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2010-10-20

郡司ペギオ幸夫「生命壱号」(再々)

郡司ペギオ幸夫「生命壱号」、また読んだ。何度も言うんだが、ほんとに面白い。科学者が一般向けに、ここまで本気で書いた本というのは、なかなかないのじゃないかな。内容はそれなりに難しいのだが、それは当然のことで、ひとりの科学者が本気で考え、実践している研究について、その内容そのものを伝えようとしているのだ。ふつうは科学者は、自分の研究内容はとりあえず置いておいて、それとはべつに、一般の人向けの、一般的な内容を書いたりするものだが、この本は違う。まさに湯気が出そうな、郡司さんの最新の、全力の研究内容が網羅されている。それが素人がすぐ解るような、簡単なものであるわけがないのだ。

しかし郡司さんは、これを読めば読むほど、その難しい内容を、一般の人にも何とか解るようにと、細心の注意を払い、できる限りの努力をしていることが、ひしひしと伝わってくる。基本的にこの本は、予備知識なしで読むことができるようになっている。集合論などの、複雑な数学も、とくに後半になると駆使されるのだが、それについてもひとつひとつ、ていねいに説明されている。本の冒頭には、全体の流れが説明されていて、各章、各節の初めには、その章や節の概要が、最後にはまとめが、かならず入っている。重要なことは、同じと思えることでも何度でも繰り返し説明される。この本に対する郡司さんの思い入れの深さが、よく伝わってくる。

この本を読んで、僕がいちばん面白いと思うこと、僕を魅了して離さない理由、それは郡司さんが、「全体とは何か」ということを、徹底して追求し続けているというところにある。この問いは僕自身も、これまで考え続けてきたことだからだ。

どんなものにも、部分と全体と、両方の側面が存在する。人間の組織というものを考えた場合も、それはひとりひとりの人間によって構成されているのと同時に、それは全体として、何らかの目的なり目標なりを持ち、存続するということのために、様々な活動を行う。その全体というものは、どのようなものであるのか。独裁者が運営する組織の場合、それはとても解りやすく、全体はあくまで、独裁者の心の中だけにある。独裁者の意思が、全体の意思だ。組織の、独裁者以外の人たちは、独裁者が想定する全体の範囲の中だけで動く。それを外れることは許されない。

しかし一方、人間のからだという、複雑極まりない、これもやはりひとつの組織であるというものを考えた場合、人間の細胞の中で、独裁者に相当する、すべての意思決定を行ない、すべてを指示するものは存在しない。脳がそういうものであるかという気がするが、実は脳だって、からだの他の部分と同様、もとはひとつの受精卵から始まっているのであって、受精卵が分裂し、何十兆個という数の細胞からでき上がる、ひとつのからだになっていく過程では、どの細胞が指示をするということもなく、お互いが相互にやり取りをしながら、徐々に役割分担がされていく。脳というものも、そういう役割のうちのひとつなのであって、もちろんある中枢であるには違いないが、すべてを指示する絶対的な存在ではない。

全体というものが、独裁者という、独裁者以外のすべての国民や構成員から見れば、外部の者によって規定されるのではなく、全体が部分から切り離れず、その時々のすべての部分のあり方に応じて、つねに生み出し続けられていくようなあり方、それこそが生命の組織論であり、それはまさに僕の最大の興味であると同時に、人類全体にとって今、最も必要とされているものであると僕は信じる。この「生命壱号」を読んでいると、それを同じように郡司さんも思っていると、ことばの端々から感じるのである。

郡司さんはそれを、「砂山のパラドックス」というものとして表現する。ここにひとつの砂山がある。それは無数の砂粒からできたものであるのと同時に、ただ砂粒であるというだけではない、「ひとつの砂山」という全体でもある。砂山は生き物ではないのだが、ここでも部分と全体の問題は、同じように存在する。砂山というものは、無数ともいえる砂粒からできているから、そのうちひとつの砂粒を取り除いたとしても、それは依然として砂山のままだ。であるとすれば、その砂粒を取り除くということを、無数に繰り返せば、最後には、ひとつの砂粒だけが残り、しかしそれは依然として砂山であるという、まったくナンセンスなことになる。

これまでの科学では、そのようなナンセンスが起こるのは、もともと「砂山」などという、実際に存在しもしない、人間の認識の中だけにあるものを、あたかもそこにあるかのごとく考えたことに原因があるのであって、そんな面倒くさいものは考えないようにしようと、そういうことにしてきた。実際砂山とは、どのくらい大きければ砂山と呼べるのか、どんな形をしたものなのか、などということについて、甚だあいまいで、はっきりしないものだ。だから最後には、砂粒がすなわち砂山であるなどと、訳の解らないことになる。

