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2008-04-30

中止しました:場所移動

場所を移動するのはやめて、こちらで更新を続けることにしました。(5月2日)

高野俊一の日記は、下へ移動しました。
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2008-04-29

今朝の読売新聞

福田首相が、道路財源の一般財源化を来年度から実施するということについて、与党である公明党太田代表と合意文書を交わし、閣議決定する方針を表明した。党内の改革派や国民に対してアピールするためで、道路族議員の親玉である青木氏や古賀氏も認めたらしい。

さすがに支持率が低迷し、選挙でも負けて、お尻に火がついて動き出したというところかと思うのだけれど、どうなんだろう?

福田さんって、首相になるに当たって、前回安部さんと競り合ったときは、自分を支持する動きが広がりきらなかったと判断して自ら戦いを放棄、それで安部さんがあんなことになって、福田支持の動きが党内の多勢を占めると判断すると、やっと重い腰を上げる、そんな感じで物を決めてきている。みんなが一つの意見にまとまるのを時間をかけて待ち、まとまったところでそれに乗っかる。そういうのって一つの立派なやり方だとは思うのだけれど、ちょっと古いんじゃないかっていう気もするんだよね。

今回もほんとに待ったなし、坂道をごろごろ転げ落ちて、もう崩壊寸前になっているから、さすがに青木氏も古賀氏も賛成せざるを得なかったという感じだと思うけれど、そこまで待って、反対派も賛成しないといけない状況になって、そこで一歩踏み出したのが今、って、もう時すでに遅しなんじゃないかと。

昔は日本も世界も、放っておいても物事が前に進むというか、拡大していくというか、そういう時代だったんじゃないかと思う。だけど、放っておくとみんなが勝手な方向に進んでしまって、無秩序になってしまうから、それじゃまずいと、もう一回きちんと方向を定めないとな、っていうことをみんなが思って、うんうん、こっちへ行こう、って合意して、それじゃそれで行きましょうとリーダーが最後に決断する、みたいなことで、昔は成り立っていた。

でも今はたぶんそういう時代ではなくて、放っておくと物事が縮小してしまうような、そういう方向なんじゃないかという気がする。今回も自民党が発展的に何か動いているというより、どんどん縮小してしまい、これ以上はもう危険だというところになって合意しているのじゃないか。それって決断が消極的というか、縮小的というか、そんな感じがするんだよね。

何かすごく考え違いしていると思うのだけれど、70歳過ぎた福田首相には、これ以上は無理なんだという気がする。これからどうなるんだろう、日本は?

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東京・渋谷で夫を殺し、ばらばらに切り刻んで捨てた女に、懲役15年の判決が下った。精神鑑定では犯行時は精神障害状態で、責任能力がないということだったが、それは踏まえながらも、女が犯行時のことをきちんと覚えていたり、犯行を隠蔽しようとしていたりするので、必ずしも責任能力がなかったとは言えない、ということらしい。

まぁ判決自体は、これから専門家が色々議論しながら決めていくんだろうからそれでいいのだけれど、この「責任能力」って、何だろうなと思う。

責任というものは、物事に原因と結果という道筋をつけようとするときに、その原因を担う存在に対して自動的に発生するものだろう。人を殺せば殺した人に責任がある。それはその本人が好むと好まざるとに関わらず、客観的に与えられるものであって、それを拒否することは責任放棄と呼ばれ、本来は許されない。しかしそれにはいくつか例外があって、その一つが、本人が責任というものを認識できないような精神状態の場合、ということなのだろう。その場合、その人は責任を認識する「能力」がなかったと言われる。

しかし責任を認識することのできない人って、何も精神障害に限らず、世の中にはたくさんいるのではないだろうか。極端な話、北朝鮮の金正日氏。またビンラディン。この人たちは日本人を拉致したり、また貿易センタービルに飛行機を突っ込ませたりしても、自分が何らかの意味でそれに対して責任があるとは全く思っていない。本来ならこの人たちを有罪にしたいところだろうけれど、それもなかなか難しい、それではその人たちに「責任能力がない」として済ませられるのかといえば、そうでもない。何らかの意味で折り合いをつけていかなければいけないのだけれど、それをどうしていったらいいのか誰も分からないというのが、今の時代なんじゃないかという気がする。

金正日やビンラディンまでいかなくても、世の中には「責任能力がない」人はたくさんいると思う。その人たちとどう折り合いをつけ、一つの世界を見つけていく一員に一緒にどうなれるのかということが、今の時代の火急の課題なのではないかと思う。

2008-04-28

ロシア人

この3日間、ロシア人の相手をした。頼まれて東京の観光に付き合ったり、成田空港への見送りをしたりしたのだ。

ロシア人というと一般のイメージとしては、暗いとか、怖いとか、アエロフロートのスチュワーデスはサービスが悪いとか、男はウォッカばかり飲んでいるとか、国は強権政治で、新興マフィアが跋扈しているとか、そんな感じかもしれない。でももちろん、親しくなってみれば、どこの国の人も普通の、同じ人間である。

何年か前、ロシアはウラジオストックでホームステイをしたことがある。ぼくとほぼ同じくらいの年の、医者のご主人と薬剤師の奥さん、15歳の男の子という家庭だったが、ほんとに良くしてもらった。

年末に行って年始に帰るという行程だったので、もちろん皆仕事は休み。なので親戚や友達の家に出かけたり、またそういう人たちを家に招いたり、ということが、やることのほとんど全てだった。

ロシア人はとにかく人に食べさせたがる。まぁどこの国にホームステイしてもそうなのだが、仲良くなる基本は出される料理をひたすら美味しそうに食べることだ。年末年始だからご馳走もたくさん用意してあり、むしゃむしゃ食べ始めるのだが、お皿の上の食べ物が、いつまでたっても一向に減らない。気づくと両側から、こちらが食べるそばから新たによそってくれるのだ。

そして10分に一回くらい、ウォッカで乾杯。小さなショットグラスにウォッカをついで、皆で乾杯して一気に飲み干す。そしてまた食べ始め、また乾杯。あっという間にお腹はいっぱい、そしてウォッカでいい気分。

食事が終わると「出かけよう」ということになり、親戚の家に行く。そうするとなんと、そこにもまたご馳走がたんまり用意されている。そしてさっきと同じことが、再び一から始まるのだ。

