「庶民の魚」といえば、代表格はサンマだろうが、イワシだって負けてはいない。
サンマは、漢字で書くと「秋刀魚」で、「鯛」だの「鯖」だののように、漢字1文字で表記されない。これはサンマを日本人が食べるようになったのが、比較的新しいからだ。
サンマが回遊するのは、沖合の方だから、昔は効率的に獲ることができず、江戸時代の後期になって、ようやく一般に食べられるようになった。「秋刀魚」の表記が定着したのは大正時代で、明治の文豪・夏目漱石は、「三馬」と書いているとのこと。
それに比べてイワシの歴史は長く、平安時代の昔から、食べられていたのだそうだ。すぐに痛むので、貴族のあいだでは「下賎な魚」と考えられていたが、紫式部は、イワシを好んで食べたという。
サンマもイワシも、塩焼きにするとたいへんうまいが、サンマの塩焼きは、焼きたてのアツアツのときは、たしかに死ぬかとおもうくらいうまいが、冷めると急激にまずくなる。それにたいしてイワシの塩焼きは、冷めてもそれほど、味が変わらず食べられる。肴をチビチビとつまむ、酒のみにとっては、うれしいところだ。
今はイワシも旬だから、魚屋にもまるまると太った、うまそうなイワシが売っている。これを今回は、煮付けることにした。
イワシを煮付けるといえば、ふつうは頭とハラワタをとり、梅干しや酢を入れ、甘辛くこってりやるのが定番だろう。もちろんこれで、まずいことなどあるはずはないのだが、檀一雄は「檀流クッキング」で、随分ちがったやり方で、イワシを煮付けている。
檀流クッキングには、次のように書いてある。
「イワシは、ヒシコイワシだって、マイワシだって、私の大の好物だから、いつも卓上に置いているようなものであるが、よそ様とちょっと変わった煮方だと思えるところは、まったく、何の手もかけない。買ったままのイワシを、そのまま、ザルでゆすいで、鍋に入れる。つまり、ハラワタを抜かないで、全貌のまま、煮るのである。
ただ、鍋の底に、つぶし切りにしたショウガと、ダシコブを敷いておいて、淡口醤油と梅干しを2粒3粒たんねんにそぎ切りにしたもので味をつける。酒を少々とコップ半分ぐらいのお茶を注ぎ入れ、醤油の味を薄めながら、中ブタをして煮るが、どうしてお茶を加えるんだか、私はその原因をシカとは知らない。知らないままに、その方が、おいしく、私の口に合うことだけを知っている」
檀の煮方は、まず頭もハラワタもとらないところが変わっているが、それより何より、みりんも砂糖も、一切入れないのが特徴だろう。甘みを一切入れない魚の煮付けとは、まったく変わっているけれども、そこに「お茶」を入れるとは、さらに変わっている。
今回この「檀流イワシの煮付け」がどんな味になるものなのか、実際つくって、試してみることにした。
イワシはただ水で洗うだけで、頭もハラワタも落とさない。イワシのかっこうは、何とはなしに愛嬌があるから、僕はそれには賛成だ。
「たんねんにソギ切り」した、梅干し。
「つぶし切り」にしようとおもったが、うまくできなかったため細切りにした、ショウガ。
お茶を、コップに半分くらい。
酒を少々。
昆布をしいた鍋にこれらを入れ、火にかけ、沸いてきたら、イワシを入れる。
淡口醤油をここに入れるが、甘みが入らないし、梅干しの塩気も、煮ているうちに出てくるから、かなり少なめにしておかないと、塩辛くなる。
「ジョボ、ジョボ、ジョボ」という程度。味をみながら、慎重にやる。
「中ぶた」をして、中火で煮る。
イワシは7、8分は煮たいところだが、上の分量だと、途中で水気が足りなくなる可能性が高い。その場合、お茶や酒を足すようにする。
