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2008-05-28

レッド・ツェッペリン



レッド・ツェッペリンというロックバンドが好きなのだ。1980年に解散したのだが、去年の暮れに復活コンサートがロンドンであって、それにタレントの江尻エリカが行ったというので、ちょっと話題になった。未だにすごい人気で、チケットには巨額のプレミアがついたそうだ。

レッド・ツェッペリンといっても、知らない人も多いかもしれない。デビュー以来の世界でのレコード・CDの売り上げの累計は、あのエルビス・プレスリーやビートルズと、肩を並べる。ツェッペリンより有名な感じもするローリング・ストーンズやマイケル・ジャクソンと比べると、2倍ほどにもなるという。3年ほど前、イギリスのラジオ局が、過去のすべてのロックバンドの中から、ボーカルやギターなどそれぞれのパートで、いちばん人気のあるプレーヤーを視聴者の投票によって選び、架空の究極のロック・バンドを決めようという企画を行ったそうだ。結果は各パートの一番人気がすべてツェッペリンのメンバーとなってしまい、「究極のロック・バンドはレッド・ツェッペリンだった」という結論になったという。

デビューは1969年。ぼくは7歳だったのでリアルタイムでは経験していない。高校に入りバンドを始めてから、知るようになった。その頃校内で、ギタリストとして一人前とみなされる基準のようなものが何となくあって、それがディープ・パープルというバンドの、「ハイウェイ・スター」か、ツェッペリンの「天国への階段」を弾けるということだった。ぼくはツェッペリンのほうにハマり、それから色んなバンドも聞いたのだが、結局これがいちばん好きだということは、今に至るまで変わりがない。

ひとことで言うと、「かっこいい」のだ。たとえばこれ。40年前の映像で、日本でのプロモーションのために作られたもののようだが、冒頭の紹介部分が時代を感じさせるのにたいして、曲と演奏がまったく古臭くなく、今でも新鮮なエネルギーに満ちあふれていることを感じてもらえるだろうか?このように歪んだ音のギターが前面に出てフレーズを刻み、ボーカルがシャウトするスタイルのロックを「ハードロック」と呼ぶが、これを確立したのが彼らだと言って良い。ツェッペリンは、音楽の一つのジャンルを生み出した存在なのである。

1960年代の音楽シーンは、ビートルズの登場によって幕を開けた。50年代にアメリカで、エルビス・プレスリーが一大ムーブメントを巻き起こし、イギリスの片田舎に住んでいた彼らは、これに感化されてバンド活動を始めたのだが、バンドのメンバーが自ら曲を作るというのは、ビートルズから始まったことだった。彼らの成功によって、ローリング・ストーンズや、ザ・フー、モンキーズなど、新たなバンドが続々デビューしていき、またバンドを生み出す土壌というものも、これをきっかけにイギリスを中心としながら、熟成されていったと思う。

プレスリーは、アメリカの黒人音楽であった、ロックンロールに影響されたのだったのだが、ロックンロールのルーツは、アメリカに連れてこられた黒人達が、自らの悲しみを歌に込めた、ブルースという音楽だ。ビートルズの成功で、世の中には明るい、健康的なロックがあふれていただろう。しかし次を目指す若者達は、何かもっと違ったものを探してもいたと思う。そういう中、ロックのルーツであるブルースを、自分達なりに再解釈して演奏しようという動きが、イギリスで始まる。折りしも電子技術の発達で、ギターアンプの大容量化が進み、大きな音の出るアンプを、さらにボリュームを目いっぱいに上げて使うことで、大音量で歪んだギターの音が出るようになった。それがかっこいいということで、その音を使ったギターの演奏技術もつぎつぎ開発され、それを前面に出してブルースを演奏するという、エリック・クラプトン率いるクリームや、ジミ・ヘンドリックスなどが生まれていく。

このような状況の中、レッド・ツェッペリンのリーダーである、ギタリストのジミー・ペイジは、元はスタジオミュージシャンをしていたが、乞われてヤードバーズというバンドのメンバーとなる。メンバーの入れ替わりが激しく、ギタリストはジミー・ペイジで三人目だった。それほど人気のバンドでもなかったが、ペイジは演奏を楽しんでいたらしい。しかししばらくするうちに、ペイジ以外のメンバーが全員、それぞれの事情で脱退し、一人残されたペイジは、新たにボーカルにロバート・プラント、ドラマーに、プラントのバンド仲間だったジョン・ボーナム、ベースにペイジとはスタジオミュージシャン仲間だったジョン・ポール・ジョーンズを誘い、しばらくはニュー・ヤードバーズという名前で活動するが、その後同じメンバーで、レッド・ツェッペリンとして、再スタートを切ることになる。

ここで何が起こったのか、ぼくはとても知りたいのだ。それほど冴えないブルース・ロックのバンドが、どのようにして、新たなジャンルを切り開くような巨大な存在になりえたのか。おそらく何らかの、大きな発想の転換があったのだろう。それはどのようなものだったのか?

ツェッペリンの音楽のかっこよさは、一つには歪んだ音のギターが奏でるフレーズに負うところが大きい。しかしそれ自体については、とくべつ新しくはなかった。当時あまたのバンドが、取り入れていたものだったのだ。そのような状況を横目で見ながら、次の一歩をペイジはどのように踏み出そうとしたのか。

それは、「ブルースという枠組みからの脱却」ではなかったかと思う。

当時歪んだ音のギターを取り入れたバンドの多くは、迫力あるギターの音や、それから生み出される新たな演奏技術によって、新たな表現を得てはいたが、それはあくまでギターというパートについてのみ言えることで、曲全体、バンドのあり方全体としては、依然としてブルースのままだった。しかしペイジはおそらく、この新しいギターの音と演奏技術が、新しい曲のあり方、バンドのあり方を生み出しうることを感じたのだ。

その代表的な曲が、Dazed And Confusedだろう。これはヤードバーズ時代に演奏を始め、後にツェッペリンの柱となった曲の一つだが、ここではブルースらしさというものが完全に解体され、あと方もなく消え去っている。ブルースには定型のコード(和音)進行のパターンというものがあるのだが、この曲にはコード自体がほとんど使われない。ギターとベースが同じ旋律を奏でる(ユニゾン)部分と、ペイジのギターソロの部分は、コードは一つだけ、展開しない。決めのフレーズにいくつかコードが使われるが、あとは伴奏もなく、ペイジがバイオリンの弓で、おどろおどろしいギターの音をひたすら聞かせている。この曲は、技術革新により新たな表現を得たギターによって、ブルースという形式に代り、新たに曲を形づくるということについての、ペイジの挑戦なのだ。ギターとベースがユニゾンで旋律を奏でることにより曲を展開していくというのは、これ以降のハードロックの曲の、定石的なあり方の一つとなっている。

このようなあり方はしかし、西洋の伝統的な音楽では珍しくなかったかもしれない。いくつものパートがユニゾンで旋律を奏でるということは、ぼくは詳しくないが、クラッシックなどではいくらでもありそうな気がする。そう考えるとペイジが踏み出した一歩は、アフリカの黒人の音楽性と、西洋の白人の音楽性との調和のあり方の一つであるとも言えるのかも知れない。

このDazed And Confusedのビデオだが、もう一つ面白いのは、観客だ。皆ぽかんとしている。1969年3月、デンマークでの、スタジオライブなのだろう。ツェッペリンの初めてのアルバムが発売されたのが、アメリカで1969年1月、イギリスでは3月だから、ここのお客さんたちは、ツェッペリンの音楽を今日初めて聴いたに違いない。これまでのロックとあまりに違いすぎて、どう反応して良いか分からず、戸惑っていたのだろうと思う。

ペイジが目指したものは、そのくらい革新的なスタイルだったから、それを観客以前に、どう自身のバンドのメンバーに伝えるか、ということが、大きな課題だったに違いない。ベースのジョン・ポール・ジョーンズは同じスタジオミュージシャン仲間だから、たぶん理論的に説明してある程度理解させることができただろう。しかしボーカルのロバート・プラントと、プラントのバンド仲間だったドラムのジョン・ボーナムは、明らかに肉体派、感覚派である。そのような人たちに新しい内容を伝えるには、口で説明するだけでは難しい。そうではなく、実際に一緒にやりながら、共に見つけていくということが、絶対に欠かせない。

ページはDazed And Confusedを、ヤードバーズの時に演奏している。ペイジのギター演奏自体は、その後のツェッペリンの時とほぼ変わらないのだが、ボーカルがまったく違う。違う歌を歌っている。おそらくペイジは、ギターとベースについてはきちんと考えてあったが、ドラムとボーカルについては、あまりちゃんと考えておらず、たぶん「適当にメロディー付けて、歌ってみてくれない?」みたいな感じだったのだ。だからヤードバーズとツェッペリンでボーカルが違えば、もちろんのこと違う歌になるのである。

ヤードバースのボーカルはキース・レルフという人だが、たしかにロバート・プラント彼とを比べれば、大音量のギターアンプの前で歌うボーカリストとしての素質は、天と地ほどの違いがあるだろう。しかし素質だけの問題ではない。プラントやボーナムにたいして譜面を書いて渡すわけではないのだから、彼らには演奏を、自分自身で生き生きと、生み出してもらわなければならない。そのために必要なのは、バンドが生き生きとした、創造的な場、そのようなメンバー同士の関係性、そういう状態にあることである。