ぼくは生まれてこの方、あんなにたくさん物を食べたり、お酒を飲んだりしたことがなかった。日本に帰国してから一週間くらいは、一日5食食べないと我慢できず、お酒もいくら飲んでも大丈夫になっていた。

今回のロシア人たちも、楽しい人たちだった。ご婦人3人が資生堂の乳液が欲しいというので、渋谷に買いに行った。ロシアから空き瓶を持ってきていてそれを探したのだが、結局14本、マツモトキヨシ2軒分の在庫を、全て買い占めていった。

奥さんと娘さんと一緒に来ているお父さんも一人いて、ピンクフロイドのLPレコードを3枚、中古レコード屋で買っていった。ロシア人はピンクフロイドが好きらしい。あの実直な、見るからに頼りがいのある感じがするお父さんが、ピンクフロイドの理屈っぽくて重苦しい音楽を聞きながら何を想うのだろうと考えると、なんとも微笑ましい。

帰る前日の夜、お寿司屋に連れて行った。4人がけのテーブル一つしか空いていないところに、こちらは6人。しかも一人はかなりの巨漢である。店員が分かれて座れというところを無理矢理6人、ぎゅうぎゅう詰めで腰掛けた。小さなテーブルに固まって座るのが、ロシア式宴会の作法なのだそうだ。慣れない箸で寿司をぼろぼろにこぼしながら、一生懸命食べていた。

ずっと以前、ぼくにとって外国といえばアメリカだったことがある。しかしいろんな国の人、特にヨーロッパの人と出会ううち、外国はアメリカだけではないし、むしろ世界の中でアメリカが特殊な国なのだということが分かってきた。

アメリカ人は本当にドライだ。なんでも理屈で考えたがるし、理屈が通らないとすぐ人を切り捨てるところがあると思う。しかしヨーロッパや、そしてロシアの人たちは、もっと湿っぽくて、じとっとしている。

歴史が長い国は、理屈が通らないことでも我慢しなければならないことも多いだろう。そういうものを受け止め、堪えていく人の辛さや、またその辛さを互いに共感していくこと、そしてそこから生み出される連帯、そんなものが、それらの国には日本と同じように、あると感じられるのである。

2008-04-23

サザンオールスターズ

雑誌は、週刊文春を読んでいる。先週号のコラム「近田春夫の考えるヒット」に、Jポップの歌詞のことが書いてあった。ちょっと引用したい。

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「昨今大半の場合、Jポップは先にメロディが出来ていてそこに歌詞を載せる。どうしてそうなったかというと、詞はなくともメロディだけあれば、とりあえずレコーディングが出来てしまうからである。そうして“オケ”さえ整えば発売日がフィックスできる。あくまで商業的な効率のためにそうなっているのだ。

だが、それを本当に歌と呼べるのかどうか。本来歌というものは、まずコトバがあってそれにふしのついたものだろう。音楽よりさきにコトバなのだ。詩と書いて“うた”と読むのが何よりの証拠である。音楽にコトバをハメるというのはうたを作るのとは別のことなのではないか。

一方でそうした時メロディには大抵ハナモゲラ、すなわち“英語のようなもの”で仮うたが入っていたりする。全く無意味な、いかも日本語的ではない響きで歌詞がイメージされていることもすごく多いのである。

であるから誤解を恐れずにいえば“うた”でもない“日本語”でもない、それ等と似て非なる何かを作り出す作業が、現実のJポップにおける歌詞ということになるのだ。

読むと分かると思うが相当の割合で、Jポップ歌詞は、実際日本語としては役に立っていないのである。

すべては音楽をもっともらしくする為に、見栄えのいい飾りを尺に合わせてハメ込むという、処理のような仕事なのだ(オーバーにいえばネ)。」
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以上はまぁ、普通の人の考えと言えるかも知れない。しかしこれを読んでぼくは、「あ、近田春夫はサザンオールスターズの洗礼を受けていないんだな」と思った。

日本の歌の系譜というもの、まずたぶん初めは詩吟のような、百人一首を読むときのような、そういうものがあったろう。次にどこかの段階で、演歌が登場する。詳しいことは全く知らないので、実際にどうだったのかは分からないが、演歌は日本古来のものではなく、おそらく朝鮮半島から輸入されてきたものなのではないだろうか。韓国の歌が実際、演歌そっくりで、日本の演歌をもっとアクを強くしたような感じなのだ。美空ひばりを初めとする有名な演歌歌手の多くが、韓国出身であるというのも知られた話である。

さらに次にアメリカやヨーロッパの歌、「洋楽」が流入し、それ自体が日本で親しまれていくと同時に、その影響を受けた日本語の歌が作られていく。これが今の日本の歌の主流であり、Jポップもその流れにある。

まずはアメリカやイギリスのポップスに影響を受けた歌謡曲と呼ばれるものがそうだろう。次にフォーク。そしてビートルズなどに影響を受けた、キャロルなどのロックグループ。このように洋楽を日本に取り込んでいくに当たって、一つの問いが生まれた。それは「洋楽風のメロディーと日本語の歌詞とを、どう調和させることができるのか」ということである。

ポップスにしてもフォークにしても、ロックにしても、洋楽のメロディーは、それが歌われる言語である「英語」の特性と、密接に関係しているだろう。そのメロディーにそのまま日本語の歌詞を載せると、なんとなく不自然なものになる。それを自然に、日本の歌として聞かせようと、無数の工夫がされてきたと思う。そういう努力のなかで、洋楽そのものとはちょっと違う、独特のメロディーも編み出されてきたのではないかと思う。

話は外れるがその一つの代表例が、吉田拓郎だと思う。拓郎は日本語の節回しをわざと壊すような、そういうメロディーをつけると思う。普通に日本語で話す場合にはアクセントがないところに、わざとアクセントをつけてみたり、普通話す場合の区切り目とはわざと違う場所に区切り目をつけたり。それが逆に新鮮にかっこよく感じられるのだ。こういうことも、洋楽のメロディーと日本語の歌詞の調和の一つのあり方だろう。その流れを引き継いでいるのが、まず佐野元春、そしてミスターチルドレンの桜井和寿だと思う。

さてサザンオールスターズだが、デビューしたのはぼくが高校1年の頃。デビュー曲の「勝手にシンドバッド」およびファーストアルバム「熱い胸さわぎ」を聞いて、衝撃を受けたのだった。「これがまさにぼくの聞きたかった歌だ」と確信した。

