僕はこのことは、掃除にかぎらず、かなり広く成り立つことなのじゃないかと、最近思うようになってきた。
写真については、前から思っていた。
写真を撮るということは、自分の目の前にある光景を、四角に切り取ることだから、何を含み込むかというより、何を切り捨てるかということが重要になる。
同じものが写っていたとしても、それと一緒にまわりに別のものが写っているのと、そのものだけがクローズアップされて写っているのとでは、見る人に伝わるメッセージは、まったく違うものになる。
「写真はとにかく前に行って撮れ」とは、そういう意味だろう。
最近斜め読みができるようになった。
そうすると本を長時間、かなり集中して読めるようになった。
今までも重要な箇所に線を引くということは、していたのだが、それだけじゃなく、いつでも斜め読みできる心の準備がしてあって、どこを斜め読み、すなわち切り捨てるかを考えながら読むことが、自分がその本の内容を整理することにつながっているのだと思う。
カラオケがあるとき、急にうまく、というより、自分が納得できるように歌えるようになったきっかけも似ている。
歌い始めのころは、とにかくやたらと感情を込めて、歌ってしまいがちなわけだ。
ところが自分の歌声と、自分自身とを引きはなし、自分の歌を外から眺めるような心持ちになれると、自分の感情が制御できるようになる。
必要なところにだけ、意識的に、感情が込められるようになるのだ。
そうなって初めて、歌をうたうということのスタートラインに立てたような気がした。
たぶん人生も同じだろう。
時間は有限なのだから、人間やりたいことのすべてができるわけではない。
そのとき、何をやらないのかを意識的に決めようと心がけることが、有意義な人生を送るということの意味なのではないかという気がしてきた。
もし結果として何も切り捨てなかったとしても、捨てるか捨てないかを決めようとすることそのものが、大事なのだ、たぶん。