ヤードバーズはメンバーの入れ替えが多く、マネージャーも3回変わったそうだが、それはメンバー同士の関係性が最悪だったからだそうだ。ペイジはそれを身近に、後半は自身がメンバーとして、目の当たりにしてきた。一人目のギタリストであるエリック・クラプトンが、ヤードバーズを脱退したのは、ブルース・ロックを志向していたクラプトンが、マネージャーと他のメンバーから、シングルレコードをヒットさせるために、より一般受けしそうなポップな曲を強制されたからだという。このことから推し測れば、ヤードバーズのメンバー間のいざこざは、収益の機会をどのように得るのかという問題と、おそらく無縁ではなかっただろう。

ツェッペリンは、シングルレコードをほとんど作らなかった。テレビにも、雑誌その他のマスコミにも、ほとんど登場しなかった。それは当時の音楽業界の常識とはかけ離れたものだったが、ライブの迫力の物凄さが口コミで伝わることによって、シングルレコードよりもはるかに高価なアルバムが、爆発的に売れていったという。ペイジはなぜ、そのようなやり方を選んだのか。おそらくメンバー同士のいざこざを避けるためではなかっただろうか。営業のあり方で意見が対立するくらいなら、いくら常識に反したとしても、そのようなことはまったくしないほうが良い、そういうことだったのではないかと思う。実際ツェッペリンのメンバーが仲違いしたという話は聞かない。80年に解散したのも、そのような類の理由ではなく、ドラムのジョン・ボーナムが、酒の飲みすぎで、寝ているうちに吐いた物が気管につまり、死んでしまったためだった。

ペイジは、少年時代の映像(いちばん左のギターを演奏する少年がペイジ)を見ても、わりと最近のインタビューを見ても、いわゆるロックと言うとイメージされる、不良っぽさとか、暴力的な感じとか、そういうものとはまったく無縁な、おそらくイギリスのそこそこ良い家庭で育った、きちんとした紳士である。彼はロックを、自分の趣味の追求や、欲求不満のはけ口、また社会にたいする批判の表明の場として位置づけることはなく、きちんと収益を得るビジネスとしてとらえた。そして、それが成功するための戦略を描き、それを勇気を持って実行したのである。ロック評論家の渋谷陽一氏によれば、ペイジがベースのジョーンズを誘った時の台詞が、「どうだい、金を儲けようぜ」というものだったという。さもありなんと思う。

名古屋に一年半ほどいたことがある。名古屋にはシナモンという、知る人ぞ知る、ツェッペリンのコピーバンドがあって、ギターやボーカルなど各パートが、微に入り細にわたって、ツェッペリンをコピーしており、ギタリストなぞは、姿かたちまでもが、ジミー・ペイジにそっくりなのだが、ちょうど名古屋市大須のライブハウスで公演があったので、観に行ってみた。


シナモン

演奏を満喫したのはもちろんだが、面白かったのは来ていたお客さん。50~60人くらいだろうか、そのほとんどが、50代前半くらいの、大企業の部長か、または小さめの会社の重役か社長、という感じの人たちだったのだ。それが皆、嬉々として、ツェッペリンの曲を聴いている。年代的に50歳からちょっと上くらいの人たちが、ツェッペリンをリアルタイムで体験しているということはあるだろうが、それだけではないだろう。ツェッペリンというバンドのあり方自体が、部長や社長が自分の人生を投影できるような、そんな存在なのだと思うのである。

レッド・ツェッペリンのCD。入門として一枚買うならこれ。


レッド・ツェッペリンII

ツェッペリンのかっこよさが、いちばんストレートに出ている。1969年10月発売。ビートルズのアルバム「アビー・ロード」をおさえて、全米、全英ともにチャート一位となった。

もう一枚買うなら、次はこれ。


レッド・ツェッペリンIV

「天国への階段」もここに収録されており、一般にはいちばん人気がある。ジミー・ペイジはイギリスの民俗音楽にも大変造詣が深く、IやIIIにはそういう曲も多数収録されている。ペイジはたぶん本当は、そういうもののほうが好きなのだと思う。天国への階段は、そのイギリス民俗音楽と、黒人由来のハードロックとが初めて融合されたもので、ツェッペリン音楽がここで完成した、と言ってもいい。しかしその分、初期の荒削りな魅力は影をひそめ、シンプルな分かりやすさには欠けるところがあると思う。

あと二枚選ぶならこれ。


レッド・ツェッペリン

デビューアルバム。個人的にはこれがいちばん好き。


聖なる館

前作(Led Zeppelin IV)で自分達なりにスタイルを完成させ、ここではそれを展開させながらも、力を抜いて色々なチャレンジをしている。ツェッペリンのCDの中では唯一、BGMとしても聞ける。

今日の昼食



またもしょうゆ焼きそば。豚小間肉、ミックス野菜にニラが入っている。

調味料は日本酒としょうゆ、それにみりんと酢。そこに少しの時間、肉を浸して下味をつけておく。

最後に塩と胡椒で味を調える。でも味見はしない。調味料を目分量で入れながら、頭の中に味のイメージを作っていくのが、料理の大きな楽しみだと思う。途中で味見してしまうと、楽しさが半減する。塩辛くなり過ぎさえしなければ、だいたい食べられるものにはなるのである。

『音楽遍歴』 小泉純一郎著

小泉さんというのは、つくづく憎めない人だなと思う。

自伝を書くことについては、かたくなに拒んでいるのだそうだ。「人の悪口は書けないから」。しかし音楽のことなら、ということでインタビューに応じ、それをまとめたもの。中学校で先生からバイオリンを習ったことから、クラッシック、オペラ、ミュージカル、プレスリー、Xジャパン、カラオケと、意外に幅が広くて、驚くほど詳しい。CDを買い込み、本を読んで勉強し、オペラなどは自分でチケットを買って観に行くという。ドイツの首相とオペラに行ったり、ブッシュ大統領とプレスリーの生地へ行き、たまたま居合わせたバンドの演奏に合わせてプレスリーの歌を歌ったりと、エピソードも楽しい。

小泉語録ではないのだが、随所にニヤリとさせられる表現がある。素人に向けた入門になるように書かれていて、おせっかいと言えばおせっかいなのだが、初めに聞くならどれとか、オペラのこれとこれとこれを観てオペラの良さが分からない人は、もうオペラを観なくて良いとか、いちいち笑える。ロマンチストなんだなと思える話も多く、オペラは愛だ、という、ちょっと気恥ずかしくなるようなことを言いながら、でも自分は愛しているとは言えない、とか、忠臣蔵の話から、批判に耐えてあえて嘘をつくところに、観客は感動するとか、ドンキホーテが好きで、国会で「あなたはドンキホーテだ、できないことばかり言って」と批判され、それでけっこう、「郵政民営化は将来必ず正論になる」と言い返したとか。国会の修羅場で自分をドンキホーテにたとえていたのかと思うと、幸せな気持ちになる。

読んでみてあらためて感じるのは、小泉さんという人が、自分自身の感覚を信頼して、そこを拠り所として行動する人だということ。他人がどうだからとか、このほうが利益があるとか、それももちろん大事だが、それを含めて最終的には、自分の感覚にしたがって決める。色んな音楽について、これは好きとか、これはあまり好きではないとか、はっきりしている。好きなものを、本当に嬉しそうに語る。人間として当たり前といえば当たり前だが、貫くのは難しい。凡人の日常ですら難しいのに、総理大臣のプレッシャーたるや、想像を絶したことだろう。たいした人だなと思う。

小泉さんが任期中にやったことについて、正しかったのかそうでなかったのか、ぼくには判断できない。しかしその人柄に触れることが、喜びだったと思う。これもそういう喜びをくれる、一冊である。

日経プレミアシリーズ、850円+税。


音楽遍歴 [日経プレミアシリーズ] (日経プレミアシリーズ (001))

2008-05-27

今朝の読売新聞

アメリカの保守の論客だという、ロバート・ケーガンという人が、新著を出版したということでインタビューに答えている。

「冷戦の終結後、人々は二つの見方を受け入れた。大国間の地政学的競争は終わったという見方と、自由民主主義が勝利してイデオロギーの競争も終わったという見方だ。(中略)だがどちらも誤りだった」

「驚くべきことに独裁体制が今後も生き残りそうな、一つの政体として復活した。国が豊かになり、経済の近代化が進めば、政治も変わると思われていたが、中国は政治的開放が進まず、ロシアは専制色を強めた。この体制はたぶん数十年は続く。共産主義ほどの感染力はないにせよ、模倣しようとする指導者も増えると思う。今後は大国間の昔ながらの地政学的競争と民主主義対独裁主義というイデオロギーの競争という二つのせめぎ合いが重なり合って続くだろう」

(米国の今後について)「第一に、米国人は自覚していないが、米国には自身の力で世界の形を決めていこうとする強固な伝統がある。次の大統領がバラク・オバマ氏でもジョン・マケイン氏でも、それに変わりはないだろう。第二に、米国と民主主義同盟との結びつきは強まる。仏独の指導者も地政学的な利害を考え、超大国、米国と緊密な関係を結ぶ決断をした。中東や東アジアの安全保障も米国の力を軸に構築されている。米軍の撤退は当面、だれも望んでいないと思う。それが世界の現実だ」

ケーガン氏はネオコンで、次期大統領候補であるマケイン氏の外交顧問の一人というから、著書の出版は大統領選挙に向けた運動の一環なのだろう。しかし今後もアメリカを中心に、民主主義国家が結びつきを強めながら世界が形作られれていくとは、短期的にはその通りであるにしても、それを数十年のスパンで継続するものであると考えるのは、楽観的に過ぎるのではないかと思う。

原丈人氏は『21世紀の国富論』で、「冷戦が終結し、西側の資本主義体制が勝利したことで、今後は資本主義が永久に続くかのように思われてきました。しかし、その後の世界で起こっていることは、世界中が一斉に、しかも過度の利潤追求に走りだしているという現実です」と言う。