しかし郡司さんは、全体というものが、そのようにあいまいで、場合によっては部分と切り分けられなくなるような、はっきりとしないものであるからこそ、生き物がこれだけ多様なあり方を獲得できたのであると考える。全体を、そのような、はっきりしないものとして、部分と対置させること、それは具体的な操作として言えば、全体は部分とは異なった、独立したものであるようでありながら、同時に部分と切り分けができない、全体なのか部分なのかわからない領域を作るということ、そこにこそ、生命の生命たる本質があるのだと考えた。

生命壱号というのは、とても簡単なコンピュータ上のシミュレーションだ。オセロのようなもので、黒石と白石があって、初めの状態は、白石に囲まれて、黒石が固まって置かれている、そういうところからスタートする。黒石の集合体としての全体は、白石に囲まれているということによって、規定されている。

ここで、黒石ひとつひとつという部分を、確認していく操作が導入される。黒石の集合体という全体が、そのまわりを囲んでいる白石に対するものとして規定されたように、黒石のひとつひとつは、白石のひとつひとつに対するものとして規定され、具体的には、黒石集合体を囲む白石のうち、ランダムな順番で、黒石と接している白石が、黒石と位置を交換し、さらに黒石集合体の中に入った白石は、そのまままわりの黒石と、ランダムに位置を交換していくことにする。このようにして白石が、黒石集合体の黒石と、位置を交換していくことによって、黒石ひとつひとつという部分が確認されるというような、そういう操作を、コンピュータ上で実行する。

ただしこれだけだと、黒石集合体は白石に侵食されて、徐々に分断され、ばらばらになり、全体は崩壊してしまう。ところが白石が、黒石集合体の中を進んでいくとき、どの黒石と位置を交換したかということを記憶して、一度位置を交換した黒石とは、以降は位置を交換しないということにすると、話はまったく変わってくる。白石が集合体の中を進んでいっても、集合体はすんでのところで崩壊をまぬがれ、形は様々に変化し、まとまって固まっていたり、一本の紐のようになったり、ブロッコリーのような枝状になったりするのだが、ばらばらになることを踏みとどって、ひとつの全体のままでい続ける。それは実際に、粘菌のような生き物のふるまいと、見た目にもそっくりだし、さらにそこから、いくつかの統計的な性質を導きだしてみると、それは実際に粘菌から同じように導きだした数値と、まったく同じ傾向を持つ。

それはこのコンピュータ上の操作において、白石が黒石と位置を交換する際に、どの黒石と位置を交換したかということを、記憶するという一点によるのだ。そのことによって、位置を交換するという、部分を確認する操作の中に、「これまでに位置を交換した黒石の全体」という、全体が紛れ込んでしまうことになる。全体と部分とがはっきりと切り分けられず、部分だったはずのもののなかに、全体が存在してしまうということになるのだ。そんな簡単なことで、コンピュータ上に、実際に統計的な数値で比較しても、生き物と同じ性質を持ったものを作り出すことができる。なんと面白いことではないか。


アマゾン「生命壱号」へのリンク


2010-10-18

【おすすめグッズ】 かまどさん


めしは炊飯ジャーで炊くというのが、ほとんどの人がしていることだと思うのだけれど、めしというのは日本の食事にとって、基本中の基本なのだから、炊飯ジャーごときにすべてを任せてしまうのではなく、そのくらい自分で鍋で炊いてみたらどうかと僕は思う。今の日本で、ある日電気がなくなってしまったら、みんなどうするのだろう。米すら炊けない人が、そこら中にあふれ返ることになるわけだ。それって日本人としてどうなんだ。

と訳の解らない主張から始まったわけだが、実際鍋でコメを炊くのはまったく難しいことはなく、水加減にしても火加減にしても、多少違ったって大きく失敗することはない。どんな鍋でも、それなりのめしは炊けるが、しかしやっぱり土鍋、しかも米炊き専用の土鍋は、炊飯ジャーなど比較にならない、圧倒的においしいめしが炊ける。

その米炊き専用の土鍋、僕が使っているのは「かまどさん」。東急ハンズで、ほかの米炊き用の土鍋が、1合炊きなら2,000円~3,000円で買えるところ、6,000円もしたのだが、どうしても欲しくなって、買ってしまったのだ。

