このブログが本になる時には、やはり材料や調味料の分量は載せなければいけないようなのだけれど、ほんとうは計量スプーンは、料理をつまらなくする、諸悪の根源の1つであると思っている。
初心者は、まずは料理本に書いてある通りに、料理を作ってみようとするだろう。
何かを習得したいと思ったら、とりあえず人がやってることをそのまま真似してみることは王道だから、これは決して間違いではない。
ところが初心者にたいして、調味料の分量が「絶対である」と勘違いさせるようなことが、料理の本には往々にして書かれている。
たとえば、
「計量は調理の基本」
だと言ったりする。
「調味料の黄金比」
なるものが提唱されることもある。
そのように言われれば、初心者は、計量スプーンを使うことから逃れられなくなるだろう。
しかし調味料の世界は、ほんとうは、そんなものではない。
調味料はそれぞれ「意味」をもっていて、その意味が満たされる分量の範囲は、かなり広い。
調味料の意味を知るためには、自分でさまざまに調味料の量を変化させてみて、それによってどう味が変わるのかを体験してみる必要があるわけだけれど、「計量が基本」で、「調味料の量は絶対」であると教えることは、初心者が試行錯誤するせっかくの機会を、やる前から奪ってしまうことにしかならないだろう。
料理本がそのように書くのは、もちろん、「失敗」をおそれるからだろう。
初心者が料理に失敗し、それを料理本のせいにすることを、料理本の著者はおそれている。
だから初心者を、計量スプーンでがんじがらめにし、絶対に失敗させないようにするのだろうけれど、ほんらい料理本が初心者に教えなければならないことは、「料理のおもしろさ」であるはずだ。
失敗をくり返さなければ、人間はものごとの本質に到達できないものである以上、料理本は初心者に、「失敗をおそれぬ心意気」こそを教えなければいけないだろう。
料理本との付き合い方として、初心者にすすめたいのは、
「意味のわからない調味料を省いてみる」
ことだ。
1回目は、レシピ通りに作ってみるのも大事だろう。
でも2回目には、たくさんある調味料のうち、なぜ加えられているのかわからないものを省いて、考えうる最もシンプルなやり方で作ってみる。
その調味料を省くことにより、変化した味のちがいが、まさにその調味料の「意味」であることになる。
調味料をすこしくらい省いたって、食べられないほどまずくなることは、それほどない。
味見の段階で、実験の失敗に気付くことも多いのだから、そう心配することはないというものだ。
あらといえば、スーパーなどでふつうに見かけるのは、鯛かブリだ。
鯛もブリも、うまいのは間違いないのだけれど、どちらも「養殖である」という欠点がある。
だからどうしても、ちょっと味が濁ったところがあるのは否めない。
しかしタラは、すべて天然モノだから、味が澄み切っている。
魚屋のお兄ちゃんも、おなじような値段の鯛とタラのあらがあれば、圧倒的にタラをすすめてくる。
ただタラのあらは、スーパーで見かける機会が極端に少ない。
タラは鯛などより大きな魚だから、あらが出てくる機会自体が、もともと少ないのだろう。
またうまいのを知っている人も多いだろうから、出た途端に取られてしまうこともあるかもしれない。
もしスーパーや魚屋で、タラのあらを見かけることがあったら、「これ幸い」と思って、迷わず購入することをすすめたい。
タラの食べ方として第一にすすめられるのは、やはり「ちり鍋」だろう。
だし昆布に酒をたっぷりとふり込んだ水で炊いて、ポン酢で食べる。
豆腐に長ねぎ、それにエノキでも入れれば完璧だ。
「それ以外の食べ方」として、魚屋が教えてくれるのが、「吸い物」か「味噌汁」にすることだ。
味噌汁なら、昆布と削りぶしでだしを取り、細く切った大根を入れる。
昨日は吸い物をやってみた。
もし塩もみしていないのなら、塩をふって、それをよくもみ込んで、2~3時間でもおくようにするのがいいのだろう。
昆布と削りぶしのだしを取り、沸騰したら、水洗いしたタラを入れる。
タラに塩味が付いているから、辛くなりすぎないように注意しながら、少々の酒と、うすくち醤油で味をつける。
アクを取りながら、10分ほど煮れば出来あがり。
タラは淡白だから、タラのだしだけでは味が足りないのだけれど、昆布と削りぶしのだしにタラの素朴な味が加わってくるのがいい。
骨ごと口に入れ、チューチューと吸い取るように食べるのが、たまらない。
だしに酒とみりん、しょうゆで味をつけたら、まずお揚げをちょっと煮る。
食べやすい大きさに切った水菜を入れ、ひと煮立ちしたら火を止めて、そのまましばらく、煮汁につけておく。
七味唐辛子をふって食べる。
これはまさに、京都の味。
水菜のシャキシャキ感がなくならないよう、あくまでサッと煮るのがポイントだ。