この本、読んでいてほんとにイライラするのだ。
まず冒頭の「はじめに」で、著者は自論にたいして、想定される批判をあげ、それが見当違いなのだということを論ずるところから、話しをスタートする。
内容をまだ論じてもいないうちから、いきなり防御を固められても、読む方としては読む気が失せるだけなのだが、著者にとっては、読者よりも、まだ受けてもいない批判で、自分が傷つくことを防ぐことの方が、大事だということなのだよな。
なるほどそれは、自分自身や、今の社会状況、自分がもといた会社の体質、などなどを考え合わせるに、納得できるものもあるのだが、同時にこの本を読みながら、著者にたいして、じゃあお前はどうなんだよと、自分も辺境人なのじゃないかと、ツッコミを入れたくなるのだ。
これはおそらく、著者の文体や、論の運び方などの、「語り口」が、そう感じさせるものと思う。
世の中には、数え切れないほどたくさんの本があり、その一冊一冊で、その本の著者は、何かを論じているわけだが、科学的にたしかに証明されているというようなものは別として、僕のような一般人が、その著者の論ずる内容を信じるか信じないかということは、大げさな言い方をすれば、著者がその内容を、自分の人生のなかに、きちんと位置付けているのかどうか、ということによって、決まってくるものと思う。
内容については、それなりに興味深くはあり、日本人のもつ、外国の文化をとにかく良いものだとみなし、それに追いつくために、それらを貪欲に我が物にしようとするときには、限りない才能を発揮するのに、それに追い付いてしまって、今度は自らがビジョンを語り、他をリードしなければならないという立場になると、からきし情けないことになるという、そういう体質について、日本がもともと、中国という文化の中心地にたいして、自分たちを「辺境人」であると規定し、そうやって中心から外れていることによって得られる、とやかくうるさいことを言われずにすむという自由を、存分に享受しながら、文化を形成してきたことにより、育まれたものだということを言う。
なるほどそれは、自分自身や、今の社会状況、自分がもといた会社の体質、などなどを考え合わせるに、納得できるものもあるのだが、同時にこの本を読みながら、著者にたいして、じゃあお前はどうなんだよと、自分も辺境人なのじゃないかと、ツッコミを入れたくなるのだ。
もちろん著者も、「自分も辺境人であると実感する」などのことを、何箇所かで書いているのだが、どうもそれが、口だけで言っている感じがする。
「日本人」について語っているのに、著者は自分を、その外側に置いているという感じがしてしまう。
これはおそらく、著者の文体や、論の運び方などの、「語り口」が、そう感じさせるものと思う。
世の中には、数え切れないほどたくさんの本があり、その一冊一冊で、その本の著者は、何かを論じているわけだが、科学的にたしかに証明されているというようなものは別として、僕のような一般人が、その著者の論ずる内容を信じるか信じないかということは、大げさな言い方をすれば、著者がその内容を、自分の人生のなかに、きちんと位置付けているのかどうか、ということによって、決まってくるものと思う。
それは論そのものよりも、その語り口によって感じられてくるもので、著者がその論を、自分の人生の問題であるとまっすぐ受け止め、苦しい試行錯誤をしていると思えば、それを信用するし、そうでなければ信用しない。
そういうものなのじゃないかと思う。
この本のなかで、著者が論じている内容は、日本人についてかなり否定的な見解をふくむのだが、それを著者自身がどのように受け止めるのかということについて、ほとんど書かれておらず、あくまで著者は、豊富な知識を駆使して、それをただ論ずる人という、特権的な立場を放さない。
それが読んでいる者をして、とにかくイライラさせるのだ。
そのことについて、著者もわかってはいるのかもしれない。
最後の章で、自分の文体について触れていて、ほんとはもっと、読者の共感を誘い、読者とともに歩むような書き方をしたかったが、この本の内容は、まだ自分もたしかにわかっていないことをふくんでいて、えいやと勢いで乗り越えてしまわなければいけないところが、たくさんあったので、それはあきらめた、というようなことが書いてあった。
しかしそれで、読者の共感というものを捨ててしまえるということが、学者の限界というものなのだろうな。
学者は論を立て、それを学生に教えるということが仕事であって、一般人の共感などというものは、おまけみたいなものなのだろう。
下手な批判を受けるくらいなら、そんなことは、しない方がいい、ということなのじゃないかと思う。
★★★★☆ 4.0
日本辺境論 (新潮新書)