ほかの土鍋と何が違ったかというと、鍋の重さ。厚みがものすごくて、たぶん2センチほどはある。そのおかげで、まず鍋が熱を、これでもかとばかりにたっぷりと蓄えてくれるのだ。実際この間テレビで見たが、炊飯ジャーもふくめ、金属の鍋だと、温度が150度ほどまでしか上がらないところ、土鍋は250度ほどまで上がるのだそうだ。そのため米が、ふっくらとやわらかく炊ける。

しかしそれだけではなく、かまどさんは、この土鍋の厚みが、火を止めたあと、余分な水気を吸い取ってくれる。昔だったら釜からおひつに移すことによって得られるような、そういう効果があるのだ。だからやわらかいのだけれど、水っぽくない、表面は乾いていながら、中はふっくらという、死ぬほどうまいめしが炊けるというわけなのだ。僕このかまどさんで炊いためし、人生の中で、これまで食べたどのめしよりうまかった。

炊き方は、ほかの土鍋よりむしろ簡単。水加減をして、しばらく置いたら、中火にかけて、そのまま待つこと十数分、フタの穴から蒸気が吹き始めて、1分後に火を止める。あとは15分、そのまま置いておくだけ。

炊飯ジャーを持っている人だって、普段はそちらを使っても、休日などに、ほんとにおいしいめしが食べたいときは、かまどさんを使うという風にしたって悪くない。もちろん1合炊きだけじゃなく、2合炊きと3合炊き、それに5合炊きも売っている。


2010-09-16

レッド・ツェッペリンDVD

僕はこのブログに、レッド・ツェッペリンについての中途半端な文章を、何度も書いていて、まあこんなのは、レッド・ツェッペリンを知らない人にとっては、あまり関係ないことだろうけれども、僕にとっては、ツェッペリンは神みたいな存在で、というのは、高校以来、今にいたるまで、聞き続けていて、いまだに最高にかっこいいと思ってしまう、なんでそんなにいいと思うのか、自分なりに解明したいと思うのだけれど、どう説明しても、汲み尽くされた感じがしない、そういうバンドなのだ。

レッド・ツェッペリンDVD」は、2003年、ツェッペリンが解散してから20年以上たってから発売された、ツェッペリンの最初期から、最後期までのライブの模様を網羅したDVDで、前に一度買ったのだが、バンドをやっている息子にやってしまって、でもやはりまた見たくなったので、あらためて買い直したのだ。
Amazonで買ったのだが、新品がもう売っていなくて、中古品だけだった。
でもDVDは、キズでもついていない限り、中古品でも画質は変わらないから、安い分よかったが。

2枚組になっていて、1枚目に、1970年という、ツェッペリン最初期のライブの模様が、登場からアンコール終了まで、全編にわたって収録されているのだが、何といってもこれが圧巻。
やはりツェッペリンは、僕は最初期が、一番いいと思うのだよな。
ロバート・プラントは、ある時期から喉を痛めてしまって、売り物だった高音が、まったく出なくなってしまったし、ビッグネームになって以降は、演奏が余裕をかましている、というところもあって、それはそれで、ファンとしては味わうべきところもあるのだが、それよりは、ほとんど世の中に挑戦しているかのような、ガリガリとした音をまっすぐぶつけてくる、デビューから2、3年くらいのあいだが、僕はやっぱり好きなのだ。

今回またこのDVD、最初期のライブの模様をあらためて見て、見ながらもう、あまりにかっこよくて、何度も泣いてしまうのだが、なんでそんなにかっこいいのかということについて、今までは気づかなかった、しかしとても重要なことに、気付いたのだな。
ツェッペリンは、演奏の途中で、何度も止まるのだ。
これがふつうのバンドとは、かなり違っていて、ふつう、曲と曲の間で止まるというなら、まあ当たり前のことで、べつに何ということもないんだが、ツェッペリンは、曲の途中で止まるのだ。
「タメ」みたいなものなのだな。
ガーっと、演奏していたかと思うと、ピタっと止まって、そこでギターのジミー・ペイジと、ヴォーカルのロバート・プラントが掛け合いをしたりして、そのうちまた猛然と走りだして、でもまた止まって、ということを繰り返している。
これはふつうのアルバムではわからないことで、ライブだからこそ、わかることなのだけれど、平たくいえば、「緩急」ということにはなるのだが、それがこうやって、ほんとに立ち止まってしまうというのが、だって目の前には、ホールいっぱいの観客がいるわけだから、それを前にして、立ち止まれるというのが、すごいことだと思うのだな。

