池波正太郎は時代小説の作家だが、「食」についてのエッセイにも定評がある。
もし一冊読むとしたら、「食卓の情景」がおすすめだが、まず何がいいと言えば、何とも風情がある、リズミカルな文体だ。
池波正太郎は元々新国劇の脚本を書いていたから、そこで舞台の間とか、観客の盛り上がりとかについて、徹底的に訓練されたのだろう。文章の調子に、読むものを虜にするような、麻薬のような魅力がある。さしずめフーテンの寅さんのテキ屋の口上、ああいう軽薄なものではないが、ちょっと相通ずるものもある。
池波は、若い時分は自分で料理もしたそうだが、結婚してからは、料理は奥さんと、それから自分のお母さんとにまかせている。「食卓の風景」の冒頭にも書かれていることだが、家にいる「二人の女」を操縦しながら、いかに自分の食べたいものを作らせるか、その苦心のさまが興味深い。
作家という自宅で仕事をする職業柄、食事は池波にとって何よりの楽しみとなる。だから池波は、今日は何を食べようかを、朝起きた時から考え始め、場合によっては散歩の途中で自分で買い物をし、それを奥さんに作らせる。奥さんの作るものを、ただ受身で食べることは一切無く、自分が「これを作れ」と指示を出すか、奥さんが作ろうと思っているものを聞き、それで良ければ許可をして、それを自分一人でお膳に座り食べる。
エッセイには池波が日常、家で食べる食事のことについてもふんだんに書かれていて、各地の豪華な料理のことよりも、むしろそちらに魅力がある。非常に質素な、当たり前の食い物なのだが、池波がそれを食べることについて、「念には念を入れて」考えぬき、食べたであろうことが伝わってくる。
例えば…。
「今日の夕飯は、豚肉の小間切れとホウレン草だけの〔常夜鍋〕と鰯の塩焼き。これで冷酒を茶わんで二杯。その後で、鍋に残ったスープを飯にかけて食べた…」
こんな一行を目にするだけで、自分も同じものを、強烈に食べてみたくなってくる。こうやって抜き出して、引用してしまうと、魅力が伝わらないかもしれないが、池波の独特の文章のリズムの中に、この一行が紛れ込んでいると、ごく当たり前の食い物なのに、何とも怪しい魅力を放つのだ。
池波のエッセイに出てくる料理は、これまでいくつも作っているが、昨日作ったのは、池波のお母さんが、子供の頃時々作ってくれていたという「すきやき」。「そうざい料理帖」という、池波の食のエッセイの中から、料亭やレストランではなく、自分の家で食べているものを中心にまとめたものがあり、これは「巻一」のほうがおすすめなのだが、すきやきが載っているのは「巻二」のほう。荻昌弘との対談で池波が語っている、そのすきやきの作り方は次の通りだ。
「鍋に一遍水を張って野菜を入れますね。これが沸騰して柔らかくなった時に、(牛の)小間切れを全部入れちゃう。それで醤油とお砂糖で甘辛くワーッと煮たのをパッとお膳に出して、皆で食うんです。唐辛子を振って」
出汁はおろか、酒やみりんも使わない、なんともシンプルなやり方なのだが、それだけに逆に、どんな味がするものなのか、試してみたくなるだろう。
このすきやきは、これまで何度も作っているのが、実にうまいのだ。
鍋に水を張り、野菜を入れて火にかける。「そうざい料理帖」を見ると、野菜は「ジャガイモとニンジンとか・・・」であることが分かるのだが、昨日はそれに加え大根、それから玉ねぎをあとから加える。
野菜は鍋のフタをして、柔らかくなるまで7~8分煮る。
そうしたらここに玉ねぎと牛小間切れを入れ、砂糖と醤油でこってりと甘辛く味を付ける。
池波はここで「ワーッと煮る」と言っているが、おそらくこれは、牛は煮過ぎると固くなるから、あまり煮込まず火から下ろすと解釈する。玉ねぎも、やはりあまり煮ないほうがいい。アクを取っている様子もないから、ここでも取らない。
早めに火を止めてしまうから、出来立てはまだ味が馴染んでいないのだが、冷めるにつれ徐々に味が染み、うまくなっていく。七味唐辛子と青ネギをかけて食べた。
実は一度このすきやきを、きちんと出汁をとり、酒もみりんも入れて作ってみたことがあるのだが、あまりおいしくなかった。それよりも、こうやって出汁もつかわず、砂糖と醤油だけで味付けしたほうが、よっぽどうまい。牛肉は、独特の甘みがある濃厚な出汁がでるから、下手に色々入れてしまうより、出汁の味を活かすようにしたほうがいいということだろう。
このすきやきは、昭和の、しかも戦前の料理だ。化学調味料に慣れた現代人の舌から見ると、少し物足りないものがあるかもしれないが、素朴でありながら十分な味がする。
これで昨日は、冷や酒を2合飲んだ。