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2008-05-12

『文章読本』 続き

谷崎潤一郎著『文章読本』を再読。これから自分がどこへ向かって行ったら良いのか、この本は教えてくれているような気がするのである。

一つには文章の書き方について、目から鱗が落ちるようなことがいくつもある。文章を書くとき、一つの文は出来るだけ短い方が良いと、何となくそう思い込んでいる様な所があるのではないだろうか。しかし著者は、
「今日は短かいセンテンスが流行る結果、(中略)混雑を起こすことなしに、幾らでも長いセンテンスが書き得ることを、忘れている人が多いのではないかと思いますので、特にそう云う文章の美点を力説したいのであります」
と言う。源氏物語に代表される、日本の伝統的な文章の書き方の一つは、敬語を使うことにより主格を省略したり、またセンテンスの終わりが際立たないように工夫をしたりすることで、センテンスの切れ目をぼかすようにする。それは「センテンスの切れ目がない、全体が一つの連続したものであると考えるのが至当」であり、「これこそ最も日本文の特長を発揮した文体」なのである。

著者は「文法に捉われるな」と繰り返し言う。文に主語がなくてはいけないとか、過去のことは過去形で言わなければならないとか、そういうものは「大部分が西洋の模倣でありまして、習っても実際には役には立たないものか、習わずとも自然に覚えられるものか、いずれか」である。「日本語には明確な文法がありません」のであり、「日本語を習いますのには、実地に当たって何遍でも繰り返すうちに自然と会得するより外、他に方法はないと云うのが真実」なのだが、それではなぜ学校で日本文法を習うかと言えば、
「今日の学生は小学校の幼童といえども科学的に教育されておりますので、昔の寺子屋のような非科学的な教え方、理屈なしに暗誦させたり朗読させたりするのでは、承服しない。第一頭が演繹や帰納に馴らされておりますので、そう云う方法で教えないと、覚え込まない。生徒がそうであるのみならず、先生の方も、昔のように優長な教え方をしてはいられませんから、何かしら、基準となるべき法則を設け、秩序を立てて教えた方が都合が良い。で、今日学校で教えている国文法と云うものは、つまり双方の便宜上、非科学的な国語の構造を出来るだけ科学的に、西洋流に偽装しまして、強いて『こうでなければならぬ』と云う法則を作ったのであると、そう申してもまず差支えなかろうかと思います」
なのである。

一つの語を漢字で書くのか平仮名で書くのか、漢字で書く場合どのような漢字を当てるのか、送り仮名はどうするのか、句読点はどのように打つのか、という問題についても、「到底合理的には扱いきれないもの」であり、「私は(中略)近頃は全然別な方面から一つの主義を仮設しております。と云うのは、それらを文章の視覚的並びに音楽的効果としてのみ取り扱う。云い換えれば、宛て字や仮名使いを偏に語調の方から見、また、字形の美感の方から見て、それらを内容の持つ感情と調和させるようにのみ使う、のであります」と言う。その他にも文章を書こうとする時に迷いがちないくつものことが、すっきりと納得できるように解決されていく。

著者はこの本で一貫して、「品格」を重んじること、その第一として、「饒舌を慎むこと」を、繰り返し強調する。
「われわれはの国民性はおしゃべりではないこと、われわれは物事を内輪に見積もり、十のものなら七か八しかないように自分も思い、人にも見せかける癖があること、そうしてそれは東洋人特有の内気な性質に由来するものであり、それをわれわれは謙譲の美徳に数えている」

「西洋にも謙譲と云う道徳がないことはありますまいが、彼等は自己の尊厳を主張し、他を押し除けても己の存在や特色を明らかにしようとする気風がある。従って運命に対し、自然や歴史の法則に対し、また、帝王とか、偉人とか、年長者とか、尊属とか云うものに対しても、われわれのようには謙譲でなく、度を超えることを卑屈と考える、そこで、自己の思想や感情や観察等を述べるにあたっても、内にあるものを悉く外へさらけ出して己の優越を示そうとし、そのために千言万語を費やしてなお足らないのを憂えるが如くでありますが、東洋人、日本人や支那人は昔からその反対でありました。われわれは運命に反抗しようとせず、それに順応するところに楽しみを求めた。自然に対しても柔順であるのみならず、それを友として愛着した。従って物質に対しても彼等のようには執着しなかった。またわれわれは己の分に安んじ、年齢の点で、智能の点で、社会的地位や閲歴の点で、少しでも自分に優っている人を敬慕した。そう云う風であるからして、なるべく古い習慣や伝統に則り、古の聖賢や哲人の意見を規範とした。そうしてたまたま独得の考えを吐露する必要のある時でも、それを自分の考えとして発表せずに、古人の言に仮託するとか、先例や典拠を引用するとかして、出来るだけ『己れ』を出し過ぎないように、『自分』と云うものを昔の偉い人たちの蔭に隠すようにした。ですからわれわれは口で話す時も文章に綴る時も、自分の思うことや見たことを洗い浚い云ってしまおうとせず、そこを幾分か曖昧に、わざと云い残すようにしましたので、われわれの言語や文章も、その習性に適するように発達した」