ツェッペリンは、10年という活動全体の中でも、何度も、まさに立ち止まってしまうような期間があって、初めに2枚アルバムを出して、その前へ前への、ハードなサウンドが、大きな支持を受け、まさに人気が急上昇したときに、3枚目のアルバムとして、アコースティックギターを中心とした、まったく違った調子のアルバムを出してしまう。
その後人気の絶頂にあったころに、いろいろなアクシデントがあったということもあるが、2年間、活動を休止してしまう。
そうやって考えてみると、ツェッペリンは、「立ち止まる」ということを、まったく怖れておらず、また立ち止まることによって、また新たなエネルギーを獲得するという、そういうバンドなのだな。

自分が自分であることというのは、たしかに走ってしまっている最中は、見えなくなってしまうものであって、立ち止まってみて初めて、自分のやりたい事というものが、見えてくるということもあるわけだ。
結局いちばん大事なことって、そういうことなのだろうなと、まあこれは、自分に引き寄せた考え方ではあろうけれど、思ってしまう、今日このごろ。

★★★★★ 5.0
レッド・ツェッペリン DVD(通常版)

2010-09-02

「見てわかるDNAのしくみ」(工藤光子/中村桂子)

この本は、見た目ふつうのブルーバックスなのだが、

なんと中に3枚の、小さなDVDが収められている。
これを再生すると、かなりすごい。

全編オールCGで、DNAがあれこれがんばる様子が、目で見えるのだ。

DNAの転写。

2001年宇宙の旅かと思うような、幻想的な光景。

細胞の中を、いろんなもんが、うようよしているわけだ。

DNAの複製。

DNAの修復。
などなど。
DNAの仕事のひと通りが、3枚で計1時間ほどの映像で、網羅されている。

もちろん、きちんとわかりやすい解説も入っていて、これは絶対、小学生とかが見ても、それなりに興味もって、わかることがあったりすると思う。

生命誌研究館ではこれを、10年以上の歳月にわたって取り組み、つくり上げたのだそうだ。
たしかにCGの映像が、あとにいくほど、きれいで細かくなっている。
10年のあいだに、コンピュータが進歩したということだよな。

生命誌研究館では、一方で最前線の分子生物学について、研究をすすめているが、もう一方、それを一般の人にたいして、わかりやすく表現するということに、多大な努力を費やしている。
生命誌研究館での展示物や、公開セミナーなど様々なイベントは、その表れなわけなのだが、この本はそういう意味じゃ、「お茶の間で楽しむ生命誌研究館」といえるな。

自分のからだに60兆個ある細胞の中に入っている、目にも見えないほど小さなDNAというものが、こんなにうまいことできていて、こんなことまでやっているのかと、ひたすら驚くとともに、それを人間はまた、こんなところまで解明しているのかと、ほんとに感心する。
また生命誌研究館では、このCGをつくる過程で、実際にDNAを動かしてみるうちに、教科書に書いてある説ではうまくいかず、一般には言われていない、べつの説で考えないといけないのではないか、みたいなことも、明らかになったのだそうだ。
そういう研究と表現のスリリングな関係、というものが、このDVDから垣間見られるところもおもしろい。



2010-08-20

郡司ペギオ-幸夫 「生命壱号」

この本は僕は、ほんとにすごい本、まあ僕は素人だから、研究内容についての評価は、きちんとはできないわけだが、今までに僕が触れてきた、生命論に関する、少ない知識をもとに推し計るに、真に革新的な内容であるといっても、まったく過言じゃないのではないかと思うのだがな。

郡司さんというのは、50歳くらいの、神戸大学の理論生物学者で、ちなみにこの変わった名前、ハーフかと思う人もいるかもしれないから、説明しておくと、「ペギオ」というのは、もともと自分の子供に付けようと思っていた名前だったのを、奥さんに反対されたため、自分に付けてしまったということなのだそうだが、言ってることは20年以上前、郡司さんが研究をはじめた初期のころから、何も変わっていないのだ。

「生きもの」、または「生きているということ」を理解しようとするとき、たとえば人間だったら、人間のからだは無数の細胞でできていて、さらにそのひとつひとつの細胞は、無数の、タンパク質やら、DNAやら、脂肪やら、といった、分子からできている。
だからひとつの考え方としては、人間というものは、分子からできた、機械のようなものであると、考えることができるわけだ。
実際いまの科学というものは、その分子のひとつひとつを、驚くような技術力によって、細かく解析し、「ヒトゲノムプロジェクト」なんてのが、数年前もあったりしたように、人間のDNA分子の配列を、すべて読み取ってみたりして、それによって、生きているとはどういうことかを明らかにしようとしている。