何がすごいと思ったかと言うと、「歌詞に全く意味がない」ところだった。

サザンの歌は、特に初期のものは、歌詞にほとんど脈絡がない。初期の頃のアルバムに収録されている曲の中には、歌詞が最後まで決まらず、歌詞カードに「●※◎△・・・」のような記号が印刷されているものがいくつもあった。サザンは、少なくとも初期の頃は、歌詞にきちんと脈絡があり、意味が通る日本語である必要を全く感じていない。歌詞とはメロディーを引き立たせるためにあるのであり、ことばの断片が使われることによって醸し出される雰囲気や、ことばの音、そのものの面白さこそが重要なのである。

ぼくの世代はおそらく、小学校高学年でカーペンターズを知り、中学生でビートルズのリバイバルブームの中でその洗礼を受け、キッスやエアロスミスといったバンドに触れ、まぁ人それぞれだとは思うが、基本的に洋楽で育った世代だ。洋楽の歌詞は英語だから、聞いても意味は分からない。歌詞カードを見てもぴんとは来ない。それでもそういう音楽から強いメッセージを感じ、のめりこんだのである。そういう感覚で言うと、その頃の日本の歌、それは歌謡曲もフォークもロックもそうだったが、それらのちょっと暗い、湿っぽい歌詞は、どちらかと言えば余分で、それほど共感できるものではなかったのである。

サザンはそういう時代の感性に、ぴったりと沿うものだったと思う。洋楽を聞いていた日本人が、その洋楽の英語の歌詞を聞くのと同じように、日本語の歌詞を取り扱った。そしてそのように日本語の歌詞を捕らえることで、日本語の制約から全く自由になった。

先に述べた通りそれまでは、自分が慣れ親しんだ洋楽のメロディーと、それとは異質な日本語とを、どのように調和させるか、が問いであった。しかしそのように歌詞を捕らえると、この問い自体が存在しないことになった。自分が慣れ親しんだ洋楽風のメロディーを、そのままストレートに表現すれば良いことになったのだ。そのメロディーを飾り付けるために、日本語風の歌詞を添えるのである。

近田春夫は、そのことが「あくまで商業的な効率のため」にそうなっていると言っている。しかしもともとの出発点は、時代の感性によって生み出された、偉大な創造行為であったと思うのである。

もちろん今たくさんの曲が作られる際、そのような商業的な効率に傾きすぎる局面も多々あるのだろう。しかし少なくともその曲がヒットしたということがあるとすれば、歌詞に大した意味がこめられていなくても、受け取る側は全体としてきちんとしたメッセージを受け取っているのである。

さらには近田氏は、そのようなものは「歌ではない」と言っている。歌であるかぎり、「音楽より先にコトバがないといけない」からだと言う。本当にそうなのだろうか。

そうではないことは明らかなのだが、もう面倒くさくなってきたので、このことを考えるのはまた次の機会にしたいと思う。

2008-04-20

読売新聞

新聞は読売新聞を読んでいるのだが、四コマ漫画の『コボちゃん』に、三日に一度くらいの頻度でくすっと笑ってしまう。時々大笑いすることもある。コボちゃんは今日で9237回目、25年ほど続いている計算になる。連載初期ならいざ知らず、25年たった今でもここまで笑えるということに、正直驚く。

今日のコボちゃんも、それなりに面白かった。コボちゃんがお父さん、お母さんと歩いているところに、歩きタバコをしている男性が通りすがる。お母さんはお父さんに「注意しなさいよ」と促す。お父さんが「歩行禁煙ですよ」と意を決した顔つきで呼びかけると、お父さんに何やらヒソヒソと耳打ちする男性。立ち去る男性を背に「極秘の聖火リレーだって」と、嬉しそうなお父さん。「そんなわけないでしょ」と憮然とした顔でお母さん。

「歩行禁煙が極秘の聖火リレー」というアイディア自体もかなり面白いと思うが、さらにそれを四コマという流れの中にどう展開させていくかということが、漫画家の腕の見せ所だろう。コボちゃんのお父さんも、サザエさんのマスオさんと同じく、どうやら入り婿のようで、家庭内での立場は弱い。他人の歩行禁煙を、お母さんに言われて注意しに行くお父さん、というシチュエーションを背景にストーリーが進み、最後のお母さんの突っ込みで終わる。

この最後のお母さんの突っ込みだが、他の漫画で慣れたセンスからすると、ちょっと余分な感じもする。「極秘の聖火リレー」というアイディア自体が十分面白いのだから、それを出したらその後にはあまり続けず、せめて登場人物にずっこけさせるくらいにして、さくっと終わらせるというのが定石なのではないだろうか。でもここで敢えて憮然とした顔のお母さんに「そんなわけないでしょ」と突っ込ませることで、ただアイディアの提示に終わらない、コボちゃん家族の日常の風景が見えてくるのである。ここに、コボちゃんの面白さの秘密があると思う。

読売新聞は読み出して半年ほどになるのだが、その前は数年、日経新聞を読んでいた。その前はやはり数年、毎日新聞、そしてその前が朝日新聞。その前、結婚して自分で選んだ最初の新聞が、読売新聞だった。

読売新聞というと、どちらかというと「インテリじゃない人が読む新聞」に分類されるのではないかと思う。実際スポーツに興味のないぼくには、読売ジャイアンツについての大量の記事は全く意味がない。また家で主婦が読むことを考えてのことだろう、家庭欄も充実しており、だから読売新聞の紙面の半分は、ぼくはほとんど読まない。

さらに最近、読売新聞は「メガ文字」という、どの新聞よりも大きな活字を採用した。 これは高齢者を対象にした戦略だろうから、これもぼくにはあまり関係ない。要は読売新聞というのは、ジャイアンツ好きという、どちらかというと保守的な男性と、主婦と、そして高齢者を相手にしたものなのだ。

今ぼくの年齢くらい、四十代くらいの、仕事をバリバリやる人たちが中心的に読んでいる新聞と言えば、日経新聞だろう。駅の売店で買って、行きの電車で読むというのが定番だ。「株屋の新聞」と揶揄された時代もあったようだが、今は「世界経済と企業経営」を中心テーマに据え、将来は社長か重役に、と密かに思う、若いキャリア達の心をぐっとつかんでいると思う。そういう人たちの目から見えれば、電車で少年ジャンプを読む人間は、負け組みの典型だろう。そんな趣旨の広告も、たしか日経新聞は打っていたと思う。

