むかしなら二十歳で成人ということになったわけだけれど、それは人生50年の時代のことだ。
人生80年の現在では、成人は30歳だといってもいいのじゃないか。
20代の頃には、好き放題なことをしても、まわりも温かい目で見てくれる。
さまざまな失敗をしたとしても、それを咎められることは少ないだろう。
しかし30歳を過ぎてくると、世間の風も冷たくなってくる。
保護されていた期間は終わり、自分の足できちんと立つことを要求されるようになってくる。
世の中が、悪意に満ちているのは、まちがいない。
人のアラを見つけ、足を引っ張ろうとする。
だから、攻撃から身を守ったり、攻撃されたらやり返す技術を身に付けることも必要だろう。
そういう術がまったくなければ、自分だけ一方的に傷ついて、生きていくのが辛くなる。
しかしだからといって、攻撃しあうことからは、何も生まれることはない。
たとえ自分が勝利して、一時の安寧を得ることになったとしても、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」というだけの話だ。
そこで浮世のさざ波にとらわれず、「ほんとうに価値あるもの」を見つけ、実現したいと思う人もあらわれることになる。
それは決して、少ない人数ではないだろう。
それぞれやり方はちがっても、自分なりの価値を探し出そうとしている人が、今だってたくさんいるにちがいない。
しかしその人たちも、浮世で生きていかなければいけない。
人間、霞を食って生きていくわけにはいかない。
自分のやっていることが、きちんと浮世に認められ、「価値あるもの」と認定されなければいけないことになるわけだ。
その時にこそ、ほんとうの「戦い」が始まることになるのだろう。
その戦いは、たがいを傷つけ合うだけのことではない。
自分が信じる「価値」を、相手に認めさせる戦いだ。
もちろんそれは、簡単なものではない。
自分が信じる価値が、大きなものであればあるほど、戦いは困難を極めることになるのだろう。
志半ばで、矢折れ刀尽きることだってあり得るわけだけれど、一度だけの人生、戦わずしてあきらめる必要もないということだ。
昨日は、鯛のアラを酒蒸しにした。
魚のアラは、庶民にとって、なんともうれしい存在だ。
まず何といっても、安いのがいい。
切り身の半額程度、200~300円で買えるのが多いだろう。
それでおいしくないのかといえば、そうではない。
刺し身で食べることはできないけれど、焼いたり煮たりする分には、脂がのって、やわらかくて、切り身よりよっぽどうまい。
アラが安い理由は、「味」によるのでなく、刺身のために切り取った部分の、「残り物」であることによるのだろう。
また多少手をかけないと食べられないという、「面倒くささ」もあるにちがいない。
といっても、アラを料理するのは、それほど面倒くさいわけでもない。
基本的に、「湯通し」をすれば良い。
レンジでお湯を沸かしてもいいけれど、給湯器の熱湯に十分な温度があるのなら、それをそのまま使ってもいい。
アクが出た湯を捨て、水でていねいに洗う。
血のかたまりやヌメリが臭みの原因となるから、それらをよく取り除く。
酒だけだと、ちょっと味がクドすぎることになる。
酒蒸しだけなら、煮汁の量は、少ない方がいいのだけれど、今回は例のごとく、あとから煮汁を吸い物にするから、すこし多めの水と酒それぞれカップ1。
鍋に昆布をしき、水と酒を入れ、塩ひとつまみとうすくち醤油大さじ2くらいをふり込んで、強火にかける。
煮汁が沸いたら、湯通ししたアラを入れる。
火加減は、強めの中火。
煮汁がきちんと沸き立ち、魚の上にかぶるようにする。
酒を飲みながら、身をほじくり出したり、骨をしゃぶったりするのが、またいいものだ。
青ねぎをのせたが、針ショウガをのせてもいい。
お玉に一杯くらいは、魚の方へかけておくようにするけれど、あとは吸い物に転用する。
そのままだと味が濃いから、水ですこしうすめ、アクが浮いたらそれを取り、塩で味を加減する。
あとは油揚げでもシメジでも、好きなものをサッと煮れば出来あがり。
魚屋はかならず、「養殖物はイマイチ」というけれど、いやそれだって十分だ。
これは檀一雄のレシピより。
サッと塩ゆでしたオクラを小口に刻み、汁を切った大根おろしとよく混ぜる。
オクラの粘りを大根おろしに移すよう、徹底的に混ぜたあと、冷蔵庫で冷やしておく。
かつお節をのせ、ポン酢をかける。
かつお節のかわりに、ゆでたエビだのハマグリだのを加えても、またいいそうだ。
やはり日本酒は、酔い心地がおだやかだ。