裏通りのあまり目立たない場所にあるのだが、僕がこの店がとてもいいと思うのは、マスターがとにかく料理が好きで、料理のことを四六時中考えていて、そういう風にして生計が立てられるのがこれほど幸せなことはないと思っている、ということが、ひしひしと伝わってくることなのだな。
そしてランチを頼んでみた。
今日はにんじん入り。
トウモロコシやカボチャ、サツマイモくらいまでは聞いたことがあるが、お米のポタージュというのは珍しい。
マスターはたぶん、いろいろテーマをもって料理について考えていると思うのだが、和風の食材や料理法を、どう洋食に活かせるのか、ということは、たぶん中心テーマなのだ。
和食といえばお米だろうということで、これをポタージュに使ってみたということなのじゃないかと思うのだが、これはうまいかまずいかということよりも、そういうマスターの挑戦が微笑ましい。
だいたい米を洋食に使うことで、何か利点があるのか、変わっているということはたしかにあると思うが、それでおいしくなるのかとか、お客が増えるのかとか、考えてみると、そういう計算の結果からは、あまり利点があるとも思えない。
しかしそんなことは関係なく、ここのマスターは、お米を洋食に使ってみたいのだな。
お米を洋食に使うというテーマが、好きなのだ、マスターは。
そういう人、僕は好きなのだな。
これも完全に、追求している。
もちろんきちんとおいしいのだが、それよりこのマスターの追求の姿勢に、笑いがこぼれ、心が暖かくなる。
これどう考えても、夜寝ながらとか、ああでもないこうでもないと、いろいろ考えるのだと思うのだよな。
それで当然、試しに作って、試食してみたりもしないといけないわけで、かなりの時間と労力をかけているのはまちがいない。
その時間と労力をこの700円のランチにかける価値があるのかとか、その努力の方向は、将来の成功にむけ正しいのかとか、そういう一般の経営戦略的な問いは、ここにはまったく存在しない。
自分がやりたいからやる、作りたくてたまらないから作る、そういう純粋無垢な少年のような精神を、つらぬいているのだな。
食べ物屋とは、どんなものでもけっきょくは、店主の精神とか、人格とか、そういうものを愛でるところに楽しみがあるものだと思う。
そういう意味でこの店主の純粋な精神は、敬してたてまつる価値があるものなのだ。