ちょっと前ならたぶんそういう人たち、社会の中心的な担い手のうち、問題意識を持ち、何事にも前向きに取り組んでいくような人たちは、朝日新聞を読んでいたのではないだろうか。ぼくより一世代上の団塊の世代くらいの、大学生時代に学生運動に熱心に取り組んだような人たちは、たぶんみんな朝日新聞だったのではないかと想像する。しかしおそらく今、朝日新聞はその座を日経新聞に明け渡したのだ。それは冷戦下のイデオロギーの時代が終わり、グローバル社会の中での熾烈な競争の時代に突入したことの、一つの表れなのだと思う。

新聞の役割は、一つにはもちろん、様々な出来事を速報するというところにある。またその時、「中立である」という、出来事の当事者のどちらの側にも与することなく、客観的な記述をすること、が求められているだろう。

しかし新聞の役割はそれだけではない。個別の出来事の背後にある、「社会全体と」いうものについて論じ、それがこれからどのようになっていくと予想されるのか、また社会の構成員たる一人一人がそれに向けてどうしていくべきなのか、について、読者が考える機会を与えなければいけない。それは新聞というものの社会的な使命だろう。

ところがこれは、実は大変難しい問題である。社会の「全体」となった瞬間に、個別の「出来事」の時には可能であった、「当事者と報道する側の切り分け」ができなくなる。報道する側も、社会全体を構成する当事者の一員になってしまうからである。

朝日新聞はおそらく、それをあくまで認めず、社会は個別のみならず全体としても、客観的に分析し、論じることが可能であると信じた。それはまた共産主義の思想が信じたものでもある。社会を科学的に分析可能な対象物としてみなし、その分析結果に基づいて「共産主義社会」が理想のあり方であると提案する。しかし共産主義社会が見るも無残な独裁国家に成り果て、そして没落していった経緯が、それが幻想であったことをはっきり示している。朝日新聞の凋落は、それと軌を一つにしている。

それに対して日経新聞は、「社会全体を論じる」ということを巧妙に避けている。自分たちはあくまで「経済についての新聞」である、という理屈だろう。日経新聞は社会の全体的な問題についても、常に「経済」とか「経営」とかいう視点からのみ、物を言う。それが独自の歯切れよさを生んでいる。

しかし本当は、それは欺瞞である。社会が経済とそれ以外の世界にはっきりと分けられるわけではない。今の経済活動の大前提となっているグローバル社会の今後というものは、経済という視点だけからでは絶対に考えられない。そのような重要な問題を置き去りにしておきながら、あたかも自分がオピニオンリーダーであるかのような振る舞いをすることは、社会にとっては本来、百害あって一利なしである。

この問題について、読売新聞というのは、ひと言で言えば「ナベツネ」なのだ。読売新聞は社会全体について、一般誌として朝日新聞と同様、また日経新聞とは異なって、かなりはっきりとした主張をする。ところがその内容は詰まるところは、ナベツネ個人の主張なのである。

あのナベツネという人、好きかと言えば好きではない。自分が好き、という感じで、見るからに暑苦しい。以前、日経新聞の『私の履歴書』にナベツネが登場していたが、いかに自分が素晴らしいかを一ヶ月に渡って延々と書き続けており、正直げんなりした。しかし結局、全部読んでしまったが。

ナベツネは政治にも積極的に介入する。『私の履歴書』にも、これまで様々な政治的な局面において、政治家同士の会談を設定するなど、自分が一定の役割を果たしてきたことが自慢げに書かれている。全くもっていけ好かないおやじなのだが、でもありもしない幻想を抱いたり、本当はしないといけないことをしないで、さらにそのしていないことが、もともと存在すらしなかったというような顔をしたりするよりは、ましだと思うのだ。

まぁこういうことを書いたからって、ぼくが新聞にたいして取り立てて何かの期待をしているというわけではない。これから読売新聞を読み続けると、決意しているわけでもない。だいたいナベツネが死んだら、読売新聞はどうなるのだろうと思うし。ただこういうことって大事だよなと、書きながら自分に言い聞かせているのである。

ちなみに今日の読売新聞の書評欄に、面白い書評が載っていた。
小倉紀蔵評 『テロリズムを理解する』(F.M.モハダム、A.J.マーセラ編)
「テロとはらっきょうのようなもの」だそうだ。「外側からいくら皮をむいても、結局中身は逃げてしまうのだ。それは、学者たちが自分をテロの外側に置いているからだ。自分の内面とテロリズムが実はつながっている、という自己破壊的な自覚から出発していないからだ」という。誠に同感である。

またこれも面白かった。
米本昌平評 『精神疾患は脳の病気か』(エリオット・S・ヴァレンスタイン著)
多くの医学書に「精神疾患は脳内の神経伝達物質のバランスの欠如に因る」と書いてあるが、それが患者本人、家族、製薬会社、医師、保険会社など、関係者によって好都合であるために、実際より過大に喧伝されているということなのだそうだ。同じようなことに「胃潰瘍の原因はピロリ菌である」というのがあると思うのだが、こちらはどうなのだろう。

あとこれも。
土居丈朗評 『現代の金融政策-理論と実際』(白川方明著)
政治の駆け引きの中で、図らずも日銀総裁になってしまった白川氏だが、この自著ではバランスの取れた主張をしているそうである。今後白川総裁は、活躍できるのだろうか。

2008-04-16

味の素

ある年の正月を一人で過ごさないといけない羽目になり、せめて雑煮くらいは食べたいと、鶏がらの出汁を取ることを決意した。

子供の頃から料理は嫌いではなく、幼稚園の時代には得意のいり卵を作り、友達の女の子を招いて食べさせたこともある。それから腕前が上がることはなかったが、カレーとかラーメンとか、炒め物とか鍋物とか、そんな簡単なものにちょこちょこ手を出してはいた。

しかし出汁というものを取るのは初めて。よく洗った鶏がらを大鍋に張った水に沈め、とろ火にかけた。それから延々数時間、沸騰させないように気をつけながら、丁寧にアクを取っていると、それまで黒っぽく濁っていた水が、ある時すーっと白く澄んでいく。出来上がった鶏がらスープはまさに美味、雑煮にしたり、また鶏の水炊きに使ったり、さらにそれで茄子を煮てみたり、たっぷりと満喫した。

それから俄然、料理が楽しくなった。それまで料理を作るということは、レシピを見て作るものを決め、そこに書いてある材料を買い揃え、書いてある作り方の通りに作るものだと思っていた。しかし一旦おいしい出汁が取れると、その出汁を使って、今度は何を作ろうかと自分なりに考え始める。

