「だし」を自分で取るようになると、料理は100倍は楽しくなリます。
僕自身、料理がほんとうに「おもしろい」と思えるようになったのは、自分でだしを取ってからのことでした。
どんなことでもそうですが、物事の、ただ周辺をウロウロしているだけでは、あまりおもしろ味がわからないということは、あるのじゃないかと思うんですよね。
やはり物事は、中核にいるからこそ、ほんとうのおもしろさが感じられる。
たとえば楽器を習いたいと思ったら、いくら基礎練習を繰り返しても、なかなかおもしろいと思えるようにはならないでしょう。
そうではなく、下手でもいいからバンドを組んで、できればライブの日取りでも決めてみる。
「他人といっしょに演奏するおもしろさ」を一度知ってしまったら、もう後戻りすることはありません。
日本人の多くがピアノを習うのに、ほとんどが途中で挫折してしまうのは、レッスンでひたすら基礎練習ばかりをさせるからなのではないでしょうか。
料理にとっての「中核」とは、それでは何なのかといえば、「煮物」だと思うんですよね。
それは、どのようなものが「料理」といわれるかを考えてみればわかります。
自然の材料を、人間が食べられる状態にする方法には、煮ることの他に焼く、蒸す、干す、漬ける、などなど、たくさんあります。
このうちまず「漬ける」と「干す」は、絶対に料理とはいわれないでしょう。
漬け物を、どんなに時間と手間をかけて漬けても、それは料理ではない。
「たくわん」は、料理ではありませんよね。
「干す」もおなじで、昆布や魚の干物は、そのままでは食べられないから、料理でないのはもちろんとして、干し柿や梅干しだって、料理とはいわれない。
「蒸す」は、酒蒸しのように、煮ることの代わりに行う場合は別として、たとえば肉まんやシュウマイは、中国では「点心」であって、「菜」とは区別されることになる。
「焼く」も、液体のソースや調味料をかけたものは「料理」といわれても、魚の塩焼きを「料理」と呼べるかといえば、微妙なところがあるでしょう。
このように、「料理」と「料理でないもの」とのあいだには、はっきりとした線引きがあって、それはかけた時間や手間によるものではない。
「煮る」という作業を含むか含まないかが、決めているのだと思うんですよね。
実際スペイン語で「料理」のことを、「コシード(cocido)」という。
ところがコシードは、同時に「煮込み料理」のことを指すことになっていて、これはスペインでは、「料理」と「煮込み料理」が同一視されていることを意味するのじゃないかと思うんです。
「料理」という言葉が、このような意味を持つことになっているのは、歴史にも関係するのでしょう。
大昔から、人間は、火で焼いたり、干したり漬けたりすることにより発酵させたりということは、ものを食べる方法として行ってきていたでしょう。
火で焼けてしまった動物の死骸を食べてみたらおいしかったり、塩をふった材料を置きっぱなしにしてしまったら発酵したりもしたでしょうから、「焼く」や「干す」「漬ける」は、偶然見つけることもできたでしょう。
ところが、「煮る」はそれとははっきり異なる。
煮るためには「鍋」がなければならず、鍋が世に現れるためには、人間の知的営為が必要だったでしょう。
鍋は偶然によっては生みだされ得ず、ある明確な意図をもち、「発明」されなければならなかった。
現在「料理」と呼ばれるものは、この「鍋」を使ったものに限られているということなのじゃないかと思うんです。
「料理」という言葉は、それが単なる偶然で生み出されたものではなく、人間が意図し、つくり出した「文化」であるという意味を、暗に含んでいるのじゃないかと思うんですよね。
鍋を発明し、肉や魚、野菜などを煮てみた時の、人間の感動は、いかばかりであったでしょうか。
それぞれの材料からしみ出してきた味が、渾然一体となっただしの味。
それ以前には、「肉の味」「ニンジンの味」など個別の味は存在したけれど、ここで人類は初めて、それら個別の味が混ぜ合わされた、大きな「統合」を経験することになる。
さらにそのだしの味は、ふたたび個別の材料に返り、それらの味を、煮る前とはまったく異なったものとしていくわけですから、「煮る」というやり方は、それが発明される以前のやり方とは、質的にまったく異なった、次元の違うものだといっていいでしょう。
こうやって考えてみると、料理の中核は、あきらかに「煮物」にある。
そして煮物の中心的な役割をはたすものが、「だし」であるということなんですね。
ですから料理を始めてみたら、ぜひだしを、自分で取ってみることをおすすめしたいんですね。
煮物を自分で取っただしで作ると、煮物が100倍、おいしくなります。
そうすると、いうまでもなく、料理をするのが100倍おもしろく、そして楽しくなるんですね。
それにだしを自分で取れば、多少失敗しても、十分おいしく食べられますから、新たなチャレンジをすることが、それほど怖くなくなります。
だしを取るのは、何も難しくないし、時間も10分程度、手間もたいしてかかりません。
だし昆布は、高いのでなく、いちばん安いので十分です。
削りぶしには、「かつお節」と、それから「混合ぶし」と呼ばれる、サバやイワシ、アジなどを使ったものとがあるんですが、煮物や味噌汁に使うのなら、混合ぶしの方が味がしっかりしているし、おまけに安いです。
だしを取るには、「一番だし」と「二番だし」というやり方があるんですが、煮物や味噌汁を作る場合には、二番だしを取るようにします。
鍋に水を張り、この水が1リットルくらいだとしたら、だし昆布を1枚と、削りぶしを大きくひとつかみ入れる。
これだけのことで、大変おいしいだしが取れます。
昨日はこのだしで、「肉豆腐」を作りました。
酒、みりん、醤油で、味を見ながら好きなように味をつけ、キッチンペーパーなどの落としブタをして、弱火であまり煮立てないよう、10分くらい煮る。
最後に長ねぎをくわえ、長ねぎがしんなりしたら出来あがり。
だしで大根と油揚げを煮て、大根がやわらかくなったら、味噌を溶き入れる。
これももちろん、うまいです。
だしを取るのは、たしかにほんのすこし手間がかかりますけれど、それで作ったものが100倍うまくなるのなら、十分見合うといえるでしょう。
刻みのりとわさびをのせるのは当然として、卵の黄身をのせるのは、祇園の食堂「山ふく」の流儀です。
昨日もお酒を控えめにできたと思っていたら、結局このあと、飲みに出てしまったので、さらに2合、飲みました。
ほんとにいい天気です。