「それまで短期的な利潤追求が行きすぎることなく保たれてきたのは、対峙する社会主義体制下の計画経済という存在があったからこそでした。もうひとつの体制が脅威となっていた時代もあったし、もはや脅威ではなくなった1970~80年代でさえも、その存在ゆえに資本主義はその優れた側面が前面に現れていたところがあると思います」

「しかし今、アメリカが中心を担っている資本主義のシステムは、仕組みそのものが疲弊し破綻しかけていることに、もっと多くの人が気づくべきです。アメリカだけでなく日本でも、年金基金などが多くの資金をヘッジファンドに投入しています。カネがカネを生む現象を美化し、夢の実現と錯覚させている」

「そこにあるのは、マーケットがすべてを決定し、マーケットにおける価値がすべてという、行きすぎた市場万能型資本主義に他なりません。カネをいくら膨らませたかによって価値を比較するスタイルの資本主義は、多くの問題点を解決できないまま、破綻に向かって突っ走っているのです」

ぼくはその通りだと思う。ケーガン氏は独裁体制をばい菌扱いする。しかし独裁体制は支配層が自らの利益を最大化しようとして作り出すものであり、それは形こそ違え、内実においてはアメリカのやろうとしていることと何ら変わるものではない。

原氏は世界を変えることができるのは、新しい技術なのだと主張する。人間が機械に合わせるのではなく、機械を人間に合わせようとしていくこと、その根幹には、コンピュータ上の情報をもっと人間のやり方にそった形で保存できるようにし、それを中央に一元的に集めるのではなく、個人個人が分散して持つことができるようにすること。そのような技術革新が新たな産業を生み出し、経済を活性化し、それによって新たな文化が生み出されていく。またその技術は人と人との結びつき方を変え、政治を変えていく。すごい展望である。

今こうして、一見先行きの見えなくなっている時代。しかし逆に言えば、千載一遇のチャンスが到来しているのである。

2008-05-25

韓国の灰皿

タバコを吸う都合上、灰皿には自ずと関心が向く。今回韓国へ行って、日本の灰皿とはだいぶ趣が違うのが面白かった。

日本の場合、駅や色々な場所の喫煙所にある灰皿には、九割方、水が入っている。きちんと火を消さない不心得者も多いから、灰皿の中で火が消えずに、煙がもうもうとなるのを防ぐために、火がついたままでも灰皿にポトンと落とせば、ジュッ、と消えるようになっているのだ。

ところが韓国の場合は違った。


釜山タワーの灰皿


釜山沿岸旅客ターミナルの灰皿


金海国際空港 屋外の灰皿


済州島 海水サウナ内の灰皿

このように、砂が入っているものを、いくつも見かけた。

日本だと、砂が入っている灰皿というのは、よっぽど洒落たホテルなどで、平らにならした砂の上にホテルのシンボルマークを刻印したりして、ハイクラスな雰囲気を醸し出すために置いてあったりはするが、それ以外ではほとんど見ることはない。昔はデパートなどで、白い砂利の入った灰皿があったようにも記憶するが、それも今はほとんど無いだろう。

少なくとも日本の灰皿に砂や砂利が入っているのは、「おしゃれな感じ」を強調するためなのではないかと思うのだが、上の灰皿はとくべつおしゃれな場所に置かれたものではなかった。

次にコーヒー屋で見かけた灰皿。


釜山市南浦洞の喫茶店の灰皿


釜山市四面のスターバックスの灰皿

コーヒーの出しガラが入っている。

これは日本でも、見かけないことはない。韓国でもこれは、ちょっとおしゃれな感じを表現したものだったと思う。

次は、日本では一度も見かけたことのないパターン。


南浦洞の旅館の灰皿


金海空港 館内喫煙室の灰皿

ちょっと分かりにくいかも知れないが、水に浸したティッシュペーパーが入っているのである。

これを見ると明らかだと思うのだが、韓国の人は、灰皿に水だけを入れておくのは、何となく抵抗があるのだ。ティッシュペーパーは、タバコの消火、ということについては、何の役割も果たしていない。水だけが入っているのと同じである。しかしおそらく韓国の人は、水にタバコをポトンと落として、それがジュッと消えるというのでは、タバコを消した、という感じがしないのではないだろうか。そうではなく、やはり何かの物体、砂とか、コーヒーの出しガラとか、せめてティッシュペーパーとか、そういうものときちんと接触させないと、タバコを消したということにはならない、そんな感じがあるのではないかという気がする。

似たような発想を、韓国の料理にも感じる。なぜあんなに唐辛子やにんにくやゴマを、たくさん使うのか?そういうものは日本では、最近は別として、伝統的にはほとんど使わない。色々理由はあるかも知れないが、その一つにおそらく、アクとか、エグミとか、そういうものに対する対処ということがあるのだと思う。日本では肉や野菜のアクやエグミを、アク取りをしたり、下ゆでをしたりして、徹底的に取り除く。それに対して韓国では、同じようなクセを持つ調味料、唐辛子、にんにく、ゴマ、それを投入することによって、アクやエグミを中和させようとする。それと同じようなことが、灰皿にも表れているのではないかと思うのだ。

ただしこのことは、済州島では当てはまらない場合があった。


済州島 翰林公園内の灰皿


済州島民俗自然史博物館 玄関脇の灰皿

公園の灰皿には水が入っていて、博物館のほうは、空っぽの壷だった。

今回済州島に行ってみて、韓国本土とはちょっと文化が違うと感じた。元々独立王国で、沖縄とか東南アジアとか、そちらのほうからの文化の影響もあるのではないかと思う。

2008-05-24

『思考の補助線』 茂木健一郎著

この本は、まとまった論を理路整然と展開する、といった類のものではない。創作メモか、または日記のようなものに近い。著者は四十歳半ば、ぼくと同じ年。これから人生で一番、脂が乗り切った時期に差し掛かるに当たって、自分は何を見つけたかったのか、そのためにはどちらの方向に、どのように向かって行ったら良いのか、今一度確認したい、この本はそのために書かれたのだ。それがこのようにきちんと商品になってしまうところが、著者の人徳なのだろう。

繰り返し語られるのは、「意識」という問題。自然科学はあらゆる物体の運動について、詳細に記述することを可能にし、いまや脳細胞までもが、その対象となっている。しかしこの先、脳細胞がどんなに詳しく記述されたとしても、人間が様々な物事に対して、生き生きとした感動を伴いながら感じる、そのような意識の作用は言い表すことは出来ないに違いない。そうであるとしたならば、意識という物が存在することに間違いはないのだから、どのようにしたらそれを記述することが出来るのか、著者は七転八倒しながら考えている。

自然科学は、記述する対象から、記述する主体、自分自身、そして自分の意識、それを取り除くことによって、客観性というものを確保し、成立している。意識の居場所はないのである。居場所はもちろん、自分自身の中にあるわけだが、それがただ自分の中にあるだけでは、誰もそれを見ることができない。感動は、それを言葉によって表現して初めて、他人にとっても存在するものとなるのである。人間は誰でも日常において、言葉によって様々なことを表現する。それは即ち、その人の意識の表現なのである。

意識がどのようなものであるのか明らかにしたいと思ったら、それが言葉によって表現されたもの、それを対象と考えなくてはいけない。そのような言葉による表現の、一方の極に、自分を完全に外側に置いた、客観的なスタイルがある。もう一方に、自分の内側だけを見た、哲学のような表現がある。しかしその両極の間には、様々な表現がなだらかに分布しているのである。そのような表現の全体を、自然記述の枠組みとしてどう捉えることが出来るのか、それが課題なのだろうと思う。

言葉による表現は、人と人との関係、場を生み出していく。その場のあり方は、意識というものの表現そのものとなっている。すべてを明確に表現することで、人と人との関係が切れ、場が歪むことがある。表現されなかった部分は、場のあり方に置き換えられていくのである。

世界全体を引き受ける。これが著者の若い頃からの野心だそうだ。ぼくも負けないぞ、と思う。ぼくたちの世代が今、何をするのかが、これからの世界を作っていく。世界は一人一人の、意識の表現なのだ。

ちくま新書、720円+税。


思考の補助線 (ちくま新書 707)

韓国B級グルメ食べ歩き

韓国と言えば、やはり韓国料理。今回の韓国行き、とくにB級グルメを中心に、フルに満喫してきた。

韓国料理と言えば、まずは何と言っても、朝食。韓国では「朝食」(チョンシク)という物が、ただ朝食べる食事、というだけでなく、一つの様式としてあるみたいで、例えばこんな感じ。


釜山・新東亜市場地下食堂の朝食

これで4,000ウォン、450円くらい。

ご飯に白菜とワカメの味噌汁、その上にサバの味噌煮、右にスンドゥブ(豆腐のチゲ)、その上にケジャン(カニの辛味噌漬け)、そして胡麻豆腐に、もやしのナムルに、いりこの和え物に、キムチ、カクトゥギ、チャプチェ、海苔の和え物。すごいボリューム。どれから食べようか、迷いながら箸をつけていくのが楽しい。釜山の魚市場の地下にある食堂なので、海産物系のおかずも豊富。韓国の人たち、朝からこれだけのもの食べるのだから、敵わない。