とりあえず冷蔵庫にあるものを思い浮かべたりしながら、「茄子を煮てみようか」と思ったりする。でも「煮る」と言ってもそのやり方も知らないから、出汁に醤油だけを入れて煮てみたりする。出汁がおいしければ、ちょっとくらい変なやり方をしても、そこそこ食べられるものになる。食べてみて、ここはこうすれば、もっとおいしくなるだろうかと考え、次に実際それをやってみる。そんな風にしていくと、料理を内側から、自分自身で見つけていくという感覚になるのである。

もちろんレシピを見るのも嫌いではない。しかしそんな風に自分で料理を見つけられるようになると、レシピに書かれている材料や分量の意味、料理法そのものの構造といったものも、だんだんと読み取れるようになってくるのだ。

料理の本来の楽しさ、本来のあり方とは、こういうものなのではないかという気がする。人類の歴史100万年、その間を生きた全ての人間が、毎日物を食べるに当たって、ちょっとでもおいしいものを食べたいと思い続け、小さな工夫を積み重ねてきた。料理法とはそういったプロセスの集大成であり、人間の叡智の結集なのだ。レシピとはその表面だけを切り取ったものであり、本当はその背後に、そのレシピが成り立つに至る、人間の営みの巨大な領域が存在するのである。

レシピというものをそのように読み取れるならば、それは料理というものの全体を理解する大きな助けになるだろう。しかし、レシピの簡潔さを、それだけのものとして額面どおりに受け取ってしまうと、料理をただ表面からしか見られないということになってしまう。それでは少なくとも料理の面白さを知ることはできず、またおそらく、その本質に到達することもできないだろう。

そのような、料理の「簡便さ」というものの負の側面に思いを馳せる時、その中心に位置するものが、「味の素」であるという気がする。

長い時間をかけながら料理法が確立していくという時、どのようにして素材のアクやえぐみといったものを取り除き、うまみだけを引き出すのか、さらには複数の素材に由来するうまみをどのようにして融合し、調和させていくかということは、おそらく中心的な課題と言えるだろう。料理というものはもともとは、材料を全部水に入れ、そのまま煮て味をつけるというやり方が出発点だっただろう。実際このやり方は、どんな国の料理にも必ず存在する。このやり方では、料理の完成は即ち、出汁の完成でもある。料理をすることと出汁を取ることが分離していないのである。

そのうちそのプロセスが分割され、「出汁をとる」という作業が単独に取り出されることになる。さらにそれが科学の力によって推し進められ、出汁の構成成分のうち人間がうまみとしてを感じる成分のみを抽出し、粉末として取り出すことが可能になった。それが味の素である。

味の素を水に溶かせば、それだけで出汁ができてしまう。これほど簡便なことはない。しかしその時、「出汁をとる」ということが何なのかということは、全く見えなくなってしまう。それは即ち、料理ということが何なのかが見えなくなってしまうのである。

味の素はさらに、味の素の販売促進の一環として、味の素を使った料理の料理法を、レシピの形で世に広める努力をしていった。そしてその努力の結果、それが料理であると誤解する人間を大量に作り出すことに成功したのである。これはすでに重要な文化の破壊行為であるとも言える行いである。またそれが破壊行為であると一般には認識されていないことが、実はさらに深刻な問題なのである。

2008-04-13

名古屋-「偉大なる田舎」

転勤で一年半ほど、名古屋にいた。名古屋に住むようになってまず感じたことは、「女の子が可愛い」ということだ。

もちろん「東京と比べて」という意味になるのだが、まずなによりみずみずしい。溌剌としていると言うか、生き生きとしていると言うか、ピチピチしていると言うか、とにかくそういう感じなのだ。名古屋は「三大ブスの産地」とも言われる。しかし昔はいざ知らず、今は明らかにそれは当たっていない。

名古屋に行ってみて、東京の女の子が疲れきって、ぱさぱさに乾いていると感じるようになった。着ているものや化粧の仕方などは、東京の子は名古屋に比べて洗練されてはいる。また芸能人かと思うような目を見張るような美人も東京ではしばしば目にするが、名古屋ではあまり見かけない。しかし東京には他人の目に無関心としか思えないような子も多いのであって、そんな子も名古屋にはいない。名古屋の女の子は点数としては80点の合格点を中心として分布している感じである。

しかもその女の子たちがまた、愛想がいいのである。道を歩いていても、すれ違う女の子と目が合う。もちろん挨拶こそされないが、この子たちは自分に気があるのではないかと、名古屋に行った当初はかなり勘違いしたくらいだ。また居酒屋などでバイトしている女の子達は例外なく、こちらが発するおじさんのアホなトークに、嫌な顔一つせず付き合ってくれる。東京では「おやじ、うざい」と思われて終わるのは確実だ。

これはまあ、名古屋が田舎だということなのかも知れない。東京の子というものは、おそらくかなりの割合で、地方出身者である。地方から東京に来て、家族と離れて一人で苦労しながら生活している。想像するに地方から東京に来るような子は、地方に置いておくにはあまりにもったいない、ずば抜けた美人か、または地方では誰にも相手にされなかったか、そのどちらかなのではないだろうか。

それに対して田舎では、家族に大切に育てられたお嬢さんが、学生時代は都会で過ごすことがあったとしても、地元で就職し、結婚し、また新たに家庭を築いていく・・・、そんなサイクルがあるに違いない。名古屋の子のみずみずしさというのはおそらく、家庭や地域で人に囲まれながら大事に育てられてきたことの反映であるという気がする。実際名古屋の人が家族を大切にし、特に子ども達の結婚に際しては使うお金を惜しまないというのは有名な話だ。

名古屋の人は、自分の子供に限らず、人を大事にすると思う。人との出会いを尊び、出会った人との関係を後々まで継続する。名古屋ではよそ者がビジネスに参入するのがとても難しいとは、よく言われることだ。地縁、血縁、その他の様々な人のつながりの中で物事が決まっていくので、そこに入り込むのは至難の業だという。しかし一旦入り込んでしまえば、逆にこれほど心地よい世界はない。

