このごろ「貧乏」について考えることがなにかと多い。
これは自分が貧乏していることと、もちろん無関係ではないわけなのだが、やはり世の中には、「正しい貧乏」と、「正しくない貧乏」とがあるんじゃないか。
貧乏は、「ハングリー」という言い方がされることがあり、これは貧乏を肯定的にとらえている。
それにたいして「貧すれば鈍す」という言葉もあり、これは貧乏を否定的にとらえている。
しかし言うまでもなく、貧乏と人間性には直接的な関係はないのであり、「素晴らしい貧乏人」もいれば、「ダメな貧乏人」だっているのが、当たり前というものだ。
貧乏をするにあたって、やはり大事なことは、「貧乏であることを積極的に受け入れようとする姿勢」なのではないだろうか。
誰だって、貧乏はしたくない。
貧乏は「死」と直結することだから、できるだけそこから遠ざかっていたい。
しかし貧乏を受け入れる気持ちを持てないと、貧乏人は幸せになれない。
「正しい貧乏」とは、「積極的な貧乏」といってもいい。
「正しくない貧乏」とは、「消極的な貧乏」だ。
貧乏を積極的に受け入れ、「自分は貧乏でいい」と腹を括るところから、正しい貧乏の道はひらけるのではないかという気が、最近している。
居酒屋などで、最近流行っている店は、「嘘みたいに安い」ところであることが多い。
それに対して「ちょっと高い」店は、たちまちお客がいなくなる。
値段が嘘みたいに安い店の店主は、値段をつけるにあたり、自分の貧乏な状態をかえりみて、「ほんとうはあと100円高くしたい」とか、思ったりするだろう。
しかしそれをぐっとこらえ、「貧乏なままでいい」と思うからこそ、お客が入る。
お客が入っても、値段が嘘みたいに安いのだから、実際それほど儲かることもないだろう。
だから相も変わらず、貧乏人のままでいることになる。
これこそまさに、貧乏を積極的に受け入れる、「正しい貧乏」の姿だといえるだろう。
貧乏なままであっても、この店主のまわりには、常に「人」がいることとなる。
それにたいして、自分が貧乏であることを受け入れられない人は、どうしても高い値段をつけてしまうことになる。
「貧乏から逃れたい」と思うからだ。
そうすると、結果としてお客がいなくなり、結局はやはり、おなじ貧乏になってしまうわけだけれど、これは「消極的な貧乏」だ。
貧乏な上に、まわりから人がいなくなり、一人ぼっちになってしまう。
死は、誰でも怖いことであるのは確かだ。
「できれば死にたくない」と思うのは、当然のことだろう。
しかし死は、誰も逃れることができない。
自分がいつ死ぬのか、誰にもわからない。
であれば、死への恐怖をぐっとこらえ、それを積極的に受け入れることが、正しく貧乏するためには必要なのではないだろうか。
とまた何の役にも立たないことで威張ってみた。
昨日は「豚のしょうが焼き」にした。
豚のしょうが焼きは定番メニューの1つだけれど、大きく分けると2つの作り方があるだろう。
しょうがダレにあらかじめ肉を漬け込んでおいてから焼くか、焼いてからしょうがダレを注ぎ込むかだ。
これはどちらでも好み次第だし、肉料理はタレに漬け込んでから焼くのが王道なのだろうけれど、タレに漬け込んだ肉は、煮えたようになってしまって、焼いた香ばしさが付かないし、何ごとも素材そのままの、シンプルな料理法を好む日本人にとっては、タレをあとから注ぎ込むようにしたほうが、「うまい」と感じるものなのじゃないか。
豚のしょうが焼きを作るのなら、安く上げようとするのなら、「豚こま肉」が一番だ。
スーパーでは、日本産の豚こま肉と、アメリカ産のロースやばら肉とが、だいたいおなじような値段で売られている。
好みにもよるとは思うけれど、これはこま肉であっても、日本産のほうが断然うまい。
