名古屋にいたのは、1年半強なのだけれど、来ると、帰ってきたという感じがするのだ。
僕がいた時期というのが、3年前までの1年半で、名古屋の経済がピークだったときだということや、僕自身の仕事という意味でも、充実していた時期だったということもあると思うが、それだけじゃなく、名古屋の人の気質というものが、僕にとって水が合う、ということもあるのじゃないかと思う。
「名古屋は閉鎖的だ」ということは、僕がこの春まで住んでいた広島や、今いる京都と負けず劣らず、言われることだと思うが、名古屋の人は、その人が自分の「仲間」であるのかないのかということを、するどく見分け、仲間にたいしては徹底的に温かいが、そうでない人間にたいしては冷たい、ということは、たしかにあるのだと思う。
しかし仲間になるというのは、べつに何も難しいことでもなんでもなく、まっすぐに自分を語る、ということに、尽きるのじゃないかという気がする。
そして仲間になってしまうと、そのなかに上下関係は、一切ない。
お互いが対等な、平たい立場で付き合うことができて、僕はそれが、何とも言えず心地よいのだ。
上下関係というものが一切ないということは、自分が何かを主張しようとする場合、立場を上にしたり下にしたりということが、できないということだから、そうなると必然的に、ひたすら濃くなっていく、ということ以外、ありようがない。
昨日は「ブラッサリー・アブサン」という、僕が以前住んでいたとき、毎日のように通い、自宅の居間がわりにしていたフランス食堂へ行って、そのころ知り合った人たちと、再会を喜んだのだが、その人たちがまたみんな、例外なく濃い人ばかりで、ちょっとした話題が、あっという間に、雪だるま式に膨れ上がっていくのを、僕は目をみはって眺めていた。
外から見ると、中がどうなっているのかよくわからず、僕は名古屋にいたころ、この店のすぐ近くに住んでいて、毎日前を通っていたにもかかわらず、数カ月は入れなかった。
あるとき友人を誘って行ってみたら、バーカウンターもあって、一人でも問題なく時間を過ごせることがわかって、それから入り浸るようになったのだ。
名古屋の長屋を改造したものなのだが、この工事を、開店当時のオープニングスタッフと社長とで、手作りでやり遂げたのだそうだ。
和風のような、洋風のような、得も言われぬ微妙な感じがたまらない。
ボトルは、ほんとにたまにしか来ないのに、ずっと置いておいてくれていて、今回もこれを飲みきってしまったので、また新しいのを入れてきた。
1,700円でひと通りのものが付いてきて、さらにこれにパンと、ワンドリンクが付く。
昨日は7時過ぎにここに来て、それから仲間が合流しながら、閉店の午前2時までいて、さらに仲間のひとりに、社長や従業員の人たちといっしょに、タイ料理を食べに行って、明け方の5時にホテルにもどった。
久しぶりに、フルに遊んだわ。