ちょうど名古屋の市営地下鉄工事での談合問題が世を賑わせている頃、飲み屋で20歳そこそこのバーテンの男の子とそのことについての話しになった。談合が悪であるということは一般の常識であろうが、名古屋人であるそのバーテンは、必ずしもそうではない、とはっきり主張した。それよりただ安いだけで、粗悪品を作ってしまうことのほうが、よっぽど良くない、というのである。東京でそのような主張をする若いバーテンが、一人でもいるだろうか。談合というのは人のつながりの中で物事を決めていくということについての、一つのあり方だ。それは名古屋の風土に深く根ざしたものだとも思えるのである。

このように名古屋というのは、日本の代表的な、伝統的な、田舎のあり方を体現した場所であるとも言えると思うのだが、それでは名古屋が実際に田舎であるかと言えば、必ずしもそうではない。名古屋市の人口は、大阪市とそう変わらない。日本三大都市の一つであり、街の規模としては明らかに都会なのだ。しかしにもかかわらず、そこで暮らす人々の考え方の根底に、「田舎的なもの」が脈々と流れている。名古屋は「偉大なる田舎」と呼ばれるそうだが、たぶん名古屋はただ田舎なのではなく、都会になってしまうことを拒否し、田舎であり続けようとする強力な意思の働く場所なのだと思うのである。

ここ数年で名古屋駅の上のツインタワーや、駅前のミッドランド・スクエア(トヨタビル)、そのほかにも名古屋駅周辺ににょきにょきと、高層ビルが建てられるようになった。しかし東京では高層ビルは、40年ほど前に建てられ始めた。大阪でも同様だろう。それがこれまで名古屋には、一つの高層ビルもなかったのである。別に名古屋で高層ビルが建てられなかったのではないだろう。建てなかったのである。

名古屋駅近くの床屋に行った時、ミッドランドスクエアが出来て、そこに2000人のトヨタの社員が来てしまうと、電車が混まないかと心配していた。普通ならそんな心配をするより先に、自分の商売が繁盛することへの期待が、あるものなのではないだろうか。名古屋の人は、自分がいかに儲けられるかということより先に、いかに自分の生活が快適であるかを問うのだと思う。

実際名古屋の街は全体として広々として、ごちゃごちゃした場所がほとんどなく、電車も混まず、生活は本当に快適である。必要なものは全てあり、余分なものは一つもない。しかしこれは何も考えずに成り行き任せでそうなるものではないだろう。放っておけば街というものは、看板や、小さな店や、そういうものでいくらでもごちゃごちゃしていくものだろう。しかし名古屋では、明らかに、そうならないようにしているのである。過度の都市化を抑えようと、日々努力しているはずだと思うのである。

そのような、人とのつながりを大事にし、人が快適に生活できるということを大事にし、それを脅かすものを排除し、という名古屋の基本的な考え方は、おそらくどこにでもあるものではないだろう。ならばそれはどうして今、それが名古屋に存在するものなのか。

おそらくこのような考え方は、近代化以前の日本が、もともとは普遍的に持っていた考え方なのではないだろうか。実際『逝きし世の面影』 を読むと、近代化以前の日本を見て、近代化された外国人たちが抱いた新鮮な感動は、ぼくが名古屋で感じたことと、驚くほど共通する。

日本では近代化は明治維新によって導入されたが、近代化以前の日本というものは、徳川家康、豊臣秀吉、織田信長といった人たちによって礎を築かれ、形作られていった。彼らは皆、三河、尾張の名古屋人たちである。つまり近代化以前の日本は、都は京都に、城は大阪や江戸にあったにしても、社会を形づくる基本的な考え方、その中心地は名古屋だったのである。

明治維新によって近代化が導入された時、それを主導したのは長州や、薩摩や、そういう所の人たちであり、名古屋の人はどちらかと言えば旧守派としてワリを食った形になっただろう。しかし名古屋の人たちだけは、その後も近代以前の日本の考え方を大事に温め、方や推し進められる近代というものの考え方とそれとをどう調和できるのかを、問い続けてきたのだと思う。

その一つの代表的な例が、トヨタ自動車なのだではないだろうか。トヨタ自動車はもちろん近代的な企業であるが、もう一方で名古屋的な考え方を営々と持ち続けている。あれだけの大企業であるのに、「人をクビにしない」と公言し、第一に人を大切にすることを標榜する。それが仮に単なる建前であったとしても、すごいことである。

トヨタの改善方式などいうが、実態は方式というより、むしろ運動である。生産ラインの作業員は、もしラインで問題が起きたら、誰でもラインを止めて良い、という権利を持っている。そしてラインを止めた後どうするかというと、ラインの担当者同士で徹底的に話し合い、そこで問題を解決していくのだと言う。

近代の考え方は生産ラインの作業員に対して、工場という大きな機械を構成する一つの部品として機能することを求める。もちろんトヨタの作業員も当然、部品となるわけだが、それを実現する道筋が、他とは全く違うのである。普通の近代企業は、作業員に対する指令はトップダウンでやってくる。しかしトヨタでは違う。トヨタでは作業の内容についての一定の局面については、トップダウンによってではなく、作業員自身が相談しながら見つけていくように設定されているのである。

2008-04-10

無印良品

昔高校生の頃、付き合っていた女の子がいて、その子が「私、ブランドとか好きじゃなくて、マークとか何も入っていないのが好きなんだよね」と言っていたことがあった。その頃はUCLAのウィンドブレーカー全盛の時代、ぼくも当然それを着ていたわけだが、その子はそんなUCLAとか、Adidasとかという文字の入ったものはものは全く着ていない、独自のお洒落な感覚を持った子なのだった。

でもぼくはその時すでにその子のことがあまり好きではなくなっていたこともあって、その発言にかなりげんなり来たものだ。え?でもそれって方向は違うけど、結局ブランド志向といっしょじゃん・・・。その子とはその後すぐ、別れてしまったのだが、それから数年たって無印良品がスタートした時、その子はどう思っただろうか。

何を隠そう、実はぼくは、無印良品にハマっている。だいたいまず、メガネがムジ。毎日仕事に持って歩くカバンも、ボールペンも、電卓も。あと家の置時計も、冷蔵庫も、鍋もそう。ムジをもうちょっと早く知っていたら、ソファもベッドもカーテンもテーブルも照明も、ムジになるところだったのである。

そうやってムジにハマっているぼくなのだが、ちょっと複雑な気持ちがするのも事実。ハマっているというより、「ハメられている」という感じが、どうしてもしてしまうのだ。自分の弱いところのツボみたいなものを、カクンと衝かれて、へなへな、ってさせられちゃっているような、そんな感じがしてしまうのである。