釜山は豚肉料理が有名で、色んな種類の豚肉料理があるのだけれど、そのなかで、トェジクッパ(豚肉クッパ)。


釜山・四面(ソミョン)トェジクッパ通りのトェジクッパ 4,500ウォン

これは豚の背骨をぐつぐつ煮込んだスープに、ゆで豚とご飯、薬味が入っている。それに自分で、一緒に出てくるニラやアミの塩辛、それに塩で味をつけて食べる。生の青唐辛子とにんにく、玉ねぎが見えると思うが、これは味噌をつけて、そのままかぶりつく。けっこうな刺激だが、色んな料理の副菜として、わりかし普通についてくる。すごい。

あとカムジャタン。


釜山南浦洞・豚足ストリートの外れにあるトェジクッパ屋のカムジャタン 5,500ウォン

これは出汁を取るために使う豚肉の肉付背骨が、そのままガシャガシャ入っていて、そこにジャガイモが一つ、ぼこっと入っている。ちょっと辛いが激ウマ。

釜山・海雲台(ヘウンデ)に、ソコギクッパ(牛肉クッパ)の店が何軒か連なっている場所があって、そのうち二件が隣同士で張り合っているのが、微笑ましくも笑える。


海雲台のソコギクッパ屋

創業者なのだろうと思うが、おばさんのでっかい写真入の看板、どちらが先に出したのか知らないが、それを追っかけたのだろう。店にいる客の人数を確認し、多かった左の店に入ってみた。


海雲台のソコギクッパ 2,500ウォン

とろとろの牛肉の入っているクッパだが、それほど辛くない。店の前には大きな釜が三つ、そこで肉と野菜を煮込んでスープを作っている。


ソコギクッパ店の店先

コクがあってまろやか、日本人好みの味だし、この看板と大釜のパフォーマンスをそのまま導入して、日本で店を出したら、けっこう流行るんじゃないかと思った。

四面のトェジクッパ通りにあった、カルグクスという麺。


カルグクス 3,000ウォン

肉系の温かい出汁に、うどんみたいな太目の麺と薬味が入っている。これもさっぱりしてうまかった。

あとこれはほんとに、ウドンという食べ物。


ウドン 2,500ウォン

いりこ出汁に醤油と塩で薄く味をつけたような汁で、にんじん、玉ねぎ、ニラ、長ねぎ小口切りと一緒にうどんを軽く煮る。うどんは日本のうどんとまったく同じ。器によそって、韓国海苔、揚げ玉、ゴマをトッピング。これも日本の立ち食いで出したら受けるんじゃないかと思う。キムチの横にある、タクワンに見える黄色いものは、ほんとにタクワン。キムチと色と味のコントラストが良く、ファストフード的な店ではよく付け合せに出てくる。タクワンは日本独自だと思っていたが、韓国由来なのだろうか?

屋台は大きく分けて、昼の屋台と夜の屋台がある。昼の屋台は女子学生や主婦、などで賑わう。


四面の屋台

置いてあるのは、まずトッポッキ。

トッポッキ(食いかけ御免) 玉子入りで2,000ウォン

トクという韓国式の餅の、薄切りではなく棒状のものを、甘辛い汁でからめたもの。

それからおでん。


おでん(食いかけ御免) 一本300ウォン、4本で1,000ウォン

これは魚のすり身を薄く延ばして揚げた、さつま揚げみたいな感じのもの。

あとマンドゥ。


マンドゥ(食いかけ御免) 1,000ウォン

あとパジョン(お好み焼き)なんかが置いてある。まぁどれも手軽に食べられるが、味はそこそこ。

パジョンは、済州島の民俗村で食べたパジョンが、死ぬほどおいしかった。


済州島・民俗村のパジョン

夜の屋台は、サラリーマンやアベック、地元のおじさんなんかが中心だ。


釜山・南浦洞の夜の屋台の光景

昼もそうなのだが、屋台はすべて、オモニ(中年の女性)が調理、接客を一人で切り盛りする。


ある屋台

料理はこんな感じ。


夜の屋台料理

もろきゅう、玉子焼き、鶏砂肝の塩炒め、ホタテ焼き。それにもちろん、ソジュ(焼酎)を飲む。屋台のオモニを相手に、道行く人を眺めながら飲む酒は、これまた格別。日本で言うと、スナックに相当すると思う。勘定は25,000ウォン、2,800円くらい。食べ物の値段にしてはちと高いが、スナックと考えれば納得。

街中ばかりではない。ここが?と思うような場所で食べる物が、また大変うまい。

済州島に向かうフェリーの食堂で食べた、プルコギ(焼肉)定食。


フェリー食堂のプルコギ定食 6,000ウォン

済州島のサウナの軽食コーナーで食べた、カルビタン。


カルビタン 5,000ウォン

韓国はほんとに、B級グルメ天国。日本にも相当するものは色々あるが、全体のエネルギーとしては、韓国がはるかに上回ると思う。

またそのどれもが、日本と比べた場合、圧倒的にうまい。日本の場合、安い食事を出す店はチェーン展開されていて、本部から送られてくる食材を、現場で加工する、という形になっていることが多いと思う。それに対して韓国のB級グルメは、その店や屋台を仕切るオモニが、一から作る。特にどこでもスープがうまいのだが、すべてのスープは現場で時間をかけて取られている。これは敵うわけがないのである。

2008-05-23

『21世紀の国富論』 原丈人著

すごい本なのである、これは。

読売新聞で糸井重里と誰だかが、自分が影響を受けた本、みたいなことについて対談していて、糸井重里が「とにかく読んでくださいとしか言えません」と言っていたので読んでみたのだ。冒頭からいきなりパンチを食らって、最後にはノックダウンされた、という感じだった。

著者は実業家で、もともとは考古学者を志望してアメリカへ渡ったが、考古学の発掘を自分で指揮するためには金がかかる、そのためにはまずビジネスをやって金を稼ごう、と考え、アメリカ・スタンフォード大学のビジネススクールへ入学。その後光ファイバーについてのベンチャー企業を興すために、さらに工学を学び、29歳で会社を立ち上げ、成功。会社を売却して、そのお金でベンチャーキャピタルという、ベンチャー企業に投資する会社を始めたという人。数々の企業を成功に導き、今ではバングラディッシュで貧民の教育のための事業を行う会社を立ち上げたり、アメリカ共和党やら国連やら日本の財務省やら税制調査会やら、様々なところで役職を務めている。1952年生まれだから、ぼくより10歳年上、今年56歳。

その経歴もすごいのだが、本の中身。著者は、「日本が中心的な役割を果たしながら、世界を変えるのだ」と言っている。それも、よくありがちなトンデモではない。自分自身の経験と、世界を見る果てしなく広い視野と歴史認識、それらに基づきながら、超具体的に論を展開する。こちらがぐうの音も出ない、というくらいまで、攻め込んでくるのである。まさに超一流の実業家の事業計画のプレゼンテーション、それを冷静に、かつ熱く、語られてしまった、という感じである。話のスケールの大きさと、一つ一つの物事の具体性。未来について語られたものの中で、これだけの話は一度も聞いたことがない。

読みながら、嫉妬の気持ちが湧き上がるのを抑えることができなかった。本当はこういうこと、自分が言いたかったんじゃないのか。そして思った。これからこの人と、共通の目標を持ちながら、何らかの形で一緒にやっていきたい。この人から自分が、一物の人間であると認められるようなことがしたい。

いやいやいや、しかしこの本は、日本人の全員が読むべきであると、ぼくは思う。

平凡社刊、1,400円+税。


21世紀の国富論

2008-05-22

韓国市場

韓国へ行ってきた。韓国と言えば、まずは何と言っても、市場である。


韓国釜山市国際市場

韓国の都市には必ず、市内に何箇所かの市場がある。韓国語で「シジャン」と言い、まぁこれは「市場」という漢字の韓国語読みなわけだけれども、東京で言えばアメ横とか、秋葉原とか、そういうあたりに相当するような、小さな店が狭い場所に軒を連ねてびっしりと固まっている場所で、魚や野菜や果物、乾物、キムチなどの漬物、様々なおかずなどの食料品から、ジーパン、Tシャツ、作業着、婦人服、紳士服などの衣料品、道具類、日用雑貨品、電気製品、などなど、あらゆる種類の物が売られている。この店は魚、この店はジーパン、というようにそれぞれが専門店で、だいたいは零細企業、奥さんが店番をして、ご主人は倉庫管理や仕入れを担当する、というようになっているらしい。

その店々が、「これでもか」とばかりに品物を積み上げている。


国際市場の魚屋


ナムルなどのおかず屋


カバン屋

品数も豊富ではあるのだが、それだけではない、店が狭くて倉庫がないということもあるのだろうが、同じ物でも、とにかくある物すべてを積み上げるのである。「これを売り切るぞ」という気合が自ずとひしひしと、伝わってくる。それが市場中、延々と続くのだから、物凄い迫力である。

韓国は、日本に比べると自己主張が強烈だと思う。道端で、ほとんど怒鳴り合いをしているとしか思えない会話の光景を、しばしば見かける。食べ物にしても、あの唐辛子の使用量や、おかずに玉ねぎや青唐辛子、にんにくを、生のまま味噌をつけてバクバク食べる、そういうものが生み出すパワーで人に向かっていくのだろうなと思うと、日本人である自分としては、ちょっと敵わないなと思う。

また役所があまり規制をしないというところもあるのかなと思う。これは以前台湾に行った時の話だが、台北の三越からシャトルバスに乗ろうとして、けっこうな行列に並んだ。シャトルバスは小さくて、その行列は到底全員乗り切れないだろうなと思うのだが、そこにいた係員は何もしない。日本なら事前に人数を数えて、ロープで仕切りでもして、ここまでは次のバスで、そのあとは次のバス、などと整理するところだろうと思うのだが、到着したバスに人を詰め込めるだけ詰め込めて、もう物理的に一杯でそれ以上は入らないとなった時点で、ドアが閉まって出発して行った。

