ツイッターで横尾忠則をフォローしていて、これがけっこう面白いのだが、横尾忠則がこれまでに作った900点のポスターを展示している展覧会が、大阪でやっていて、しかも今日までだ、ということに、昨日気付き、どうしようか迷ったのだが、やはり行ってみることにした。
迷ったというのは、僕は絵画だとか、デザインだとか、あまり見たりする趣味がなく、どちらかといえば、頓着しないほうなので、見ても、わからないかもしれないな、と思ったのだ。
しかしまあ、それこそ恥ずべき考え方で、何かを見て、わかるとか、わからないとか、そういう問題じゃない、ということは、小林秀雄が100万回くらいは、言っていたことなのだよな。
そうじゃなく、見ることそのものに意味がある。
予断をもたずに、そのものをまっすぐ見て、自分のなかに自然と湧き上がってくるもの、それを大事にすればいいのだ。
わかっていたはずなのに、いざ今日一日、本を読むのと、展覧会に行くのとでは、どちらが有意義に過ごせるか、などということを考えてしまうと、こういう落とし穴にハマってしまうというわけなのだ。
横尾忠則のことを、面白いと思っているのだから、その人が生涯に描いたすべてのポスターを見ることが、有意義でないわけがないのだ。
でも今日、2周したのだけれど、2周めは、けっこう混んでたな。
1960年代の、デザイン会社に入って、ポスター制作を始めたころから、ヒッピー文化にのめり込んで、宗教っぽい感じのものが増えたり、ビートルズに影響を受けたり、画家宣言をして、自分の描いた油絵をそのままポスターにしてみたり、またふつうのポスターにもどったりという、時間軸上の変遷が、わかるように並べられている。
いちばん最後には、高校時代に描いたポスターが飾られていた。
いやしかしすごいな、横尾忠則。
僕はだいたい、個展や美術館に行ったり、京都や奈良で仏像を見たりするとき、ぱっと見て、まずいいのとそうでもないのを、自分なりに仕分けして、いいと思ったものだけ、ゆっくり見る、というような見方をするのだが、この横尾忠則のポスターは、9割がた、すごくいいと思った。
どれも圧倒的なパワーを放っていて、それを900点も見るというのは、自分にものすごいパワーが充填されたような、そんな感じがした。
900点ということは、50年やっていたとして、平均して、3週間弱で1枚、作らないといけないわけだ。
仕事が混んでくるときとかは、もっと短いペースだよな。
かなり細かく描き込まれているものも多かったから、その作業量を考えると、僕は、これは作るのに、構想を考えてから描く、とかいうことではなく、とにかく描く、そして、描きながら、手を動かしながら、構想が自然に姿を現していくような、そういうでき方をしていったのだろうなと、思った。
あれだけの莫大な量のものを、ただ頭で考えるなどということが、できようはずがないし、またあのポスターの、あれだけのパワーは、頭で考えて生み出せるものじゃない。
手を動かしながら、自分の内側というよりは、あちらがわ、紙のがわに、まるで生きものが生まれ、育つみたいに、でき上がっていくものだという感じがする。
小林秀雄も、同じことを言ってた。
自分の中にあるものを、文字にするんじゃない。
文字にして、それがことばとして並んでいくと、そのことばというものが、あたかも生き物であるかのように、お互いに作用し、新たなことばを生みだすんだと。
小林秀雄はよく、自分は書かないと、考えられないと言っていた。
作品の冒頭によく、それを書きたいとは思っているのだが、書けるような気もするし、書けないような気もする、とも書いていた。
小林秀雄は、戦時中、1,000枚におよぶドストエフスキーについての原稿を書きながら、結局それは出版されずじまいだったりしたこともあったそうだ。
絵ハガキ買ってきた。
これなんかもいいよな。
これはポスターじゃなく、絵画みたいだが、いいよな。
小林秀雄は、戦時中、1,000枚におよぶドストエフスキーについての原稿を書きながら、結局それは出版されずじまいだったりしたこともあったそうだ。
ピカソも膨大な量の作品を描いたというしな。
頭であれこれ考えるのじゃなく、まずは手を動かすこと。
それが大事だってこと、今日はほんとに、いちばん学んだ気がした。