池波正太郎の食のエッセイには、東京や京都、大阪をはじめとして、全国各地で食べたもののことも書いてあるが、それより池波が、自分の家で食べた食事のことを書いたものがおもしろい。
池波は、「自分が食べる食事は、きちんと自分で考え、納得したものを食べる」ことをつらぬいた人だ。独身時代、毎日の夕食を自炊したことは、それほど珍しいともいえないかも知れないが、結婚してからも、それは変わらなかった。台所にくびを突っ込みつづけたのだ。
「男というものは、台所へくびを突っ込むものではない」
といわれるようになったのが、じつは徳川幕府が、男女の規範をいろいろと面倒にきめてしまってから出来あがったイメージであり、江戸時代初期から戦国時代にさかのぼると、
「男はみな、台所へくびを突っ込んでいる・・・」
と、池波は書いている。
織田信長や、豊臣秀吉、徳川家康、加藤清正、伊達政宗などの戦国武将も、食べることにはうるさく、それぞれ好みの料理人を抱えて、客をもてなす時には、献立を熱心に検討していたのだそうだ。
旅先に同行した池波の若い友人が、朝飯にはほんとうは、納豆と味噌汁が食べたいのに、
「ワイフがそんなものは下等だからといって、毎朝、ハムエッグとトーストと・・・」
しか食べさせてもらえないときいて、池波は、
「食べたくないものが出たら食卓を引っくり返せ。それでないと、一生、食いたいものも食えねえぜ」
と啖呵をきったと書いている。
実際池波は、奥さんにたいして、自分が食べたいものを食べることができるように、徹底的に教育している。
自分が散歩にいき、商店街で食べたいものを見つければ、それを買い、奥さんに、
「これをこうしてくれ」
と注文する。奥さんが、
「今夜は、こうしたいと思う」
といい出て、それが気に入れば、だまっている。
奥さんを、料理教室へ通わせたり、また外の味を知らせるために、定期的に外食に連れだしたり、旅行に連れていったりもしている。
池波はまた、奥さんが献立を考えるときのヒントになるようにと、「惣菜日記」を、何年にもわたってつけていた。毎日の家の食事で食べたものが、一品一品書かれていて、うまかったものには色鉛筆で○印がつけられている。
ひどくまずいときには、×印がつけられて、
「今日の夕飯は、身にも皮にもならなかった。こんなものを食べさせられていては、とても仕事がつづかぬ。家族を養うちからもわいてこない・・・」
などとも書くのだそうだ。
この惣菜日記が、「食卓の情景」でも、いくつか引用されているのだが、これがどれも、何ともうまそうだから、ここでもちょっと、引用してみたい。
昭和42年12月9日
〔昼 12時〕 鰤の塩焼き(大根おろし)、葱の味噌汁、香の物、飯。
〔夕 6時〕 鶏のハンバーグ(白ソース)、グリーンサラダ、ウイスキー・ソーダ(2)、鰤の山かけ、大根とアサリの煮物、飯。
〔夜食 午後11時〕 更科の乾そば。
昭和43年同月同日
〔昼〕 ドライカレー、コーヒー。
〔夕〕 赤貝とキュウリの酢の物、鯛の塩焼き、冷酒(茶わん2)、カツ丼。
〔夜食〕 カツうどん。
昭和45年同月同日とくべつ豪華というわけでもなく、変わったものでもないが、その一品一品を、池波が「何を食おうか、考えぬいて」いるかと思うと、趣ぶかく感じられる。
〔昼〕 カツレツ、飯、サラダ、コーヒー。
〔夕〕 ウイスキー・ソーダ(3)、牛味噌漬、ムツの子の煮つけ、千枚漬、マグロの刺身、葱入り炒り卵、飯、コーヒー。
それで昨日は、池波のある日の夕食、
「豚肉の小間切れとホウレン草だけの〔常夜鍋〕と鰯の塩焼き。これで冷酒を茶わんで2杯。その後で、鍋に残ったスープを飯にかけて食べた」(「そうざい料理帖巻2 」冒頭)というのを、ようやく涼しくなり、鍋がおいしい季節になってきたから、自分でもやってみることにしたわけだ。
ほうれん草は、一時の値段の高騰が、ようやく落ち着いてきた。これからいよいよ、本格的な青菜のシーズンとなるわけだ。これは八百屋で買った、京都の地のほうれん草。
ほうれん草は、そのまま鍋に入れてしまうと、アクが出て、せっかくの鍋の汁をすっかりダメにしてしまうから、あらかじめ下ゆでし、よくしぼっておく。
豚肉の小間切れは、肉屋で買ったもの。値段はスーパーと変わらないが、こちらのほうが断然うまい。
薬味はとくべつ書いていないが、当然ポン酢。それに大根おろし。池波はよく唐辛子を振ってものを食べるから、ここでも一味唐辛子を振りこんだ。それに、池波はそうはしなかったと思うが、青ネギ。
鍋には昆布をしき、水と酒を、池波の表現によれば、「酒3、水7の割合」で煮立てる。
池波はこれを、自分ひとりでお膳につき、小鍋で煮ながら食べる「小鍋立て」にする。
煮上がった熱々のをそのまま口にはこび、冷や酒を飲むのは、なんともたまらん。
あとはイワシの塩焼き。魚屋でまるまる太ったのが売ってたから買ってきた。
ただ塩を振って焼くだけだが、考えてみたら今はイワシも旬なのだな。脂がのっていて非常にうまい。
常夜鍋に、イワシの塩焼きという献立は、今回これを実際に食べてみるまでは、池波家でイワシがあまってしまったか何かで、それを出したのだろうと思っていたが、ちがうのだ。
この献立について、池波が書いたのがいつだろうと、初出をよくよく見てみたら、昭和49年12月号の「現代」となっている。雑誌の12月号は、11月にでる。原稿を書くのは、その1ヶ月前だから、10月。要は今回僕が食べたのと、まったく同じころ、池波はこれを食べている。
10月はちょうど、ほうれん草の旬がこれから始まり、一方イワシの旬は終わりかけているという、ほうれん草とイワシの両方がおいしい季節だ。
池波は、あまったイワシを食べたのじゃなく、旬の野菜と魚を、うまく塩梅したということなのだな。
偶然同じ時期に食べたから分かったことだが、さすが池波、「何を食おうか、考えぬいて」いるだけのことはある。
ほんとうは、池波がやるみたいに、鍋の汁をご飯にかけて食べたかったが、腹がいっぱいになってしまい、そこまでたどり着けなかった。
肉やほうれん草が、ちょっと多かったかとは思うが、上の惣菜日記をみても、かなりの量があるようだから、池波はよく食べる人だったのだろう。