「内輪とか控えめとか、謙遜とか云いますと、何か卑屈な、退嬰的な、弱々しい態度のように取られますけれども、西洋人は知らず、われわれの場合は、内輪な性格に真の勇気や、才能や、智慧や、胆力が宿るのである。つまりわれわれは、内に溢れるものがあればあるほど、却ってそれを引き締めるようにする。控えめと云うのは、内部が充実し、緊張しきった美しさなので、強い人ほどそう云う外貌を持つのである。さればわれわれの間では、弁舌や討論の技に長じた者に偉い人間は少ないのでありまして、政治家でも、軍人でも、藝術家でも、ほんとうの実力を備えた人は大概寡言沈黙で、己れの材幹を常に奥深く隠しており、いよいよと云う時が来なければ妄りに外に現さない。もし不幸にして時に会わず、人に知られず、世に埋もれて一生を終わるようなことがあっても、別段不平を云うのでもなく、或はその方が気楽でよいと思ったりする。このわれわれの国民性は、昔も今も変わりはないのでありまして、現代でも、平素は西洋流の思想や文化が支配しているように見えますが、危急存亡の際にあたって、国家の運命を双肩に荷って立つ人々はやはり東洋型の偉人に多いのであります。で、われわれは西洋人の長所を取って自分たちの短を補うことは結構でありますけれども、同時に父祖伝来の美徳、『良賈は深く蔵する』と云う奥床しい心根を捨ててはならないのであります」

「ここで皆さんのご注意を喚起したいのは、われわれの国語には一つの見逃すことの出来ない特色があります。それは何かと申しますと、日本語は言葉の数が少なく、語彙が貧弱であると云う缺点を有するにも拘らず、己れを卑下し、人を敬う云い方だけは、実に驚くほど種類が豊富でありまして、どこの国の国語に比べましても、遥かに複雑な発展を遂げております。たとえば一人称代名詞に、『わたし』『わたくし』『私儀』『私共』『手前共』『僕』『小生』『迂生』『本官』『本職』『不肖』などと云う云い方があり、二人称に『あなた』『あなた様』『あなた様方』『君』『おぬし』『御身』『貴下』『貴殿』『貴兄』『大兄』『足下』『尊台』などと云う云い方がありますのは、総べて自分と相手方との身分の相違、釣合を考え、その時々の場所柄に応ずる区分でありまして、名詞動詞助動詞等にも、かくの如きものが沢山ある。(中略)『である』と云うことを云いますのに、時に依り相手に依って『です』と云ったり、『であります』と云ったり、『でございます』、『でござります』と云ったりする。『する』と云うにも『なさる』『される』『せられる』『遊ばす』等の云い方がある。『はい』と云う簡単な返辞一つですら、目上の人に対しては『へい』と云う。またわれわれは、『行幸』『行啓』『天覧』『台覧』などと云う風に、上御一人を始め奉り高貴の御方々の御身分に応じて使うところの、特別な名詞動詞等を持っている。こう云うことは、外国語にも全然例がないわけではありませんけれども、われわれの国語の如く、いろいろの品詞にわたった幾通りもの差別を設け、多種多様な云い方を工夫ししてあるものは、どこにもないでありましょう」

ずいぶんと長く引用してしまったが、ここに書いてあるような、日本人のあり方については、著者だけが言っていることではないかも知れない。実際最近読んだ本にも同じような趣旨のことが書かれている。しかしそれが、日本語という言語自体の構造やあり方に反映しているものであるということは、まぁ他にあるかないかは知らないのだが、著者自身が発見したことであるのは間違いない。

科学というものがニュートンを起源として発展していくに当たり、何よりも重要だったことは、「自分」というものを自然の外側にあるものと位置付けたことなのではないだろうか。人間は自然を外側から、客観的に記述する。それが可能であると考えることにより、科学は真実というものを明らかにすることが出来るものであると見なされることとなった。

実際にそれは、物質の振る舞いについて論じるに当たってはきわめて有効であり、科学は大成功をおさめた。しかし今、人間のことばや、それを話す人間自体というものについて見ていこうとする時、大きな壁に突き当たる。いみじくも人間について何かを語ろうと思ったら、相手が自分と同じ人間であると決めるところからしか出発することは出来ない。しかしそう決めた瞬間、相手と自分の間に線を引き、相手を客観的に眺めるということは、成立しなくなってしまう。また特定の人間でなく、人間一般であっても良い。語ろうとする人間一般の中には、必ず自分が含まれていなくてはいけないのである。

今求められていることは、そのような、語ろうとする対象物自身に自分が含まれてしまうような、そういう場合の記述のあり方、それをただ主観的であるとして埒外に放り出してしまうのではなく、きちんと含みこみながらも、一般普遍の真理を目指すものであると皆が納得できるような、そのような記述の枠組みなのである。

そう考える時、日本語のあり方、伝統的な日本人のあり方というものが、一つの突破口になり得るのかもしれない。それはもちろん、ただ昔に返るということではない。今の科学のあり方を踏まえながらも、それを日本人が自分たちなりに消化しようとしていく先に、新たな展望が開けるのかもしれない。そう思えてもくるのである。