ポイントは、良品はいいとして、「無印」っていうところにある。本来の筋からすると、品物が良ければ、印があってもなくても良いわけで、それをあえて「無印」と謳うところに、高等戦術がある。さらに無印と言いながら、実際には「無印という印」なわけだから、あざといすらと言えなくもない。

「ほんとはブランドなのに、ブランドじゃない、と言う」って、例えば秀才が、「ほんとは勉強できるのに、ぼくなんか全然ダメです、って言う」とか、女の子が、「ほんとは可愛いのに、私なんか全然可愛くないですー、って言う」とかいうことと似ているのだろうか。でもそれはちょっと違う。「勉強ができる」とか「可愛い」ということは程度の問題であって、それを、そうじゃない、って言うことはあくまで謙遜だけれど、「ブランドであるかどうか」は程度の問題じゃないからだ。

無印良品は「無印」と謳うことで、「ブランドみたいじゃないものを作るブランド」を目指したのだろう。ブランドは普通、常に「独自なもの」を目指していく。そのブランドの作るものが他にはない、独自なものだから、人はそれを買う。でもブランドというものはそれが故に、他とは違ったもの、変わったものへと向かうという性向をもつだろう。

それに対して無印良品は、「変わったものではなく、『定番』のものを作る」と考えたのだろう。メガネでもカバンでもいいけれど、その品物について本来必要な機能とか、あるべきデザインとはどういうものなのか、それを考え、形にし、しかも安価に提供していく。それが変わったものばかりが溢れる世の中には、逆に独自のもののように映り、受け入れられていった、ということなのではないかと思う。

その定番のスタイルというものが、無印良品にとっては、白とシルバーと木目、それに黒によって構築される一連の世界なわけだけれど、何がハメられているような感じがするのかと言うと、「それが本当の意味で定番なのか」と言われると、それはほんとは、そうではない、からなのである。

定番というのは本来たぶん、長い時間をかけながら人間が無意識に選択していったことの結果、決まってくるものなのではないだろうか。人間が物を作り、使い、また作り、ということを延々と繰り返していく中で、些末な事柄がだんだん淘汰され、いわゆる枯れて、いく。そこに姿を現してくるものが、定番というものなのだと思う。しかし無印良品の提示している定番は、そうではない。あくまでそれは無印良品の商品企画部によって考え出された定番、なのだ。

そのような意味での定番を喜んで受け取ってしまうということは、「定番好きの自分」を見透かされているような、足元を見られているような、そういう気恥ずかしさがあるのである。ちょうどキャバクラに行って、自分好みの女の子にハマってしまうのと、ちょっと似ている。相手はほんとは、自分好みでも何でもないのだ。プロのキャバクラ嬢というものは、こちらがどんな女が好みなのかを素早く察知して、それを瞬間に演じて見せるものなのである。

またインスタントラーメンや牛丼を、おいしいと思ってしまう感覚とも似ている。あれは本来、自然の意味ではおいしくない。しかし化学調味料の力で、人間がおいしいと感じてしまうような薬品の調合がされているだけなのである。

まぁ、そういうものに負けてしまう自分というのも、情けないと言えば情けないのだけれど、今の世の中、それは仕方ないというものだろう。そういうものが全然ないのも、またつまらないし。でもそういうもの、キャバクラや、牛丼や、そして無印良品といったもの、が何者であるのかということは、分かっていなければいけないなと思うのである。

2008-04-07

回し鮨 若貴 蒲田西口店

仕事というものはもちろん、与えられるものである。その与えられた仕事を、しかし誠心誠意務めようとする時に、一つの世界がつくりだされていく。自分と社会、および一緒に仕事をする仲間達、その間に一つの秩序だった流れが生み出されていく。

繁盛している店には常に、そういう流れのようなもの、活気のある雰囲気、というようなものが感じられる。働いている人間は、ごくごく普通のおじちゃんおばちゃん、兄ちゃん姉ちゃんだ。仕事が終わったらグレーのジャンパーを羽織り、競馬新聞を片手に焼き鳥屋に向かうような、またスーパーのレジ袋を片手に家路に向かうような、そんなありふれた人間の集合体。それが客を思いやり、仲間を思いやり、注文を記憶し、利益に思いを馳せ、ということの中で、日々新しい発見をしていく。

そういう場の中に身を置いた時、人間は居心地の良さを感じるのだろう。それが店が繁盛するということであるように思う。

寿司は日本を代表する食文化だ。もともと屋台が起源であるそうだが、寿司職人というもの、ただ調理師であるというだけではない。客の注文を聞き、料理をテーブルに運ぶウェイターでもあるし、また客の話し相手をするバーテンダーでもある。人間が物を食べ、楽しい時間を過ごすということに関する全てを、寿司屋においては寿司職人が司るのである。これは世界であまり類を見ないことなのではないかと想像する。

客と寿司職人の間には、メニューというものは基本的に存在しない。客は寿司職人から直接、お薦めのネタを聞き、また職人も客の顔を見ながら、好みを計る。そして両者の共同活動、コミュニケーションの結果として、寿司が握られていく。寿司を食べるということは、極上のエンターテイメントでもあるのである。


回し寿司 若貴 蒲田西口店

回し鮨 若貴は回転寿司屋だから、もちろんレベルは極上とまではいかない。しかし1500円で生ビール一杯、そこそこ不味くない寿司を腹一杯、それに味噌汁は、いかにも安い。午後2時から6時と9時から閉店までは、同じ値段で大トロも食べられる。行列ができるはずである。

Yahoo!グルメ:回し鮨 若貴 蒲田西口店

2008-04-04

『随園食単』 袁 枚著、青木正児訳注

この本は、どこぞの本で「中国料理を知るならこの本」のようなことが書いてあったのを見て、買い求めたものである。

著者の袁枚はもともと清の時代の中国の役人だったが、40歳で引退し、売文で身を立てた人。売れっ子でかなりの収入があったようだが、それを「随園」という自分の邸宅を整備・経営することに投じ、そこでは様々な方面から人が集まり、詩歌の会などを催しながら飲食を楽しんだと言う。美食家としても知られ、各所でうまいものがあれば、その食単(レシピ)を蒐集し、それをまとめたものが、この『随園食単』というわけだ。