一人一人に自己主張があり、したいことがあるのだから、それをまずはやってもらい、実際に限界に達した時点で次を考える、というように、社会全体がなっているのかなと思う。

韓国の市場や、繁華街で、だいたい通りや筋ごとに、同じ種類の店が並んでいることが多い。豚肉料理なら豚肉料理ばかり並んでいる通りがあって、「豚足ストリート」と呼ばれていたり、もつ焼きならもつ焼き、食料品なら食料品、またジーパンのならジーパン、というように、同じものを売る店が固まっている。これも計画的にそうしているのではなくて、ある店が豚肉料理なら豚肉料理で成功すると、そこにみんながやってきて同じ物を売る店を始めるのだという。そのようにしながら自然に、地域ごとに特色のある場所が生まれ育っていった。

日本では最近、大手業者が大規模開発をして、その業者がテナントを選んで入店させ、ショッピングモールを作るということが多いと思う。しかしそれでは、見た目にはきれいなものになっても、やはり不自然なのだと思う。一人一人のやりたい気持ちがベースにあり、それが自然に寄り集まっていく、それを誰かがきちんと応援していく、そういう時に、あの韓国の市場や街のエネルギーが生み出されていくのだと思う。

ところで韓国の街を歩いていると、仕事をしている男性の姿をあまり見かけない。店員に関して言えば、市場はもちろん、道端の露店でも、きちんとしたビルに入っているような普通の店でも、ほとんどが女性。バイクやトラックで品物を運んでいるのは男性だが、数としては圧倒的に少ない。他の人はどこで何をしているのだろうと、不思議になる。まぁ遊んでいるわけではないだろうが、店の店員といえば男性が主である日本とは、かなり違うのだなと思う。

韓国の社会全体を考えてみると、一方で市場に代表されるような、零細な自営業者の大群がある。市場はまだ固定の店舗を持っているわけだが、道端に出店される屋台や露店というのも、これまたすごい数で、繁華街の裏通りなどは、道の真ん中に延々と屋台が続く場所があったりする。


釜山市南浦洞の屋台

こういう屋台では、昼ならお好み焼きであったり、おでんであったり、海苔巻きであったり、夜ならお酒を出して、天ぷらだったり焼き鳥だったりを摘ませるようになっている。さらには交差点の脇など道端には、小さな台車に載せた石鹸だとか、靴ひもだとかいうようなものを、かなり年老いた女性が売っていたりする。

もう一方で、現代とか、三星とか、財閥と呼ばれるような巨大企業の群がある。そちらに勤める男性の奥さんは、あまり働かず主婦をするのだと思うが、どうも韓国というのはそういう両極に分かれていて、あまり中間がないのかもしれないなと思ったりもした。

2008-05-14

熟成鶏醤油らーめん 上弦の月

蒲田には、あ、もちろんこれは蒲田に限らないことだが、行列の出来る店がいくつもある。味というのも一つ大事なことだと思うけれど、それだけでは人は並ばないだろう。割安な感じがするということも、まぁ絶対条件だとは思うが、それだけでも多分足りない。行列の出来る店というものには、やはり何といっても、他にはないオーラというか、エネルギーというか、強烈な自己主張というか、そういうものがあるのだという気がする。蒲田のラーメン屋「上弦の月」も、そういう果てしのないエネルギーとも言うべき、何物かを発している店の一つだ。


上弦の月(時間が早かったのか、行列していなかった)

この店は大体いつ行っても、ずらっと人が並んでいる。上の写真を撮ったときは、時間が早かったせいか、たまたま人が並んでいなかったが、これは初めての光景だった。蒲田の駅から線路沿いの飲食店街をずっと歩いて行った先、かなり外れとも言える場所にあるのだが、グルメ雑誌にも何度も取り上げられたりしているかなりの有名店らしい。

まずすごいのは、店の外にも中にも、平面という平面にはすべてとも言えるくらい、無数の張り紙がしてある。黄色い模造紙に黒い毛筆の楷書で、原材料に如何にこだわっているかということだとか、自分は二十代の頃全国のラーメン店を食べ歩いて、それから特に修行もしなかったのだがラーメン店を始める決心をし、初めの頃はスープがなかなかうまく出来なくて、一年のうち百日ほどしか営業できなかったとか、そんなようなことがびっしり書いてある。さらにこれまで取り上げられたグルメ雑誌の記事が、片っ端から貼られている。

それだけでもかなりのオーラを感じるところなのだが、さらに店主がすごい。初め張り紙を外から見たときには、どんな理屈っぽい親父がやっているのだろうと思ったのだが、あにはからんや、お姉ちゃんなのである。三十は越えていて、四十も近いかもしれないという女性だが、髪は茶髪でお下げにし、化粧も濃い目、派手目な服装、それがラーメンを作りながら、私はこうやってラーメンを作れることが本当に嬉しくて堪らないのだと言わんばかりの満面の笑顔を振りまき、お客に気を使い、ねぎらい、挨拶をするのである。完全にワールドである。狭い店内、かなりの時間を待たされるのだが、この小宇宙に取り込まれてしまい、そんなことなど忘れてしまう。

ラーメンの種類としては、鶏がら出汁に魚介出汁を合わせた超こってりスープに極太麺、それにほうれん草やら、とろとろに煮込んだ豚ばら肉やら、焼き海苔やらが載っている。あっさりラーメンが好みの向きにはちょっときついかもしれないが、おいしく食べられる。しかし正確に言うのなら、おいしいおいしくない等ということは超越した味なのだ。それがもし好みの味でなく、おいしくなかったとしても、そんなことは問題ではない。店主の徹底したこだわり、その小宇宙を自らの体内に流し込むという、そのことそのものが快感なのである。

一杯550円。店を出る時には必ず、ほんわかとした満足感に包まれる。おいしかった、というだけではない。一つの気持ちの良い出会いをしたな、という、そういう心地よさなのである。

上弦の月 蒲田店 (じょうげんのつき) (ラーメン / 蒲田)
★★★★ 4.0

2008-05-13

イギリス

イギリスというのは、面白い国だなと思う。

レッド・ツェッペリンというイギリスのロックバンドがあって、これがぼくは死ぬほど好きなのだが、(あ、うそ、死にはしませんが)、元々アメリカで、アフリカから奴隷として連れて来られた黒人たちの生み出した音楽であるブルースというものがあって、そこからジャズが生まれたり、またロックンロールロカビリーというものが生まれたりしていく、という状況の中、もう一度ブルースを再評価し、それを白人である自分たちなりに咀嚼してみようという動きが、イギリス人であるエリック・クラプトンジェフ・ベックや、またアメリカからイギリスに渡ったジミ・ヘンドリックスなどという人たちを中心として始まる。でもその人たちがあくまで、ブルースという土俵の中で、「白人のブルース」というものを模索していたのに対して、レッド・ツェッペリンは、もちろんそういう動きの中から生まれ、ブルースを下敷きにしてはいたけれども、ブルースとははっきり違う、新しい音楽である、ハードロックというものを生み出したのだった。

ツェッペリンの影響を受けて、その後膨大な数のハードロックのバンドと楽曲が生み出されていき、さらにそこからヘビーメタルとか、プログレシブロックとか、ツェッペリンの持っていた色々な要素を推し進める形で、新たなジャンルが生み出されても行った。ツェッペリンはそういう意味で、新しい文化の誕生の原点になっているのだ。

ツェッペリンのリーダーは、ギタリストであるジミー・ペイジという人だが、この人がツェッペリンの前に属していたバンドでヤードバーズというのがあって、そのアルバムを今聞くと、その時代にありがちな、ビートルズチックなぺなぺなしたサウンドに、その後のツェッペリンを髣髴とさせる、ギンギンと唸るジミー・ペイジのギターが暴れまくっているという、そういう印象だ。その時すでに、ジミーペイジの頭の中には、新しいバンドのイメージがふつふつと浮かんでいたのだろうなと思う。

そういう文化が新しく生み出される原点のようなもの、それがイギリスで生まれているという例が、いくつもあると思うのだ。

考えてみればビートルズだってそうで、ビートルズはツェッペリンの少し前にデビューしたバンドだが、やはりアメリカで当時流行っていたロックンロールやロカビリーを、自分たちなりに解釈した結果、リバプールサウンドという独自の音楽を生み出し、さらに彼らが歩んでいった道筋は、そのまま現在のポップミュージックの基盤となっている。そう考えるとイギリスはロックという分野を確立するに当たって、元々の母体はアメリカにあったにもかかわらず、決定的な大ホームランを二発、放っていることになる。

似たような例がちょっと昔にあったなと思ったのだが、それは科学という分野が確立していくプロセスだ。まぁこれは詳しいことを知らないので、適当なことを言ってしまうことになるとは思うが、元々中世のヨーロッパにおいては、真理の探究ということについてはキリスト教がその中心を担っており、だから多分、神聖ローマ帝国とか、その辺りが活動の中心だったのだろう。一発目の大ホームランを放ったのはニュートンだったわけだが、それに先立って研究を積み重ねた人たちとして知られている、ガリレオはイタリア、ティコ・ブラーエはデンマーク、ケプラーはドイツだから、だいたいその辺りだ。そうやってそちらで物事が熟成されていたものを、当時はまだ周辺国であったと言ってもいいのだろう、イギリスの、しかも20歳そこそこの若造が、決定的な手柄をかっさらっていったのだ。