しかし生きものというものは、いわゆる僕らが知っている機械と、同じものなのか。
僕らが知っている機械というものは、誰かが何かの目的のために設計し、工場で部品をつくり、組み立てたものだ。
またその働きは、設計の段階であらかじめ予定され、予定どおり働くように組み立てられたり、プログラミンされたりしていなければならないし、予定外のことをさせるときには、誰かが仕組みを変更したり、操縦したりしないといけない。

ところが生きものというものは全然ちがって、まずそれは作られるものじゃなく、生まれるものだ。
誰かが部品をあつめ、組み立てるのではなく、ニワトリの卵は、ひとつの受精卵だったものが、自分で勝手にひよこになって、殻を突き破って出てくるようになる。
また生きものが、何かの目的、何かの機能を果たすということのために生まれてきたとも、どうも考えられない。
人間は会社に入ったら、会社の目的を達成するために、自分の役割を果たさなければいけないわけだが、べつにそれが嫌だったら、会社をやめたってかまわない。
さらに生きものは、それぞれがそれぞれなりの意志をもち、自分の生まれた場所で、なんとか生きていくように、それぞれの工夫を重ねていくように見える。
今の自分のからだでは、うまくいかないとなったら、それを大きく変化させて、進化して、新たなからだを生み出しすらする。

分子の部品でできた生きものが、そのように全体として、ひとつのからだ、ひとつの自分、ひとつの意志、というものをもっている。
今までの科学の枠組みの中には、そのような「全体」を説明できるようなことばはなく、だから科学者は、そのような不可思議な全体というものについて、あまり考えないようにして、とにかく部品のふるまいを詳しく調べていけば、そのうちそういう全体も、説明できるようになるだろうと希望するというのが、これまでの主流のやり方だった。
そしてこれまで、そのような「全体」については、哲学というもののなかで、あれこれ考えられてきたわけだ。

しかし郡司さんは、科学者であるにもかかわらず、そうではなく、生きものは分子でできた機械であると同時に、全体としてひとつのからだを実現しているものであるということは、誰でもが知っている、経験的な事実であり、生きものがそのような、部分と全体の両面からできているということを素直に受けとめ、その両面がどのようにしたら成り立つものであるかということを、科学という枠組みの中で、新たに見つけていかなければいけない、ということを言う、科学者としては少数派の一人なのだ。

そういう少数派の科学者たちは、この30年くらい、いろいろな模索をしてきていて、進もうとする方向も様々で、「複雑系」というのは、その中でもひとつの有力な考え方をさす呼び名なのだが、「オートポイエーシス」とか、「アフォーダンス」とか、ほかにもたくさんの、いろいろな考え方をもって、なんとかその、これまでの科学では説明できない、不可思議な全体というものを、説明できる枠組みをつくり出したいと努力している。

ところで郡司さんというのは、そういう少数派の人たちの中でも、さらに独自の道を歩んでいる人のように見える。
科学者とて人間であり、新しい考え方を打ち出すためには、学派をつくり、そこであれこれ研鑽を重ね、世の中にたいしてアピールしていくものだと思うが、郡司さんはどのような学派にも属していない。
一時「内部観測」という名前でくくられたこともあるのだが、今は郡司さん自身は、そのことばはあまり使わないみたいだ。
それはたぶんべつに、郡司さんが学派がきらいだからとかいうことではなく、郡司さんの進もうとする方向が、あまりにも独特なものなので、ほかにそれと方向を同じくする人が、ただいなかったのだと、そういうことなのじゃないかと思う。

僕はこれまで、郡司さんの書かれた本を、いくつか読んだことがあるのだが、とてつもなくおもしろそうな感じはするのだが、とにかくむずかしい、という印象だった。
そのむずかしさというのは、ひとつには、郡司さんの理論には、科学にはこれまでほとんど登場することがなかった、哲学的な考え方とか、論理学とか集合論のような道具立てとか、そういうものが大量に登場するのだが、そういうものはこちらも、あまりなじみがないものだから、理解するのがむずかしい、ということがあった。

しかしまあ、新しい考え方というものは、何でもなじみがないに決まっているのだから、それ自体はどうってことはないともいえるのだが、それより大きかったのは、それだけむずかしい理論を展開して、それではその理論が、生きものについての実際の現象、実験事実なり、観測結果なりを説明するのかといえば、そうではなかったということだ。
理論が説明されて、それでおしまい。
それでは、その理論が、たんに郡司さん個人の考え方なのか、それとも生きものについて、正しい側面を言い当てたものなのか、判断がつかない。
それが、これまでの郡司さんの理論のむずかしさというものの、根本にあったと思う。

