池波正太郎がいいのは、戦前の日本の価値観を、戦後になっても保ち続けたところにあるという気がする。
戦争が終わり、日本人はそれまでとは断絶した、完全に新しい価値観のもとで、生活をするようになった。
もちろんそれにより、経済大国への道を歩み、僕などもその恩恵を、十分に受けてきたのだから、戦後の価値観をまったく否定してしまうことは、できるわけがない。
でもそのしわ寄せが、たまりにたまってしまい、身動きが取れず、にっちもさっちも行かなくなってしまっている現在、多くの人が全否定している、「戦前」というものについて、何か学ぶべきものがなかったのか、もう一度点検してみることは、決して無駄ではないだろう。
池波正太郎は、戦後の価値観について、非常に懐疑的であったのだと思う。
そして意識して、戦前の時代の流儀を、今の時代の人たちに伝えようとした。
「食卓の情景」の冒頭に、自分が家庭の専制君主として君臨し、奥さんとお母さんという2人の女性を統治する様子が描かれている。
専制君主が、現代の日本人に嫌われることなど、池波は百も承知だったろう。
僕も、なんだか今、復活の兆しを見せつつある、専制君主は大嫌いだし、専制君主は、現在の日本の問題を解決するのでなく、さらに日本を、奈落の底へたたき落とす役割しか、果たさないものと思っている。
しかし池波は、自分が専制君主として君臨した姿をことさらに描くことにより、現代の日本人が、何か大切なことを忘れてしまっているのではないかということを、問いかけたかったのではないかと思う。
僕が長年暮らした東京は、日本の中で最も、戦後の価値観に染まってしまっている場所だと思うけれど、地方へいけば、まだまだ昔の価値観が残っているところは、たくさんあるのだろう。
僕は名古屋と広島、それから今、京都に、それぞれ2年ほど住み、東京の価値観とはまったく違ったところで、人々が生活しているのを感じた。
とくに名古屋と、そして京都は、戦前よりもっと昔、明治維新前の中世の価値観を、今でも持ち続けているのではないかと感じる。
京都は古都だから、それも当然だろうと思う人も多いかもしれないが、実は名古屋も、京都と比肩しうる、古い伝統がいまだに生きる場所なのではないかと思う。
明治維新により日本に導入された「近代」の価値観は、ひとつの言い方として、「効率」を何より重視するものであると言ってもいいだろう。
もちろん現代社会において、効率を無視する者は、生き残ることができない。
しかし効率だけで、人間のすべてを正していこうとするときに、生まれてくる歪みが、現代の日本を蝕んでいると言えるのじゃないのか。
名古屋が生んだ世界企業トヨタ自動車では、現在でも建前としては、すべての作業員が、ラインを止める権利をもつと聞く。
不都合があったとき、ラインを止め、どうしたらその不都合を解消できるのかを、ラインの従業員全員で話し合う。
それは一見、非効率的であるように思えるけれど、逆にそれこそが、次元のちがう効率に導かれることになることを、トヨタ自動車はその成長により、証明したといえるのじゃないか。
関係者の全員が納得するまで、とにかく話しあう「寄り合い」は、江戸時代以前の伝統だ。
現代では「談合」とよばれ、むしろ法律に反することとすら思われているけれども、かならずしも悪いことばかりではないことも、知る必要があるように思える。
というわけで、前置きが異様に長くなってしまいましたが、昨日食べたのは、池波正太郎「そうざい料理帖」に載せられている、「鯛の塩焼き鍋」。
池波は鯛が好きで、そうざい料理帖にも鯛の料理がいろいろ出てくる。
池波は、鯛の刺身を食べる時には、生醤油に良い酒をすこし落とし、濃くいれた熱い煎茶に、塩をつまみ入れたものを吸い物がわりにして、ご飯を食べるのだそうだ。
僕も一度やってみたいと思いながらも、家ではご飯を食べないために、まだ果たせずにいる。
池波が、銀座の料理屋で、鯛の刺身を食べた時のくだりも趣深い。
有名な店へ入ったが、懐が寂しかったので、隅の席に座り、鯛の刺身とハマグリの吸い物で、酒を一本飲んだ。
それから半分残しておいた鯛の刺身で、ご飯を一膳食べ、おもわず「ああ、うまかった」とつぶやいたら、カウンターの向こうの板前が、にっこり笑って会釈してくれたという。
しかし今ではその店も、そういうのどかな雰囲気が失われてしまい、客に出す料理もひどいものになってしまったと、池波は書いている。
鯛の塩焼き鍋は、折り詰めに入った鯛の塩焼きを、池波が食べるときのやり方だ。
「深めの鍋に湯を煮立て、鯛はまるごと入れ、煮出したら豆腐のみを入れる。味付けは酒と塩のみがよい。
これを小鉢に引き上げ、刻み葱を薬味にして食べるのは、飯より酒のときだろう」
前からやってみたいと思っていたのだけれど、昨日スーパーへ行ったら、連子鯛がわりと安く出ていた。
けっこう大きいのが、399円。
まあまあいいんじゃないか。
まずこれを、塩焼きにする。
鯛は皮が弱いから、焼く時にはまず、よくよく焼き網をあたため、さらにサラダ油を塗ってから魚を置くようにしないと、皮が焼き網にくっついて、ベロベロに剥がれてしまうから、注意が必要だ。
鯛といっしょに入れる具をどうするか。
これについては、ずいぶん悩んだ。
池波は「豆腐だけ」というわけだが、僕の食欲には、どうしてもそれでは足りない。
池波流は洒落ているには違いないが、今回は素直に、自分の食欲に従うことにした。
豆腐のほかに、長ネギのぶつ切りと、えのき茸。
昆布だしに酒をたっぷり注ぎ込んだ汁で、まず鯛だけ、アクを取りながら10分ほど煮る。
10分煮て、焼く時にふった塩が汁に出てから、味付けをする。
実はこれも、池波は「塩だけ」と言っているが、ほんとは醤油もすこし入れたほうがいいんじゃないかと、作る前には疑う気持ちがあった。
しかしまず塩だけつまみ入れ、味を見てみると、塩焼きした鯛の香ばしい味が出ていて、たしかにそれだけで十分うまい。
人のレシピを、何でも自分流にしてしまうのは、考えなければいけない場合もあるということだ。
味付けしたら、あとは残りの材料をすべて入れ、ひと煮したら出来あがりとなる。
小さいながらも、尾頭付きの鯛が入るから、非常に贅沢な感じがする。
鯛のうまみがたっぷり出て、大変うまいことは、言うまでもない。
シメは雑炊でも、うどんでも。