ニュートンは、物体の運動ということについて、すべてをそこから導き出すことができる、法則というものを確立したわけだが、次の大ホームランはそれから200年後、生物および人間について、やはりイギリス人である、チャールズ・ダーウィンによって、進化論というものが確立される。ニュートンとダーウィンによって、物質から生物、人間までの一通りについて、真理を探究する基盤が整ったということで、科学という分野が確立し、科学者という人たちが収入を得ることができるようになり、それまでキリスト教が担っていた真理の探究の役割のかなりの部分を、科学が担うようになった。そういう大きな、世界の中心軸の変動ということについて、たぶんかなり重要な役割を、イギリスが担っていたのではないかと思ったりする。

イギリスは大航海時代、世界中を侵略し、七つの海を征服したわけだが、ただ武力だけを行使していたのでは、それはうまく行かなかっただろう。やはりきちんとした文化、基本的な考え方、そういう背景がなければならないと思うのだが、そういう意味でイギリスは巧いと言うか、何と言うか、大したものだと思うのである。第二次世界大戦後は、世界の主導権はイギリスからアメリカに移ったと言われているそうだが、いやいやどうして、イギリスもまだまだ体力を温存しているのかもしれない。

2008-05-12

中国式居酒屋 香楽園

今や蒲田と言えば餃子、なわけで、実際蒲田には特色のある中国料理屋が多い。「歓迎」「金春」「ニーハオ」が有名で、この三店は中国残留孤児だった実際の兄弟がやっているらしい。どの店も食事時にはずらっと行列ができている。たしかに餃子は、300円くらいと安いし、もちもちとした肉厚の皮にジューシーな具、という感じで美味しいのだが、あとの料理は大して美味しくない。味というよりはむしろ、商売がうまいのじゃないかという気がする。

それに対してこちら、香楽園。


中国式居酒屋 香楽園 蒲田西口店

こちらもまぁ、それほど旨いという訳でもないが、ぼくが贔屓にしている店である。もともと蒲田で知り合った中国人に案内してもらった所で、店員は全員中国人、お客も半分以上は中国人、という感じである。蒲田西口歓楽街、客引きゾーンのど真ん中、キャバクラビルの一階にあり、知らないとなかなか入れない。お客はだいたい、中国人の団体か、地元のおじさん達か、またはおじさんと中国人ホステス、という感じ。まぁそういう異国情緒あふれる場所にいるということ自体が、また楽しいし、そういう場所を知ってる自分に鼻高々、というところもある。

餃子(五つ入り)は今まで100円だったが、小麦粉の値段高騰のため値上げされて、それでも何と120円。だいたい一人で行くので、中華丼などをさっくり食べるのだが、たっぷりの具に手の込んだスープがついて、680円。他にも中国人相手の店だけあって、モツ系の料理や、魚介系の料理も多いし、火鍋などもある。店員も、よくある中国料理屋はとにかく店員の愛想が悪いことが多いが、ここは良い。コース料理は1800円から、それに飲み放題が1200円、合わせて3000円。

蒲田で中華を食べながらわいわい飲むなら、ここに決まりだと思う。

香楽園 蒲田西口店

『文章読本』 続き

谷崎潤一郎著『文章読本』を再読。これから自分がどこへ向かって行ったら良いのか、この本は教えてくれているような気がするのである。

一つには文章の書き方について、目から鱗が落ちるようなことがいくつもある。文章を書くとき、一つの文は出来るだけ短い方が良いと、何となくそう思い込んでいる様な所があるのではないだろうか。しかし著者は、
「今日は短かいセンテンスが流行る結果、(中略)混雑を起こすことなしに、幾らでも長いセンテンスが書き得ることを、忘れている人が多いのではないかと思いますので、特にそう云う文章の美点を力説したいのであります」
と言う。源氏物語に代表される、日本の伝統的な文章の書き方の一つは、敬語を使うことにより主格を省略したり、またセンテンスの終わりが際立たないように工夫をしたりすることで、センテンスの切れ目をぼかすようにする。それは「センテンスの切れ目がない、全体が一つの連続したものであると考えるのが至当」であり、「これこそ最も日本文の特長を発揮した文体」なのである。

著者は「文法に捉われるな」と繰り返し言う。文に主語がなくてはいけないとか、過去のことは過去形で言わなければならないとか、そういうものは「大部分が西洋の模倣でありまして、習っても実際には役には立たないものか、習わずとも自然に覚えられるものか、いずれか」である。「日本語には明確な文法がありません」のであり、「日本語を習いますのには、実地に当たって何遍でも繰り返すうちに自然と会得するより外、他に方法はないと云うのが真実」なのだが、それではなぜ学校で日本文法を習うかと言えば、
「今日の学生は小学校の幼童といえども科学的に教育されておりますので、昔の寺子屋のような非科学的な教え方、理屈なしに暗誦させたり朗読させたりするのでは、承服しない。第一頭が演繹や帰納に馴らされておりますので、そう云う方法で教えないと、覚え込まない。生徒がそうであるのみならず、先生の方も、昔のように優長な教え方をしてはいられませんから、何かしら、基準となるべき法則を設け、秩序を立てて教えた方が都合が良い。で、今日学校で教えている国文法と云うものは、つまり双方の便宜上、非科学的な国語の構造を出来るだけ科学的に、西洋流に偽装しまして、強いて『こうでなければならぬ』と云う法則を作ったのであると、そう申してもまず差支えなかろうかと思います」
なのである。

一つの語を漢字で書くのか平仮名で書くのか、漢字で書く場合どのような漢字を当てるのか、送り仮名はどうするのか、句読点はどのように打つのか、という問題についても、「到底合理的には扱いきれないもの」であり、「私は(中略)近頃は全然別な方面から一つの主義を仮設しております。と云うのは、それらを文章の視覚的並びに音楽的効果としてのみ取り扱う。云い換えれば、宛て字や仮名使いを偏に語調の方から見、また、字形の美感の方から見て、それらを内容の持つ感情と調和させるようにのみ使う、のであります」と言う。その他にも文章を書こうとする時に迷いがちないくつものことが、すっきりと納得できるように解決されていく。

著者はこの本で一貫して、「品格」を重んじること、その第一として、「饒舌を慎むこと」を、繰り返し強調する。
「われわれはの国民性はおしゃべりではないこと、われわれは物事を内輪に見積もり、十のものなら七か八しかないように自分も思い、人にも見せかける癖があること、そうしてそれは東洋人特有の内気な性質に由来するものであり、それをわれわれは謙譲の美徳に数えている」

「西洋にも謙譲と云う道徳がないことはありますまいが、彼等は自己の尊厳を主張し、他を押し除けても己の存在や特色を明らかにしようとする気風がある。従って運命に対し、自然や歴史の法則に対し、また、帝王とか、偉人とか、年長者とか、尊属とか云うものに対しても、われわれのようには謙譲でなく、度を超えることを卑屈と考える、そこで、自己の思想や感情や観察等を述べるにあたっても、内にあるものを悉く外へさらけ出して己の優越を示そうとし、そのために千言万語を費やしてなお足らないのを憂えるが如くでありますが、東洋人、日本人や支那人は昔からその反対でありました。われわれは運命に反抗しようとせず、それに順応するところに楽しみを求めた。自然に対しても柔順であるのみならず、それを友として愛着した。従って物質に対しても彼等のようには執着しなかった。またわれわれは己の分に安んじ、年齢の点で、智能の点で、社会的地位や閲歴の点で、少しでも自分に優っている人を敬慕した。そう云う風であるからして、なるべく古い習慣や伝統に則り、古の聖賢や哲人の意見を規範とした。そうしてたまたま独得の考えを吐露する必要のある時でも、それを自分の考えとして発表せずに、古人の言に仮託するとか、先例や典拠を引用するとかして、出来るだけ『己れ』を出し過ぎないように、『自分』と云うものを昔の偉い人たちの蔭に隠すようにした。ですからわれわれは口で話す時も文章に綴る時も、自分の思うことや見たことを洗い浚い云ってしまおうとせず、そこを幾分か曖昧に、わざと云い残すようにしましたので、われわれの言語や文章も、その習性に適するように発達した」

「内輪とか控えめとか、謙遜とか云いますと、何か卑屈な、退嬰的な、弱々しい態度のように取られますけれども、西洋人は知らず、われわれの場合は、内輪な性格に真の勇気や、才能や、智慧や、胆力が宿るのである。つまりわれわれは、内に溢れるものがあればあるほど、却ってそれを引き締めるようにする。控えめと云うのは、内部が充実し、緊張しきった美しさなので、強い人ほどそう云う外貌を持つのである。さればわれわれの間では、弁舌や討論の技に長じた者に偉い人間は少ないのでありまして、政治家でも、軍人でも、藝術家でも、ほんとうの実力を備えた人は大概寡言沈黙で、己れの材幹を常に奥深く隠しており、いよいよと云う時が来なければ妄りに外に現さない。もし不幸にして時に会わず、人に知られず、世に埋もれて一生を終わるようなことがあっても、別段不平を云うのでもなく、或はその方が気楽でよいと思ったりする。このわれわれの国民性は、昔も今も変わりはないのでありまして、現代でも、平素は西洋流の思想や文化が支配しているように見えますが、危急存亡の際にあたって、国家の運命を双肩に荷って立つ人々はやはり東洋型の偉人に多いのであります。で、われわれは西洋人の長所を取って自分たちの短を補うことは結構でありますけれども、同時に父祖伝来の美徳、『良賈は深く蔵する』と云う奥床しい心根を捨ててはならないのであります」