でもこのことは、べつに郡司さんに限ったことではなく、不可思議な全体を理解しようとする、少数派の科学者たちすべてに、大なり小なり言えたことなのだ。
学派をつくって大々的にやっている人たちについても、「実験」と称するものをいろいろ行ったりはしているのだが、それは理論を直接的に証明するとかいうものではなく、ある、これまでにはあまり言われていなかった方向性を、漠然と示唆する、くらいのことであったように思う。
それは、この少数派の人たちが、いまだ試行錯誤の最中であり、発展途上であるということを意味していたと思うのだ。

ところが郡司さん、今回この「生命壱号」で、そこを完全に突破したのだと思うのだよな。

郡司さんの根本の考え方が、これまでの科学にはあまりなじみがない、哲学的な、ちょっと難解なものであるというのは、これまでと変わっていないのだが、郡司さん、この本の表題に、「おそろしく単純な生命モデル」と銘打っているように、自分の考えを、まず実に単純な、コンピュータのシミュレーションに展開したのだ。
これはほとんどオセロゲームみたいなもので、黒と白の石があって、20個ほどの黒の石が、真ん中に四角く、かたまって置かれていて、そのまわりを白い石がうめている、というところから始まって、その後のルールは、まわりの白い石は、ランダムな順番で、黒い石と入れかわって、黒い石のかたまりの中に入り込んでいくこと、これは生きものにとっての、餌みたいなものなのだ、そして、白い石は、一度入れかわった黒い石をおぼえていて、一度入れかわった黒石とは、二度は入れかわらないという、基本ルールはそれだけ。
こんな簡単なことなのに、それをコンピュータで何千回も計算させていくと、はじめ四角くかたまって置かれていた黒い石は形を変え、かといってちぎれてしまうこともなく、あくまでひとつの全体をたもって、まるでいかにもアメーバかなにかのような、不思議なふるまいをするのだ。

さらに、それだけではない。
この黒石の動き方について、適当な条件を設定すると、これが粘菌という、アメーバの一種のふるまいと、そっくりな動き方をするようになる。
ちょっと前に新聞に、粘菌が迷路を解けることを明らかにした日本人の研究者が、イグノーベル賞をとったということが出ていたが、この黒石、これを郡司さんは、「生命壱号」と名付けたのだが、この生命壱号は、同じように迷路を解けることを明らかにした。
また生命壱号の性質を、統計的に解析すると、それが粘菌の統計的な性質と、ばっちりと一致したり、これまではよくわかっていなかった、フラクタルなどに見られる統計的な性質が、生命壱号の性質から導きだされたりするのだ。
これはほんとに鮮やかで、不可思議な全体を見つけようとする少数派の人たちの中で、理論をこれだけ実験と一致させた人は、今までいなかったんじゃないか。
細かいことは、専門的には色々あるのかもしれないが、とにかくものすごいインパクトがあることは、まちがいないのだ。

この本の後半は、それからさらに展開して、「束論」という数学を使って、ある心理学的な実験を説明したり、その束論を、「オートマトン」というコンピュータ上のアルゴリズムに適用して、より生きもののふるまいに近いオートマトンをつくり出したり、内容としてはかなりむずかしくはなるのだが、つねに実験結果や、はっきりと目に見える、コンピュータシミュレーションの結果というものを目標として、話が進んでいくので、明快さは失われない。

郡司さん、ここ30年ほどやってきた、自分の研究が、今すべて、花開いている、というところなのだろうな。
まだまだこれから、先に進んでいくのだと思うし、学会や、世の中にたいしても、影響が波及していくのだろうと思う。

この本、理系の本をまったく読んだことがない人にとっては、ちょっとむずしいかもしれないが、そうでなければ、読む価値がある。
それはもしかしたら、歴史をリアルタイムで体験すると、そういう意義すら、あるのじゃないかと思うくらいだ。

★★★★★
生命壱号 おそろしく単純な生命モデル
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2010-07-31

