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2008-04-29

今朝の読売新聞

福田首相が、道路財源の一般財源化を来年度から実施するということについて、与党である公明党太田代表と合意文書を交わし、閣議決定する方針を表明した。党内の改革派や国民に対してアピールするためで、道路族議員の親玉である青木氏や古賀氏も認めたらしい。

さすがに支持率が低迷し、選挙でも負けて、お尻に火がついて動き出したというところかと思うのだけれど、どうなんだろう?

福田さんって、首相になるに当たって、前回安部さんと競り合ったときは、自分を支持する動きが広がりきらなかったと判断して自ら戦いを放棄、それで安部さんがあんなことになって、福田支持の動きが党内の多勢を占めると判断すると、やっと重い腰を上げる、そんな感じで物を決めてきている。みんなが一つの意見にまとまるのを時間をかけて待ち、まとまったところでそれに乗っかる。そういうのって一つの立派なやり方だとは思うのだけれど、ちょっと古いんじゃないかっていう気もするんだよね。

今回もほんとに待ったなし、坂道をごろごろ転げ落ちて、もう崩壊寸前になっているから、さすがに青木氏も古賀氏も賛成せざるを得なかったという感じだと思うけれど、そこまで待って、反対派も賛成しないといけない状況になって、そこで一歩踏み出したのが今、って、もう時すでに遅しなんじゃないかと。

昔は日本も世界も、放っておいても物事が前に進むというか、拡大していくというか、そういう時代だったんじゃないかと思う。だけど、放っておくとみんなが勝手な方向に進んでしまって、無秩序になってしまうから、それじゃまずいと、もう一回きちんと方向を定めないとな、っていうことをみんなが思って、うんうん、こっちへ行こう、って合意して、それじゃそれで行きましょうとリーダーが最後に決断する、みたいなことで、昔は成り立っていた。

でも今はたぶんそういう時代ではなくて、放っておくと物事が縮小してしまうような、そういう方向なんじゃないかという気がする。今回も自民党が発展的に何か動いているというより、どんどん縮小してしまい、これ以上はもう危険だというところになって合意しているのじゃないか。それって決断が消極的というか、縮小的というか、そんな感じがするんだよね。

何かすごく考え違いしていると思うのだけれど、70歳過ぎた福田首相には、これ以上は無理なんだという気がする。これからどうなるんだろう、日本は?

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東京・渋谷で夫を殺し、ばらばらに切り刻んで捨てた女に、懲役15年の判決が下った。精神鑑定では犯行時は精神障害状態で、責任能力がないということだったが、それは踏まえながらも、女が犯行時のことをきちんと覚えていたり、犯行を隠蔽しようとしていたりするので、必ずしも責任能力がなかったとは言えない、ということらしい。

まぁ判決自体は、これから専門家が色々議論しながら決めていくんだろうからそれでいいのだけれど、この「責任能力」って、何だろうなと思う。

責任というものは、物事に原因と結果という道筋をつけようとするときに、その原因を担う存在に対して自動的に発生するものだろう。人を殺せば殺した人に責任がある。それはその本人が好むと好まざるとに関わらず、客観的に与えられるものであって、それを拒否することは責任放棄と呼ばれ、本来は許されない。しかしそれにはいくつか例外があって、その一つが、本人が責任というものを認識できないような精神状態の場合、ということなのだろう。その場合、その人は責任を認識する「能力」がなかったと言われる。

しかし責任を認識することのできない人って、何も精神障害に限らず、世の中にはたくさんいるのではないだろうか。極端な話、北朝鮮の金正日氏。またビンラディン。この人たちは日本人を拉致したり、また貿易センタービルに飛行機を突っ込ませたりしても、自分が何らかの意味でそれに対して責任があるとは全く思っていない。本来ならこの人たちを有罪にしたいところだろうけれど、それもなかなか難しい、それではその人たちに「責任能力がない」として済ませられるのかといえば、そうでもない。何らかの意味で折り合いをつけていかなければいけないのだけれど、それをどうしていったらいいのか誰も分からないというのが、今の時代なんじゃないかという気がする。

金正日やビンラディンまでいかなくても、世の中には「責任能力がない」人はたくさんいると思う。その人たちとどう折り合いをつけ、一つの世界を見つけていく一員に一緒にどうなれるのかということが、今の時代の火急の課題なのではないかと思う。