訳注の青木正児は高名な中国文学者とのことだが、読み進めると随所に、訳者が著者を低く見る「上から目線」を感じる表現がある。訳注で著者の間違いを指摘したり、それは良いとしても著者の表現そのものを、他書を引用しながら馬鹿にしてみたり、あとがきには「この随園食単はもともと虫が好かず、中国料理に関しては他にもっと良い本もあるのだが、翻訳を依頼され仕方なく引き受けた」というようなことまで書いてある。何もそこまで言わなくても、と腹が立つほどであったが、それが一つにはこの本の性質を表しているのだと思う。

著者の袁枚が役所を辞めたのは、転勤した先の上司とそりが合わなかったからであるという。そこでもともとあった文才を利用して、大衆迎合的な詩歌や文を売りファンを増やし、そこからの収入によって随園で豪奢な生活をした。まずその姿勢そのものが、大学でまじめに研究する中国文学者の性には合わなかったのだろう。その訳者のおかげで日本に紹介された随園食単が、後に中国料理について書かれた代表的な一作であると評価されているのを知ったら、さぞ複雑な思いがしたに違いない。

日本人には国民性として、判官贔屓なところがあるだろう。社会の仕組みに従順な一方で、才能がありながら性格の問題で社会に適応できず、外れていった人間に対して、過度に同情し、応援する。日本料理について魯山人がどれだけのことをしたのか詳しくないが、おそらく本当に料理に職業として打ち込んでいる人から見るより以上の評価を、魯山人は一般から受けているのではないか。そのことは魯山人が終生孤高の人であり、晩年は孤独とも言える生活を送ったことと無関係ではないだろう。袁枚のこの本が日本で受けている評価についても、同じようなことなのではないかと想像するのである。

中国料理と言うと、何となく「炒め物」が頭に浮かぶ。しかしこの本のレシピを見ると、炒め物はごく一部である。それより煮物、蒸し物、和え物、汁物、などなどが多く、日本料理とそれほど変わらない印象である。魯山人はその著書で中国料理に対して、「素材を吟味せずにいくら手を加えても、うまいものはできない」という趣旨の批判をしている。しかしどうしてどうして、随園食単の冒頭の第一節は「天性を知ること」と題し、「物の品質が不良ならば、料理の名人がこれを割烹しても無意味である」と、魯山人と全く同じことを書いている。考えてみれば中国は長年、日本の先生であったのだから、日本料理の基本的な精神が中国伝来のものであるとしても不思議ではないのである。

中国料理と言うと炒め物、というイメージがあるのは逆に言うと、日本料理においては伝統的には炒め物がほとんどないからであろう。日本にないものだから、それが中国料理の特徴として際立つところがある。それではなぜ日本料理には炒め物がないのだろう。中国から日本に料理の文化が伝来してくるに当たり、「炒める」という部分が抜け落ちてしまったということである。炒めるということが、日本の文化と相容れないところがあったのか?

逆に日本にあって中国にはないものが、魚の生食(寿司・刺身)、溶いた小麦粉を衣にした揚げ物(天ぷら)、そして醤油たれを漬けながら焼く焼き物(照り焼き)である。

このような文化の変容はとても興味深く、その根底に何らかの基本的な考え方の変化があったに違いない。それが何であるかはまだ分からないが、是非今後探求してみたいと思うテーマである。

岩波文庫。700円+税。
Amazon.co.jp: 随園食単 (岩波文庫 青 262-1)

2008-04-02

蒲田西口 南蛮カレー

カレーは好きで、よく食べる。週に3度は食べると思う。立ち食いそば屋のカレー、COCO一番のようなカレー専門チェーン店のカレー、松屋のような牛丼屋のカレー、インドカレー屋のカレー、色々食べる。でも結局、家で作る、市販のカレールーを使った、別にこれと言って工夫もない普通のカレーが、いちばんうまいなと思う。

おそらくカレーのうまさというものが、肉や色んな野菜を、一緒に煮込むことによるうまさだからなのではないだろうか。

これは家でやるのは簡単なことである。鍋に肉も野菜も全部一緒に入れて、ただぐつぐつやればいい。しかし特にチェーン店などでやるのは、かなり難しいだろう。

チェーン店の場合、メニューがカレー一種類というわけにもいかないだろう。ポークカレーとか、野菜カレーとか、カツカレーとか、いろんな種類を出さないといけない。そうするとどうしても、カレーのソースと入れる具を別々に用意して、現場で合わせるということになる。一緒にぐつぐつやっていないのである。 もちろんそれぞれの店で、ソースは工夫して作っているとは思うけれど、やはり一緒にぐつぐつにはかなわないのだ。

あとチェーン店には冷凍という問題もある。チェーン店の場合ソースや具材をどこかの調理センターみたいな場所で作り、冷凍して各店に運ぶということになるだろう。しかし冷凍したものはどうしても、味に勢いがなくなる。

さらには、店でカレーを出す以上、家で出すカレーと同じではいけないと、店のプライドとして考えてしまうということもあるような気がする。スパイスを工夫してみたり、色々なものを混ぜ込んでみたり。でも家で出すカレーと違おうとすればするほど、逆においしさから遠ざかってしまうのだ。

というような理由で、店のカレーが家のカレーに勝てない、という、普通ならあまりなさそうなことが起こるである。 まぁそれでも日本人は店でもたくさんカレーを食べるのだから、ほんとにカレー好きな国民なのだろう。


南蛮カレー カツカレー

蒲田西口にある「南蛮カレー」は、そんなカレー屋の中で数少ない、家で食べるカレーの味がする店だ。チェーン店ではなく、ここ一軒。厨房の奥に巨大なスープ釜が見えるのだが、それで作っているのだろう。ぐつぐつのうまさがする。

盛り方がまたいい。最近のカレー屋はご飯を皿の端っこに島のようによそって、カレーをそのまわりに海のようによそうという、洒落たことをしがちだが、ここではそんなことは全然しない。ご飯は真ん中。カレーはその上からどばーっと、火山から流れる溶岩流のようによそう。

やはり何といってもカツカレーがお薦め。カツもうまいが、嬉しいのはキャベツの千切り。不揃いだから、たぶん手で切っている。それを片手でがばっとつかんで、カレーの脇にそえてくれる。

これをカツカレーの上に載せて、福神漬けと紅しょうがをその上にかけて食べるのが、高野流。あ、キャベツを載せる前に、青いタバスコたっぷりと、どろりウスターソースも忘れずに。

これで680円。満足度かなり大。

食べログ.com:南蛮カレー