母の弟で、僕は小さい頃から、とてもかわいがってもらった。
母は7人兄弟のいちばん上で、兄弟たちから「ねえちゃん、ねえちゃん」と呼ばれているのだが、弟3人のうち長男は俳優座で演出をしており、今日会った次男は、IBMで営業や人事の部長をやったような人、三男は服飾関係の仕事をしており、それぞれがバラバラに、自分の人生を歩んでいておもしろい。
祖母にはもう30年ほど前に、これで最後になると思うからと言われて会ったおぼえがあるのだが、もう97歳にもなるのに、まだぴんぴんと元気にしているのだそうだ。
仕事をやめた僕を心配し、いまの様子を根掘り葉掘り聞かれるのかと思ったら、そういうわけでもなく、叔父はほとんどの時間、自分の話をし、僕が話を始めても、またすぐ話を自分のほうへもっていくという調子だったから、どうやら僕が、人の話が聞けないというのは、血筋だったのだな。
今日初めてわかった。
まあしかし、僕が元気でやっているというのは、顔を見て分かってくれたみたいで、昼間からうまいものを食って酒を飲み、それも全部おごってもらって、楽しい時間を過ごした。
叔父のこだわりは、そば屋では常温を飲むのだそうだ。
僕はお猪口でチビチビいったが、叔父はコップで飲んでいた。
甘辛い味で、酒のあてにはうってつけ。
あめ色にきれいに色づいて、煮込んだように見えるのだが、なんと照り焼きなのだ。
ふっくらとして大変うまい。
このかまぼこは、ふんわりとやわらかくてうまかった。
にしんというのは、素朴な食べ物だよな。
生魚が入らなかった京都では、ふつうの人は、干物をおもに食べてきたのだろうが、身欠きにしんは他の干物とちがって、煮て食べられるから、おふくろの味的な、独特な地位を確立したということなのだろう。
さすが京都、なかなか芸が細かいな。
鮭ごはんというのは、単に白めしに鮭のそぼろがかかっているという話だが、このかつお、にしん、鮭、さらにいっしょに添えられた昆布の、魚介4種混合競技が、またしみじみとうまかった。
京都の料理というと、華やかなイメージで、実際高級料亭などでは、そういうものが出てくるのかもしれないが、精進料理にしても、このにしんそばにしても、新鮮な魚介が手に入らないという、おいしいものを食べるということでは不利な条件のもと、手に入るものを使いながらも、できる限りの工夫を凝らし、少しでもおいしく食べてもらいたいという、気持ちを込めに込めた、素朴な人間の真心がモロにあらわれた、ていねいに細工された工芸品のような食べ物なのだよな。
京都の人はイケズだと、一般に言われたりもすると思うが、それは他人にたいしてこれだけ気持ちを込める人たちが、それをわからず、受け取れない人に傷付く気持ちの、裏返しということなのじゃないかという気がする。