昨夜は行きつけのバー「Kaju」へ出かけ、レッド・ツェッペリンDVDをマスターやお客さんと見た。
一人で見るのも、その世界に没入できていいのだが、マスターやお客さんと話しながら見るのも、また楽しい。
でそのDVD、けっきょくKajuへ置いてきた。
僕が行ったとき見るのと、僕が行かないときでも、かけてもらえたらいいと思って。
ツェッペリンにかんしては、前に買ったDVDも、息子にやってしまったし、僕はどうも、伝道師的な役割を果たしたくなってしまうのだな。
ですのでKajuへ行けば、レッド・ツェッペリンDVD、見られますので、よかったらどうぞ。
昨日「ツェッペリンは曲の途中で止まる」と書いたが、どういうことか、もう少し説明しておくと、ハードロック調の曲が、だーっと演奏されているわけだが、それがあるとき、ピタっと止まるのだ。
それで客としては当然、曲の途中なわけだから、あれ、とかいう感じがするわけだが、そうするとややあって、ロバート・プラントのささやくような声と、ジミー・ペイジの小さな音のギターが、お互いをまねしあう掛け合いを始めたり、ジミー・ペイジがバイオリンの弦でギターを掻き鳴らし、幻想的な音を響かせたり、とかいうことが始まったりする。
それがひとしきり終わると、また大音響のギターのフレーズを皮切りに、前のハードロックにもどったりするのだが、もうその、ハードロックにもどる部分が、静から動へのダイナミックな変化という感じで、あまりにかっこよくて、僕は家でひとりで見てたりすると、涙がどーっと、出てきたりしてしまうわけだ。
レッド・ツェッペリンDVDのディスク1は、そういうわけで5回は泣く。
そうやって「タメ」を入れるライブの構成、客を盛り上げるテクニックのひとつとして捉えることもできないことはないのだが、しかしただそういうことではなく、ツェッペリンが初めから、ただのハードロックとは違うものを志向していた、ということを意味するとも、考えることができるのじゃないかと思う。
ハードロックをパンだとすると、中にいろいろな、違うものをはさんで、サンドイッチにする、という構成法だとも考えられるわけで、けっきょくそのまっすぐな延長上に、「天国への階段」という、ハードロックとアコースティックサウンドをひとつに融合した、まったく新しい音楽があるとも言えるわけだ。
初めハードロックだったものが、時間を経るうちに、違った、新しい音楽が生み出された、ということではなく、初めから、その「器」みたいなものは、用意されていた、ということだよな。