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2010-09-10

「生命と偶有性」(茂木健一郎)


茂木健一郎氏、8月の末に出たばかりの、渾身の最新刊。
おちゃらけたノウハウ本ではなく、「脳科学者が“本気の思索”で掴んだ、新しい生命哲学」とのことなので、期待して買ってみた。

この人、学者にしては、文章がほんとにうまいと思うんだよな。
「まえがき」では、今の日本は漠然たる不安にかられて、皆元気がないと、しかし不安だからといって、怖気付いていては、何の未来もない、不安をのりこえ、相手を見すえて、思い切って飛び込んでみてこそ、道が開かれることもある。
「偶有性の海に飛び込め! そうして、力の限り、泳いでみよ!」
と、ビックリマークまで付けて、なかなか煽ってくれるのだ。

というわけで、楽しみに読み始めたのだが、残念ながら、50ページほど行ったあたりで、力尽きて、あとは最後まで、飛ばし読みをしてしまった。

ひとつには、この本の書かれ方が、論理的になっておらず、情緒や印象に訴えるようになっている。
科学にかんする事柄も、いろいろ登場するのだが、それらがきちんと掘り下げられることはなく、ある風景のひとつとして、コラージュを構成するひとつのパーツのように、散りばめられている。
僕のような素人の一般人が、それらを見た場合、なんとなくアカデミックな、すごそうなことが書いてあると思わせる効果はあるが、実際そこで何が言われているのかを、注意深く読み取ろうとすると、実質的にはなにも言われておらず、ただそれらしい単語が並べられているだけであることがわかる、ということが何度もある。

自分が子供のころ、規則的に飛ばない蝶を、なんとか取ろうとして、それに成功するという体験談があったりするのだが、「そこには良質な偶有性があった」と引き取られ、偶有性に良質なものと、そうでないものがあるということはわかったのだが、それ以上、その体験談が、偶有性にどう関わりがあるのかが、解釈されるということもない。
全10章のうち、2章までを読んでみて、一から十までがその調子で、まじめに読もうとすると、こちらが疲れるということに気付き、もうあとはあきらめてしまったのだ。

茂木氏は「偶有性」ということばを、「クオリア」につづく新たなキーワードとして、前面にもってこようとしているのだが、その偶有性とは何なのか、それはこれまで生物学で提出されてきた様々なキーワードと、どう違って、どう新しいものなのか、ということは、論理的には説明されない。
あくまで印象や情緒に訴える書き方が、一貫してされているのだ。

もちろんそれはべつに、悪いことではないし、論理よりも、情緒や印象に訴える書き方のほうが、一般の人には受けがいいだろうと思うのだが、しかしそれが、「脳科学者が本気の思索で掴んだ、新しい生命哲学」であるとするならば、なんとも情けない。
よしんば一歩ゆずって、「新しい生命哲学」というのは、ただ出版社がつけたキャッチコピーであって、自分のこれは、まだ途中の段階なのであり、自分はこの本に、考えているプロセスそのものを書いているのだ、ということであったとしても、この論理性の欠如は、あんまりだと僕は思う。

それからもうひとつは、この本で茂木氏は、「組織とか、肩書きとか、学歴とか、そういうものに頼るのではなく、身ひとつで、流れに飛び込んでみよ」ということを言っているのだが、それでは茂木氏自身は、流れに身ひとつで飛び込んでいるのか、ということについて、疑問に思ってしまうのだ。
茂木氏はソニーコンピュータサイエンス研究所の研究員という、立派な組織の一員であるわけだが、この本に、茂木氏自身の科学的な研究成果というものの、一片の理論や、一片のモデルも、登場しないところを見ると、茂木氏はこの肩書というものを、自分の安全地帯として利用しているのであって、自分は安全地帯にいながら、人には飛び込めと言っていると、そういうことなのじゃないかと、これはまさに下衆の勘ぐりだが、思ってしまうのだ。

茂木氏にはぜひ、科学的な成果を、きちんとあげてもらいたいと僕は思う。
そしてそのことを、一般人である僕たちに、わかることばで伝えてほしい。
もちろん茂木氏が挑んでいる、「クオリア」とか、「偶有性」とかいうものは、茂木氏の言うとおり、究極の問いなのであり、そう簡単に成果があがることではないのだろうと思うが、茂木氏が科学者として、大成することをこそ、僕もふくめ、多くの茂木ファンが、心から望み、待ち焦がれているものなのであると思う。

★★ 2.0 
生命と偶有性