網野善彦「日本の歴史をよみなおす(全)」

この本は読むべき。日本というのがこういうものだったのかということが、まったく新しい視点から見えてくる。

一つは「非人」というものについて、徹底的に解明していて、今では非人は、単に差別される人としか捉えられていないのだが、元々はそうではなかったのだということが書かれている。非人は平安から鎌倉時代くらいまでは、金融業とか動物の屠殺業、遊女など、人々の日常にはなじみにくいことを、神様から請け負うという形でやっていた人たちだったのだ。だから身分は、天皇の直轄ということになっていた。ところが室町以降、天皇の権威が下がるにつれて、差別民として扱われるようになっていった。それと関連して、非人をも信者として取り込み、みずからの勢力を拡大していった真宗など鎌倉新仏教のこととか、女性の立場についてのこと、天皇についてのこととかが書かれていて、日本の社会が室町時代を境として大きく変わっていったことが、全体として見えてくる。

それからもう一つは、日本は元々農業を中心とした、農業国家であると考えられてきたわけだが、実はそうではなく、河川や海を交通路として、これまでは研究から見落とされていた、様々な行き来があることがわかってきて、それを前提とすると、日本の社会というものが、これまで考えられたものとはまったく違ったものであったということが、はっきり見えてくる。もちろん農業というのが、一方の大きな柱だったことは間違いないのだが、もう一方で商業や金融業といったものが、これまで考えられていたよりはるかに盛んで、後醍醐天皇などは、そういう勢力を背景として、権力闘争を行ったのだが、けっきょく敗れ、それ以降は権力が、商業や金融業を規制する方向に動いていった。朝鮮や中国など、海外との行き来も、今考えられているより、はるかに盛んだった。

それらを、著者は仮説としてではなく、資料をきちんと読み込んだ末の事実として、きちんと描いていく。同じ資料を、これまでも幾多の研究者が見てきていたのだが、先入観のために目が曇って、見えていなかったということなのだ。80年代以降の新しい研究の成果で、最近の教科書などには、それが反映されているところもあるらしいのだが、昔の教科書で勉強した僕などは、そんなことは全然知らなかったわけだ。

著者は歴史学者で、幾多の専門書も書いているのだが、この本は一般の人にむけ、これまでの著作との重複をおそれず、自分の生涯の研究成果を、全体としてわかりやすく伝えるということを目的としている。実際そのとおり、気楽に読めながら、日本というものがまったく新しい姿として見えてくるという、ほんとにすごい本。これを知らないというのは、まったく損だとすら、言えるんじゃないかと思う。

★★★★★
日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)
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2010-03-17

