僕はネットや本のレシピを見て、それをそのまま作るということは、最近ではほとんどなく、昔、料理を始めたての頃は、男の料理の本などを何冊も買い込んで、片っ端からそのまま作ってみるということもしていたのだが、それをなぜしなくなったのかといえば、スーパーで売ってるものをいろいろ眺めながら、そこから訳のわからない料理を自分で考え出したほうが、楽しいからだ。
とはいえもちろん、料理を始めたての人にとっては、自分に合う料理の本を買い、そこに書いてあるものをそのまま作ってみるということは、料理というものが基本的にどういうものかを学ぶいい機会になるから、ぜひやってみたらいいとは思うのだが、その場合重要と思うことが一つだけあって、それは作るときには料理の本を見ないということだ。
よくキーボードのブラインドタッチが、初めの頃はどこに何のキーがあるかもわからないから、つい一つひとつキーを見てやってしまいがちになるが、そうすると一生見ずには打てるようにならないと言われるのと同じことだと思うのだが、料理も本を首っ引きで見ながらそのまま作るということをやってしまうと、料理の本を見ずに作れるようには一生ならないような気がする。
なぜかといえば、料理というものには、選んだ材料の一つひとつ、入れる調味料の一つひとつに意味があり、それが料理の本にはふつう書いていないのだけれど、それを知るということが料理を知るということであって、本を見ながらやってしまうと、一つひとつの意味を考えることなく、ただ機械的に作ることになってしまうからだ。
そうではなく、まず料理の本を見て、作り方を憶える。
憶えるというのも、暗記するということではなく、憶えるということは、本来その意味がわかって、初めて憶えられるものだから、ああこの料理は、こうやってこうやって、こういう風にすることなんだ、というしくみというか、全体像というか、そういうものを、自分なりにでいいから納得して、その納得のとおりにやってみる。
僕が今でも憶えている印象的なことは、調味料として入れる酒の量で、醤油やみりんと同じくらいの量を入れる場合の酒は、単なる臭み消しや風味づけという理由だが、それを醤油やみりんにくらべて何倍も入れるような場合は、それとはちがう理由があり、だしとして、うまみをつけるという理由であると、見つけたことがある。
だから酒をたっぷり入れる場合は、別にだしを取る必要がないわけだ。
いやこれは、ほんとはちがうからもしれないけれど、あくまで僕の理解ということで。
でもちがったっていいのだ、そうやって、自分なりでいいから、一つひとつに意味を見つけることが大事であって、まあものごと料理にかぎらず、それがなければ身につけることができないものであると僕は思っている。
あともう一つは、というかこれは、今書いたことを裏から言うことでもあるのだが、料理のやり方というものには、料理のちがいや、さらには国のちがいをも越えて、共通したものがあるということ。
たとえばカレーとシチューとけんちん汁と豚汁とは、ちがう料理で、料理の本にはちがう料理として書かれているが、根本的には、肉と野菜を炒めて、水を入れて煮て、最後に味をつけるという、同じものなのだ。
焼きそばとパスタも、ほとんど同じだったりする。
そういうことを見つけることが、料理をする上での大きな楽しみであって、そうすると、料理の奥深い、広い世界を垣間見れるような気がしてくるわけなのだが、本を首っ引きで見ながら作ってしまうと、そういうことも見えてこない。
なので僕は、本を見なかったことにより、何かするのを忘れたり、それによって失敗することがあってもいいから、自分が憶えたとおりにやってみるということを、これから料理を始めようという人には、ぜひ薦めたいと思うのです。
とまあ、また関係ないことを、長々と書いてしまった。
そこに塩をふる。
黒コショウをかける。
これを3段くらい重ねて、酒をドボドボとふりかけ、フタをして火にかけ、しばらく蒸して出来上がりという、簡単な料理。
しかも塩やコショウをふるのを忘れたり、野菜の順番をまちがえたり、こんな簡単なものなのに、僕の場合イチイチするわけだ。
言われたとおりにやるというのが、つくづく苦手なのだな、僕はほんとに。
かさはずいぶん減るものなんだな。
これ思ったが、味付けをまったくしないで、ポン酢で食べるようにしても、またうまいかもしれないな。
材料を順番に重ねていくところとか、使われる材料自体も、似てるのだよな、なんとなく。
これ広島の料理なのか。
そんなわけないよな。
ちなみにおまけ。
熱燗のつけ方。