「ここで皆さんのご注意を喚起したいのは、われわれの国語には一つの見逃すことの出来ない特色があります。それは何かと申しますと、日本語は言葉の数が少なく、語彙が貧弱であると云う缺点を有するにも拘らず、己れを卑下し、人を敬う云い方だけは、実に驚くほど種類が豊富でありまして、どこの国の国語に比べましても、遥かに複雑な発展を遂げております。たとえば一人称代名詞に、『わたし』『わたくし』『私儀』『私共』『手前共』『僕』『小生』『迂生』『本官』『本職』『不肖』などと云う云い方があり、二人称に『あなた』『あなた様』『あなた様方』『君』『おぬし』『御身』『貴下』『貴殿』『貴兄』『大兄』『足下』『尊台』などと云う云い方がありますのは、総べて自分と相手方との身分の相違、釣合を考え、その時々の場所柄に応ずる区分でありまして、名詞動詞助動詞等にも、かくの如きものが沢山ある。(中略)『である』と云うことを云いますのに、時に依り相手に依って『です』と云ったり、『であります』と云ったり、『でございます』、『でござります』と云ったりする。『する』と云うにも『なさる』『される』『せられる』『遊ばす』等の云い方がある。『はい』と云う簡単な返辞一つですら、目上の人に対しては『へい』と云う。またわれわれは、『行幸』『行啓』『天覧』『台覧』などと云う風に、上御一人を始め奉り高貴の御方々の御身分に応じて使うところの、特別な名詞動詞等を持っている。こう云うことは、外国語にも全然例がないわけではありませんけれども、われわれの国語の如く、いろいろの品詞にわたった幾通りもの差別を設け、多種多様な云い方を工夫ししてあるものは、どこにもないでありましょう」

ずいぶんと長く引用してしまったが、ここに書いてあるような、日本人のあり方については、著者だけが言っていることではないかも知れない。実際最近読んだ本にも同じような趣旨のことが書かれている。しかしそれが、日本語という言語自体の構造やあり方に反映しているものであるということは、まぁ他にあるかないかは知らないのだが、著者自身が発見したことであるのは間違いない。

科学というものがニュートンを起源として発展していくに当たり、何よりも重要だったことは、「自分」というものを自然の外側にあるものと位置付けたことなのではないだろうか。人間は自然を外側から、客観的に記述する。それが可能であると考えることにより、科学は真実というものを明らかにすることが出来るものであると見なされることとなった。

実際にそれは、物質の振る舞いについて論じるに当たってはきわめて有効であり、科学は大成功をおさめた。しかし今、人間のことばや、それを話す人間自体というものについて見ていこうとする時、大きな壁に突き当たる。いみじくも人間について何かを語ろうと思ったら、相手が自分と同じ人間であると決めるところからしか出発することは出来ない。しかしそう決めた瞬間、相手と自分の間に線を引き、相手を客観的に眺めるということは、成立しなくなってしまう。また特定の人間でなく、人間一般であっても良い。語ろうとする人間一般の中には、必ず自分が含まれていなくてはいけないのである。

今求められていることは、そのような、語ろうとする対象物自身に自分が含まれてしまうような、そういう場合の記述のあり方、それをただ主観的であるとして埒外に放り出してしまうのではなく、きちんと含みこみながらも、一般普遍の真理を目指すものであると皆が納得できるような、そのような記述の枠組みなのである。

そう考える時、日本語のあり方、伝統的な日本人のあり方というものが、一つの突破口になり得るのかもしれない。それはもちろん、ただ昔に返るということではない。今の科学のあり方を踏まえながらも、それを日本人が自分たちなりに消化しようとしていく先に、新たな展望が開けるのかもしれない。そう思えてもくるのである。

2008-05-11

今朝の読売新聞

民主党・小沢一郎党首の元秘書が、小沢党首の選挙区である岩手四区から出馬するということが書いてあった。新聞だけでは良く分からなかったのだが、何と自民党から出馬要請されたもので、「本日をもって、小沢一郎先生に挑戦することを宣言する。政策、政治手法、政治姿勢においても(小沢氏は)間違っている」と語っているとのこと。
高橋氏 衆院4区自民の出馬要請、受諾意向  : 岩手 : 地域 : YOMIURI ONLINE

小沢代表自身が立候補した場合、元秘書に負けるというのは有り得ないだろうが、雑誌などで見た所によると小沢代表は、岩手の自分の選挙区に自分以外の別の候補者を立て、自分は東京のどこかの選挙区から出馬するということを検討している節があるとの事である。元々の地盤だから岩手で勝てるのは当然として、東京でも勝てれば、小沢代表が一人で二議席を叩き出すことになる。それ自体が民主党の勝利に大きく貢献することはもちろん、さらに党首がそのような捨て身の戦法を取ってくれば、世の中に対してもアピールする力は大きく、民主党の大きな追い風にもなるだろうとの事だった。

確かにその通りだろう。小沢代表のことはぼくも昔から気になっていて、田中角栄の愛弟子として頭角を現し、若くして自民党の幹事長になったかと思ったら、東京都知事選にNHKの元アナウンサーを擁立して負けて、責任を取って幹事長を辞任、その後も自民党から政権を奪ったかと思ったら、福祉目的税を無理矢理押し通そうとして失敗、新進党は分裂、先日も福田首相と党首会談して、大連立というウルトラCを目指したが、党内の反対で頓挫、一度は党首を辞めると言ったが、結局踏み留まった。何となくいつもいい所まで行くのだが、尻すぼみで終わってしまうという印象がある。

小沢代表は昔から、「役所による規制を緩和・撤廃して、民間の力を活性化することが、これからの日本にとって必要」という持論を掲げてきていると思う。それはその通りだと思うし、先日の日銀総裁の件で、財務省出身者を二度に渡って拒否した事は、そういうこれまでの主張から考えると、筋が通っているようにも見える。それが山口の補欠選での勝利に結びついた所もあるだろう。その小沢代表が自分の政治生命を賭けて、最後の大勝負に出るとなれば、世の中は盛り上がるだろう。今回、反小沢を掲げる小沢党首の元秘書に自民党が出馬要請したというのは、そういう動きを牽制するという意味もあるのかも知れない。

今の日本の政治の状況というものは、自民党や民主党がどうした、というだけの問題ではなく、ぼくたち自身の状況のはっきりとした反映でもある。世代交代が必要であるというのは明らかだが、自民党にしても、若い安部さんが首相になったかと思ったら、あんな事になってしまったし、民主党でも前原・岡田という若い世代が党首になったが、結局続かず、上の世代に戻ってしまっている。これから自分たちが、日本が、世界が、どの様になって行かなければいけないのか、そしてそのためにはどの様にして行くのか、今問われているのはそこであり、これまでのやり方がうまく行かなくなっているのだとしたら、じゃあどうするのか、それをはっきり示す事が必要なのだろう。

「資本主義」「共産主義」というイデオロギーの対立の時代は、ソ連や東欧の共産主義国の独裁体制の崩壊で終わりを迎え、これからは自由な世界になるのかと思ったら、今度はただ経済第一主義、拝金主義になってしまっているかのようにも思える。さらに新たな独裁体制があちらこちらで生まれ育ち、中国や北朝鮮は言わずもがな、自由主義になったはずのロシアでも、またミャンマー軍事政権にしても、それはもう終わった筈じゃなかったのかと聞きたい所だが、そうではなかったらしい。結局物事を壊すだけで、新たな展望が示せない状況では、独裁体制が再生産されていくのだろう。

今日本で自民党が倒れ、民主党が政権を取ったとしても、根本的には何も変わらないだろう。同じことが違った人によって繰り返されるだけだ。一時政策新人類という人たちが一世を風靡して、互いが自分の政策を主張し、それを戦わせるという政治のあり方が標榜されたことがあったが、まぁそれが米欧のやり方であるとして、それをただ真似れば新しい時代に進めるのかと言うと、そんなに簡単なものではないだろう。今自分たちが置かれている状況を本当に受け止め、それを踏まえながら、新たに一歩踏み出していく、そういう道筋が見えていかないといけない。

大変困難な課題だが、それを見つける事が、ぼくたちの世代の責任であるのだと思う。

2008-05-08

蒲田



蒲田というのは憎めない街で、まぁ住めば都というけれど、ぼくは十年以上ここに住んで、大変居心地が良い。

蒲田をひとことで言うならば、「ガシャガシャした街」である。駅前には古い雑居ビルが立ち並び、路地裏には小さな飲み屋が軒を連ねている。飲食店の数は東京では新宿に次いで第二位だそうで、さらに飲み屋だけカウントすると、東京で第一位という噂もある。キャバクラの類が多く、以前は夜九時頃になると駅前にキャバ嬢がずらっと並び、客引きをしていた。東京都の条例改正以後はさすがにその光景は見られなくなったが、それでも裏通りは客引きが全盛である。

韓国人や中国人の経営する飲食店やマッサージ店も多い。そういう場所で働く人たちを相手とした韓国料理や中国料理の店も多く、そういう所は大体裏通りや雑居ビルの上の方の目立たない場所にあるのだが、客は日本人の方がむしろ少ない位で、値段も安く、しかも大変うまい。名古屋でも色々探したが、こういう店はほとんど見当たらなかった。日本人の経営する店も色々特色がある所が多く、カレーにしてもラーメンにしても、とんかつにしても、チェーン店ではなく、個人経営している店に名店が多い。

まぁここまで書いたようなことは東京のどこにもありそうなことで、それほど珍しがる事でもないかも知れないが、蒲田の特徴はさらに、「目立った大きな店がない」という所にある。