もちろん日本産の豚ロースを買えば、それが一番うまいわけだが、自炊の楽しみは、「いかに金をかけないか」と工夫するのも大きなことだから、これはこま肉を使うのが、正しい自炊の道だといえる。
さらにこの豚こま肉を、炒める前に煮て、スープを取る。
昆布とたっぷりの酒を入れた水で、アクを取りながら5分くらい。
これは正直に言うと、しょうが焼きの場合は、そのまま炒めたほうがうまい。
このあいだ菜の花と炒め合わせたときには、菜の花が主役なので、スープを取ったあとの豚肉は、下手な主張がなくかえってうまいと思ったけれど、しょうが焼きの場合には、あくまで豚肉が主役となるので、スープを取ったあとの出がらしでは、ちょっとパンチが足りない味になってしまう。
だから豚肉の味をきちんと楽しみたい人には、スープを取らずに使うことをすすめるけれど、自炊はやはり、「やりくり上手なオレ」というような自己満足も、自炊をつづける大きなモチベーションとなる。
そういう意味で、安い豚こま肉から、さらにスープと炒め物の2品を作るというこの荒業も、決して悪いわけではない。
豚肉に長ねぎだけでも、シンプルでうまい。
しかし昨日は、冷蔵庫にあったシイタケ、さらにピーマン。
ピーマンは、いっしょに炒め合わせてしまうと、硬かったりやわらか過ぎたりしがちだから、あらかじめこれだけ別に炒め、最後に合わせるようにする。
炒め物をする場合には、かならず材料と調味料を、すべて炒める前に用意しておく。
炒めながらもたもた調味料を入れたりしていると、炒め過ぎたりすることとなりがちだ。
この調味料は万能で、豚肉を使う炒め物には、何に使っても非常にうまい。
分量は、「酒としょうゆをそれぞれ4分の1カップに、ショウガ1かけ」と言いたいが、これはそれほど簡単でもない。
肉や野菜の分量により、大きく変わってくることとなる。
調味料は、初心者だとどうしても、レシピに書いてある分量通りにやるということになりがちだけれど、毎日の料理は、そのたびに材料の量が変わってくるのだから、それをいちいちレシピ本に合わせ、調味料の分量を計算して、きちんと計って、などということをしていたら、あまりに面倒くさくて、料理が嫌になってしまうのは間違いない。
調味料は、「勘」が大事だ。
勘は往々にして外れることもあるけれど、外れて失敗すれば、次回から気をつけるから、失敗しないようにもなる。
「料理がうまくなる」とは、「勘が働くようになる」と言い換えてもいいくらいで、初心者も、この勘を養う努力をしたほうが、料理が楽しくなるのじゃないかと思う。
今回の調味料の場合、酒とショウガの量は、多少多すぎても少なすぎても、あまり問題ない。
気を付けないといけないのは、しょうゆの量だ。
しょうゆが多すぎると塩辛くなるし、少なすぎると味が足りない。
ほうれん草のおひたしにしょうゆをかける時の要領で、切りそろえた材料をにらみつけ、「それにしょうゆをかけるとしたらこのくらい」という分量を、一気呵成で器に入れるようにする。
豚肉にかるく焦げ目がついてきた段階で、しょうがダレを注ぎ込む。
最後に味を見て、味が足りなければ塩をふる。
最後に中華麺を入れ炒め合わせれば、おいしい焼きそばにもなる。
おろしたショウガとニンニク、それに塩で味を付け、こちらにも長ねぎを少しと、油揚げでもわかめでも、好きなものを入れて煮る。
最後にコショウをふる。
しょうゆは入れなかったのだけれど、きちんとニンニクを入れておけば、しょうゆはかえってない方がうまいと思った。
日本酒は、炒め物にはあまり合わない。
酒を飲み過ぎないためには、あまり酒を愛してしまわずに、「なんだこんちくしょう」という気持ちも、たしょう持っていることが必要だ。
菜の花は、これでなんとか食べ切った。