2012-01-26
メニューを考えることの不定性。
「鶏とカブの塩鍋」
ここ何ヶ月か前から、「料理」のランキングに加わるようになって、なんとなく、主婦の気持ちが分かるような気になっている。
以前は「日記その他」というところにいたから、べつに何でも、勝手なことを書き、料理は多くの題材のうちの一つということで、それほど気を遣うこともなかった。
食事のメニューも、純粋に自分が食べたいものを食べるという以外には、考えることもなかったのだが、料理のランキングに入ると、やはり多少は見栄えのするものを、ブログに載せたいという気にもなってくる。
そこで毎日あれこれ、今日の食事を何にするか、けっこうな時間を使って考えるようになったという次第なのだ。
そうすると、これが意外に大変だ。
自分が食べたいだけならば、考えるのに大して造作はない。
極端にいえば、同じものが何日か続いたって、そう気になるものでもない。
しかし人に「食べたい」「作りたい」と思ってもらいたいと思ったら、そういうわけにはいかない。
やはりそれなりに人の興味を引き、食欲をわかせるようなものを、考えないといけないことになる。
ところが今度は、人のことを考えすぎるあまり、「自分が食べたい」という気持ちを忘れてしまうと、料理をするのが、つらい、嫌なものになってしまう。
人のことだけを考えるのでもない、かといって、自分のことだけを考えるのでもない、人と自分とが、いっしょに楽しめるものを、なんとか考えたいと思うわけだが、これこそ、主婦の人たちが、毎日やっていることなのだろう。
おそらくすべての創作は、そのようにして行われるものなのじゃないか。
芸術家が、自分が楽しむことだけを考えていたら、人を感動させるものを創ることはできないだろう。
かといって、人を楽しませることだけを考えたものは、すでに芸術ではない。
そのあたりの微妙なバランスに、人は死ぬまで、悩み続けることになるのじゃないかと思うのだけれど、たぶん、それが「生きる」ということなのだろうな。
というわけで、昨日も何を食べようか、料理本を見たり、ネットを検索したりしながら、あれこれ考え、結論として決まったのが、「鶏の塩鍋」。
まあ僕の場合、「鍋」であることは、大前提で外れようがないのだけれど、これまで鶏肉の鍋を作る場合、水炊きにするか、醤油で味をつけるか、韓国風、トマト味、カレー味などの味付けにするか、ということにしてきた。
でも考えてみたら、鶏の水炊きをやり、その残り汁に塩コショウして雑炊にすると、非常にうまい。
下手に醤油をたらしてしまうより、塩コショウだけのほうがうまいのだ。
それでたしかに、鶏の塩鍋はいけるのじゃないかと思い至り、やってみることにしたわけなのです。
使った鶏肉は、手羽元。
手羽元は、何といっても、安いのがいい。また骨が付いているから、だしがよく出そうな感じがする。
でもこれは、手羽元でなくても、手羽先とか、モモ肉とかでももちろんいいし、骨付きのぶつ切りモモ肉などが手に入れば、最高かもしれません。
これに、よく塩をすり込んでおく。
うす味で煮るわけだから、肉に味をつけておかないと、まったく味がしないことになってしまうわけですよね。
あとはカブ。カブは今が旬だから、ほんとにうまい。
というか、カブは、旬の時でないと、あまり手に入りませんよね。
カブの葉と茎も、いっしょに入れる。
それにニンニクを1かけ。
これらの材料を、昆布をしいた鍋に入れ、その上から水を張り、日本酒をドボドボと注ぎ入れる。
鍋を火にかけ、アクを取りながら、コトコト20分ほど煮る。
途中で味をみて、塩が足りなければ、塩をふる。
火を落とす少し前に、ぶつ切りにした長ネギを入れる。
最後にゴマ油をスプーン1杯、たらし込んだら出来あがり。
粗挽きの黒コショウをふって食べる。
ちょっとシャバっとした感じにはなるけれど、味として足りないところはない。
鶏のうまみをたっぷり吸い込み、やわらかく煮えたカブが美味。
こってりさせたければ、バターをのせる。
逆にあっさりした刺激が欲しければ、レモン汁も良い。
日本酒にも、もちろんのこと、よく合う。