい」と言いますが、このブリと大根も、ブリの臭みを大根が消し去り、また大根の素朴な味わいが、ブリによって引き立てられるという、まさに名コンビだといえるでしょう。

ブリ大根は言わずもがな、ブリを塩焼きして、大根おろしを添えるのも、またうまい。

そしてこのみぞれ鍋も、ブリの食べ方として代表的なものの一つだといえるでしょう。



ブリの鍋の、仕上げに大根おろしを入れるわけですが、大根おろしというと、なんとなく「辛くてさわやか」なイメージがあるかもしれません。

しかし大根おろしは、火を通すと、甘くなるんですね。

素朴な甘さの大根おろしが、ちょっとクセがあり、やんちゃなブリを包み込み、奥行きのある、まろやかな味にしてくれる。

だから大根おろしは、薬味としてちょっと入れるという感覚でなく、最低でも大根を1本の半分程度は使い、「だし」の一部と考えることが、みぞれ鍋をおいしく食べるポイントなのじゃないかと思います。



ブリは、あらを買うと、ほんとに安い。

店にもよりますが、昨日買った近所のスーパー、山盛り入って198円也。

あらは見た目がグロいとか、料理するのも食べるのも面倒とかの理由で、敬遠する人も少なくありませんが、煮炊きに使うには、切り身よりもよっぽどうまいです。



あらを買ったら、家に帰ってきたら、すぐに表うらに塩をふり、そのまま冷蔵庫に入れておく。

べつに何時間でもかまいません。

塩があらの臭みを取り、うまみを増してくれることになるんですね。



塩をふったあらは、さらに湯通し。

給湯器のお湯が、90度程度あるのなら、そのまま使うので十分です。

あらを湯に入れ、すこしかき混ぜて、アクが出た湯を捨てる。

これを2~3度やってもかまいません。


湯通ししたら、ていねいに水洗い。

血のかたまりとヌメリが、臭みの原因となりますので、これを手でこすったり、ほじくり返したりしながら、よく落とします。

以上であらの下準備は終了。



大根もおろしておきます。

みぞれ鍋は、大根をたくさん摂るのには、最も適した料理ですね。

大根おろしは、汁ごと使います。



鍋に昆布をしき、水を張り、大量の酒を入れ、火にかける。

これでブリを、あくを取りながら15分くらい煮る。

魚のあくは、臭みの元となりますから、ていねいに取った方がいいですね。



それから味付け。

入れるのは醤油だけ。

大根おろしの甘みがあるから、みりんや砂糖は必要ありません。

あとから大根おろしを入れると、煮汁がすこし薄まることになるので、味は濃い目につけておく。



野菜を入れる。

定番は、水菜、長ネギ、それに油揚げか豆腐。



野菜を入れ、煮汁が沸いてきたら、すかさず大根おろしを入れる。

ふたたび沸騰してきたら、出来あがり。



七味をふって食べると最高。



シメのうどんも、たまりません。



2012-01-24

和風か洋風か微妙でうまい。
「塩鮭とカブの和風スープ」


鮭だとかタラだとかを、カブやジャガイモ、ニンジンなどと一緒に、ニンニクとローリエを入れて、コトコト煮て、ハーブやバター、レモン汁、それに粗挽き黒コショウなどをかけて食べるというのは、地中海あたりの料理にありがちだけれども、これはその和風版。



だしは和風だしをふつうに取る。



だしに酒と塩、醤油で、お吸い物程度の味をつけ、そこに湯通しした塩鮭、大きめに切ったカブ、ざく切りしたカブの茎と葉、やはり大きめに切ったジャガイモとニンジン、玉ねぎを全部入れ、コトコト煮る。

塩鮭の塩気が出るから、味付けは多少薄めにしておく。



こういうものは、15~20分ほど煮て、多少煮くずれるくらいにしたほうが、おいしいんですよね。

カブの茎と葉も、意外にかたいので、初めから入れてだいじょうぶ。



皿によそってから、好みでバターまたはレモン汁、それに粗挽きの黒コショウをかけて食べる。

洋風なのか、和風なのか、分からない、微妙な感じが、またいい。

酒がやわらかく煮え、カブもジャガイモも、ホクホクなのがたまりません。



これは「具たくさん おかずスープ」という本の中のレシピを参考にしました。

この本、和洋中韓エスニック、いろんなスープが載っていて、けっこういいですよ。





いつも、鍋を、あとは煮ればいいだけにして、居間に持ってきて、卓上のコンロで煮ながら酒を飲むわけなんですが、どうも最近、いきなり火を点けてしまうのが、もったいなくなって、火を点けずに30分くらい、飲むようになってしまったんです。

バタバタと支度をして、席について、すぐ火を点けてしまうと、なんだか追い立てられているようで、気ぜわしい感じがしますよね。

酒飲みにとっては、あまり食い物などを食ってしまうのでなく、ちょっとしたツマミで、酒だけ飲んでたほうが、酒がうまい。

酒を飲んでいるうちに、徐々にお腹が減ってくるから、そうなってようやく、コンロに火を点けることとする。



おかけで、今まで、食べ始めから食べ終わりまで、2時間かけていたものが、2時間半かかるようになり、火を点けるまで飲むコップ1杯分の酒が、これまでより丸々増えることとなってしまいました。

まあでも、気分がいいんですから、そのくらいは、仕方ないですね。





京都へ来てから、この時期になると、いつも酒のツマミにするスグキ。

こんな形をしています。

茎と葉の部分は、野沢菜と似たような感じなのだけれど、根が大きくなっているのが、ちょっとちがう。

スグキを漬けるには、室に独特の菌がいることが必要で、だから上賀茂あたりの、100軒ほどの農家だけしか、スグキを漬けることはできないのだそうです。



家の近くの三条会商店街に、上賀茂の農家のおばちゃんが露店を出していて、毎年この時期になると、スグキを売る。

スグキも室により、味は色々ちがうのだそうですが、京都の人に聞くと、このおばちゃんのスグキも、悪くないとのことでした。

大宮通三条の角の公園の前にいます。

土曜日以外の昼から夕方までですが、急用が入ると休みます。



スグキの味は、カブともちょっと、似ていないこともないのだけれど、発酵して、独特の酸味があるのが特徴です。

スグキの成分は、肝臓にもいいらしい。

たしかにスグキをツマミに酒を飲むと、悪酔いすることがありません。

でもそのおかげで、つい飲み過ぎてしまうことになるから、結局肝臓にいいのか、悪いのか、わかりませんね。