例えば家電量販店。どこの駅にもビッグカメラとかさくらやとか、ちょっとした駅の駅前には必ずあるものだが、蒲田にはない。駅前にはキシフォートという蒲田ローカルの店があるだけで、ラオックスの小さ目の店が、アーケードをちょっと行った所にあるだけである。

映画館も、やはりアーケードをずっと行った先に小さなものがあるのみ。蒲田行進曲で何となく映画の街というイメージが広まったが、全くそんなことはない。洒落たファッションビルもない。以前丸井があったが、これも撤退した。ファミリーレストランは、以前は駅の東西にジョナサンが一軒ずつあったきりだったのが、最近やっと、デニーズが出来た。

そんな中、唯一大きな、と表現できるのは駅ビルで、東急蒲田駅の上には東急プラザがある。そしてJR蒲田駅の上には、以前はサンカマタとパリオという、超ローカルな駅ビルがあったのが、今回、グランデュオというものに建て替えになった。


蒲田グランデュオ

サンカマタとパリオに入っていた店をすべて追い出して、蒲田駅の改修も含めた大工事だったので、どれだけのものが出来るのかと思ったが、実際見てみると何とも中途半端で、きれいにはなっているが、イマイチ垢抜けない、小さな店がガシャガシャとあるという印象は、以前の駅ビルとあまり変わらない。まぁそれはそうで、前に入っていた店をそうそう無碍には出来ないだろうから、仕方ないのだろう。その割にはJRの改札の横にあった、めん亭という立ち食い蕎麦屋の名店をなくして、結局JR蒲田駅には立ち食い蕎麦屋がなくなったので、やることがいちいち中途半端なのである。

蒲田は上ると隣の駅が大森、下ると川崎である。大森は西側に山王という超高級住宅地を控え、また東側も比較的落ち着いた住宅街が広がっている。平和島競艇場があるので、多少柄の悪いおじさんが行き来はするが、全体としてハイソで、落ち着いた雰囲気がある。川崎は京浜工業地帯の中核、恐らく日本中から集まってきたであろう大工場の労働者を中心とした街で、ガシャガシャしていると言えば蒲田の比ではないのだが、それはそれで徹底していて、駅の東側には堀の内というソープ街があるし、また最近駅の西側に、東芝の工場が移転した跡地にラゾーナ川崎という巨大ショッピングモールが出来た。これは何もなかった所にいきなり出来たモールだから、何のしがらみもなかっただろう、入っている店もかなり厳選されていて、蒲田グランデュオとは桁が二つも三つも違う感じがする。これから人をどんどん吸い寄せていくのだろうなと思わせる。

蒲田は駅の南側には町工場の一帯が広がっていて、ここは世界に誇る技術を持っており、iPodのあのピカピカのボディーを磨くのは蒲田の町工場だそうだが、町工場だからそこで働く職人や作業員は、近くに家族と住んでいる例も多いだろう。北側には東急池上線、目黒線沿いに落ち着いた住宅地が広がっていて、ちょっと先には田園調布もあり、どちらかと言えば高所得者が住んでいる。このように蒲田は駅の南北で住んでいる人の層が大きく異なっており、大森や川崎のように、どちらかにシフトするというわけにも行かないのだろう。それがこの街のなんとも中途半端な感じの原因なのだと思う。

しかし近隣の住民は恐らく、そんな中途半端な蒲田が好きなのだ。休日ともなれば街中に人が出て、ローカルな店の数々を眺め、楽しんでいく。夜は夜で、地元のおやじさん達で、飲み屋は賑わう。外国の人たちも、それなりに居場所を見つけている。特別素晴らしい物はないが、あまり足りない物もない。蒲田はそういう平和な場所なのだと思う。

2008-05-07

『文章読本』 谷崎潤一郎著

この本、名前は文章読本で、一般の人が文章をどのように書いたら良いのかということを分かり易く示すのが目的であるが、それに留まらない。きわめて優れた近代文明批判の書となっている。

まず冒頭、文章より手前、言語そのものの性質について明らかにする所から始まる。日本古典の例も引きながら、日本の言語が西洋の言語とは異なり、語彙が少ないこと、西洋語にあるような文法は存在しないこと、という特徴を持つことが語られる。西洋のように言語で一から十まで説明してしまうということではなく、六か七くらいに留めておき、あとは相手に見つけさせる、そういうやり方を日本の国民は伝統的にしてきているのであり、その国民性が言語自体の性質にも表れているのだと。明治以来、日本人は西洋の長所を取り入れるだけ取り入れてきたけれど、これ以上取り入れることはむしろ害を及ぼすことになり、今日の急務は長所を取り入れることではなく、取り入れ過ぎたために生じた混乱を整理することである。そのことが一般論としてではなく、言語および実際の文章というものに即して語られていく。主張している内容について全く同感で、しかもそれを論ずるやり方が具体的かつ高度で、舌を巻くしかない。さすが日本を代表する文豪だと感じ入った。 (さらにもちろん、本来の目的である文章の書き方については、目から鱗が何枚も落ちた)。

この本が書かれたのは昭和九年。ぼくの親が生まれた頃である。それから日本はどうなって行ったのか。太平洋戦争に突入し、敗戦。戦後の復興から高度経済成長へと続き、バブルの崩壊。そして今に至っている。西洋近代文明をただ取り入れるのではなく、それを踏まえながらも日本独自のあり方を見つけなければいけないという警句は、生かされたのだろうか。いや、恐らく混乱はさらに深まり、どう整理したら良いのかすら、分からなくなってしまったという所に来ているのではないかという気がする。

近代文明に対する批判は、古くはニュートンの光学に対する、ゲーテの批判が有名である(ゲーテ色彩論)。ニュートンは光が異なった屈折率の光が合成されたものであり、異なった屈折率の光はそれぞれ、人間の感覚器によって異なった色として認識されるとした。これは自然を機械論的に理解するという近代思考の代表例であるわけだが、これにゲーテは噛み付いた。ゲーテの色彩論についてはぼくは詳しくないのだが、ニュートンの色彩論の圧倒的な分かり易さに比べると、分かり難いということは言えるだろう。その分かり難さの故、世間一般からはほとんど省みられることなく、今日に至っているのだろう。

そのような例は、枚挙に暇がないだろう。近代文明が産声を上げた時から今に至るまで、自然を機械のように捉え理解するということに対する異議は唱え続けられてきた。しかし未だ暴走トラックは止まることなく、断崖絶壁の淵に向かって爆走しているという所なのではないかと思う。

未来はそれほど明るくはない。しかし出来る事はあるはずだと思う。

中公文庫刊。600円。


文章読本 (中公文庫)

2008-05-06

しょうゆ焼きそば

焼きそばにソース、使われるわけなのだが、あれってどうなのだろう?ぼくは個人的にはどうもおいしさが分からず、しょうゆを使う。とんかつにもしょうゆ。お好み焼きはほとんど食べない。

ソース、正確に言うとウスターソースは、ウィキペディアによれば、1890年、イギリスはウスターシャー州のとある貴族がインドからソースのレシピを取り寄せ、薬剤師の二人に作らせたことが始まりだと言われている。アンチョビを主原料としたものだったそうだが、どうもあまりおいしくなかったみたいで、樽に入れたままどこかに放置されていた。ところがしばらく経ってその放置されたソースを味見してみたら、これが熟成が進んで、とてもいける。それでは、ということで商品化されたとのこと。それから世界中に広まり、主に料理の隠し味として使われた。

1890年といえば明治23年、程なく日本にも輸入され、それから独自の発展を遂げていったらしい。銀座の洋食屋煉瓦亭が、とんかつにドミグラスソースをかけていたのを、ご飯に合うようにとウスターソースをかけるようになったそうだが、アンチョビが主原料で魚醤のようなものだったイギリスのウスターソースにたいして、日本のウスターソースは果物と野菜、スパイスが主原料、本家イギリスとはまったく違うものとして発展していったとのこと。日本人は洋食にはウスターソース、と思っているところがあるかも知れないけれど、だいたいまず洋食というもの自体、西洋の料理そのものではなく、それを取り入れ、日本風にアレンジしたものであるわけだし、さらにそこで使われるソースも、やはり日本独自のものだということを考えると、不思議というか、面白い。

まぁそういうわけで、ウスターソースは色々面白いのだけれど、ぼくはあまり使わない。焼きそばもしょうゆ。ちなみに焼きそばは圧倒的にしょうゆのほうがおいしいと思うのだけれど、どうなのだろう?


しょうゆ焼きそば(ねぎ入り)

作り方としては、油でまず肉をいためる。やはり豚肉。細切れとか。肉の色が変わったら、そこに長ねぎを斜めに切ったものを投入。さっと炒めたら、そこに日本酒としょうゆを入れる。これは別の器にあらかじめ混ぜておいたほうが良いと思うけれど、日本酒は結構たくさん、どぼどぼどぼ、という感じで入れる。しょうゆは、どぼ、という感じだけれど、だいたい量を見て、常識で判断すれば分量は分かる。分からなかったら少なめにして、後で塩を足せば良い。ということでこの日本酒としょうゆを豚肉とねぎを炒めたところにじゃー、っと入れ、ちょっとかき混ぜたら焼きそばの麺を投入。よくほぐしながら炒めて、日本酒としょうゆの味を麺に吸わせるようにして、最後に麺の味を見て、塩気が足りなかったら塩を追加し、軽くこしょうを振って出来上がり。

麺を入れる前にしょうゆを入れるのがポイントで、そうしないと肉に味が染みこまない。酒としょうゆのほかに、鶏がらだしの素とか、オイスターソースとか、にんにくとかしょうがとかを入れてもいいのだけれど、入れなくても十分おいしい。