またやってみてわかったのだが、みりんも砂糖も入れないから、煮汁が泡立ってこない。そうなると、落しブタをしても、煮汁が魚の上にまわってこないから、これは途中でひっくり返さないと、うまく火が通らないのじゃないかとおもう。
煮汁の量に気をつけて、7、8分して、ちょうど煮汁が、ほぼ煮詰まるようにすれば、出来あがり。
終盤は、落しブタをはずし、スプーンで煮汁を、魚の上からかけてやるようにすると、魚に味がつきやすい。
というわけで、「色どり淡く」煮上がった、檀流イワシの煮付けだが、これがたいへんうまかった。
魚を煮付けるのに、みりんも砂糖も入れないのでは、「味が足りなくなるのじゃないか」とおもうところだ。しかしこれを、「お茶」が、うまいことおぎない、いい役割を果たしている。
お茶にはほんのりとした、甘みがある。これが煮詰まるにつれ、凝縮されて、上品な甘さをかもしだすことになるのだ。
しかもこの、「お茶の甘み」が、「梅干し」と、なんともよく合う。
お茶をのみながら、梅干しをかじるのがおいしいのは、誰でも知っているとおもうけれども、これは、まさにその味。非常に上品で、滋味ぶかい。
それがイワシの、独特の香味と、完璧に調和する。
ネットで、イワシを煮付けるのにお茶を入れるレシピを探してみたけれど、「檀流クッキングを完全再現する」、という以外のものは、見当たらなかった。
このやり方を、もし檀一雄が考えだしたのだとしたら、すごいことだな。
見た目も、色どり淡く、風情ある仕上がりになるし、味も非常に上品。
以前、「檀流キンピラゴボウ」をつくってみたときにも、檀一雄がキンピラゴボウを、やはり色どり淡く、白く仕上げるために、醤油をあまり使わず、他のもので旨みをおぎなうよう、工夫している様子がうかがわれた。
たぶんこのイワシの煮方も、檀は、色どり淡く仕上げるには、どうしたらよいのか、工夫に工夫を重ねた末、編みだしたものなのじゃないか。
それを、
「どうしてお茶を加えるんだか、私はその原因をシカとは知らない。知らないままに、その方が、おいしく、私の口に合うことだけを知っている」
などと、とぼけてみせるのは、檀流の「ダンディズム」なのじゃないかとおもえてくる。
「檀流クッキング」は、檀が文学者だから、もちろん読むだけでじゅうぶん、楽しめるようにはなっている。しかし檀のレシピを、実際につくってみると、読んでいるだけでは決してわからない、檀の人間性の、奥深いところがみえてくる。
檀がそれだけ、料理にたいし、心血をそそいでいたということなのだろう。
このイワシの煮方にしても、これだけすぐれたものが、世に埋もれてしまうことになるとしたら、なんとももったいない。
ぜひ誰か、試してみてくれるひとが、いたらいいとおもうところだ。
昨日はあとは、これも檀流、「オクラのおろし和え」。
サッと塩ゆでしたオクラと、大根おろしをよくまぜ合わせ、オクラの粘り気を、大根にうつしたあと、冷蔵庫でしばらく冷やす。シラス干しを入れさらに混ぜ、ポン酢をかけて食べる。
「粘り気のある大根おろし」が、なんとも風情がある。
それから昨日は、以前から欲しいとおもっていた「浅漬け器」を、とうとう買ったのだ。
それで、出はじめたカブを漬けてみた。
塩もみしたカブと、カブの葉を、浅漬け器に入れ、上から圧力をかけるだけ。
カブは、茎の部分はかたいから、つかわない。これは八百屋のオネエさんのアドバイス。
とりあえず、昆布もトウガラシも何もくわえず、塩だけで味付けしてみたが、やはりカブは、旬なんだな、甘くてみずみずしくて、たいへん、うまい。
醤油も、かける必要がなかった。
それに、豆腐屋で買った豆腐を冷奴にして、冷や酒を、昨日も2合。