中村桂子 「ゲノムが語る生命 - 新しい知の創出」

中村桂子さんというのは有名な生物学者で、よく新聞に寄稿などもしているから、とくべつ生物学に興味があるという人でなくても、知っている人は多いと思う。もともと普通に、科学者として、生物学に取り組んでいたのだと思うのだが、あるところから、それに疑問を感じだしたのだな。生物学とは本来、「生きているとはどういうことか」を明らかにすることが目標であるはずなのが、
生命科学はDNAを遺伝子とする、最も小さな単位にまで還元して考え、遺伝子のはたらきを基礎に生物の構造と機能を知れば、生きもののことは理解できると考えています。そうではないでしょう。生きものは全体として生きているのであり、「生きているってどういうこと」という素朴な問いに答えるには、もっと全体的な捉え方をしなければなりません。確かに、哲学や文学で、「生きていること」を考えるときには全体として捉えていますが、科学を踏まえたうえで生きていることを全体として考えたい。それが生命誌の始まりでした。
ということで、科学を踏まえながらも、そこから一歩踏み出し、科学というものの枠にとらわれずに、「生きているとはなにか」を考え始めるのだ。この本には、そこから始まり、今に至る、中村桂子さんの冒険が分かりやすくまとめられていて、とても読み応えがある。
科学的に検証可能な、生物のからだの中にある物質のうち、生きものの全体を表わすことができるもの、それは「ゲノム」である。DNAという物質は、二重のらせん構造になっていて、それが人間だったら、2本が一対になったものが46組、からだの中のすべての細胞の中に入っているのだが、その46組のDNAの中のあちらこちらには、「遺伝子」と呼ばれる、からだの部分部分の特徴を決める領域があり、科学ではその遺伝子ばかりを、個別に研究しているけれど、生きているということを知ろうと思ったら、DNAの全体、ゲノムを見て、個別の遺伝子の働きも、ゲノム全体の中での関連として考えていかなければいけない。
そのことを中村桂子さんはもう、20年以上も前に提唱し、実践してきたのだが、果たして世の中は桂子さんの言うとおりの方向に動き、アメリカで癌を制圧しようというプロジェクトが始まったことに伴い、人間のすべてのDNAを解読しようという、「ヒトゲノムプロジェクト」が発足、日本を含め世界中の研究者を巻き込んで、2003年にめでたく解読は終了した。
ところが、ヒトゲノムを解読してみて、それでは生物学者が生きものの全体に目を向けるようになったのかと言えば、全くそうではないと、中村桂子さんは言う。生物学を国際間の巨大プロジェクトによって行い、それが成功したということに味をしめ、その後ますます、生物研究は巨大プロジェクト化するようになり、そこに「病気の治療」や「新たな医薬品の開発」という目的が結びつき、国家や産業界から莫大な予算が注ぎ込まれ、生物学者はもはや、医学的な応用にばかり目が向いて、「生きているとはなにか」などということは、消し飛んでしまっているように見えるということなのだ。
中村桂子さんはこの状況に強い危機感をおぼえ、このまま進んでしまっては、「なんだか破滅への道のような気がし」て、「まだ明確には見えていない」けれども、生きているとはなにかということを中心に据えた、「新たな知」が生み出されなければならないと考え、そのきっかけとなるためにこの本を書き、桂子さん自身がどのように考えようとしているかを、あの手この手で、なんとか伝えようとしている。はっきりしないことを伝えようとするから、一貫した論理的な説明などではなく、様々な人の言葉にヒントを得、文学的なイメージや、たとえなどもたくさん出てくるのだが、これがものすごく面白い。僕は読みながら、何カ所かで、思わず体が熱くなるくらい興奮した。
あとは本当は、この本を直接読んでもらうのが良いのだが、でもそれだけというのも何だから、僕なりに少し書いておくことにすると、まず「生きている」ということは、本来複雑なものであって、それを外側から見て、客観的に判断し、その背後にある単純な論理なり、法則なりを探そうとするのではなく、その矛盾をはらんだ複雑さにまっすぐ向き合い、受け止めなければならない。そこからしか始まらないと、中村桂子さんはいう。そしてその、生きもののもつ複雑さを「愛づる」こと、すなわち、生きものが時間の中で、変化し、発展するさまを、相手と自分を区別するのではなく、「共にあるという感覚」をもちながら愛すること。さらにはその中で得られることを、「物語る」こと。
これらのことは、すでに、これまで言われてきた意味での科学ではない。しかし、科学を無視するのではない。科学をきちんと踏まえながらも、それにとらわれることなく、生きるとはなにかに言葉をあたえることができる、「新たな知」を、共に見つけていこうじゃないかと、中村桂子さんは読者に向かって呼びかけている。しかしたしかに、僕らはみんな生きているのであり、専門家であるとないとに関わらず、そのことに無関係な人間など、この世に一人もいやしないのだ。
★★★★★
ゲノムが語る生命―新しい知の創出 (集英社新書)

2009-03-09

LED ZEPPELIN DVD

2003年に発売された、ロックバンド「レッド・ツェッペリン 」の2枚組DVD。
僕は最近購入し、時間が無くてなかなかきちんと見れなかったのだが、やっと見終わったという次第。
この6時間近くにもなるDVDを見て改めて思うのは、レッド・ツェッペリンというのは、何かの枠にはまってしまうのを極度に嫌う人たちなんだな、ということだ。

デビューしたレッド・ツェッペリンの何が画期的であったかというと、1960年代後半、ビートルズを中心としたボーカル中心のロックバンドが下火になり、それに代わって大音量の、歪んだギターの音を前面にすえた「ハードロック」のバンドが多数、台頭してくるのだが、その時彼らが基盤としていた「ブルース」という枠組みを、ツェッペリンが取っ払ってしまったところにあるのだと思う。
ツェッペリンが開拓した、ブルースとは全く異なる新たな地平に、後続は次々参入し、その延長に「ヘビー・メタル」という分野が確立していく。

しかしツェッペリンは、今、ヘビー・メタルのバンドではない。
何故なら彼らは、自分たちが固定したイメージで捉えられるのを拒否し、新たな挑戦を始めるからだ。
ビートルズのアルバム「アビー・ロード」を抜き、全英、全米ナンバーワンになった2枚目のアルバムに続いてリリースされた、アコースティックな音を前面に出した3枚目のアルバム、「LED ZEPPELIN Ⅲ」は、前作のような歪んだ、激しいギターサウンドを期待していたファンからは、非難ごうごうだった。
しかしツェッペリンは、次作、4枚目のアルバムの中の「天国への階段」という曲において、激しいギターとアコースティックな音調とを融合させた、全く新しい音楽を再び開拓し、それは後続のバンドにより「プログレッシブ・ロック」などという分野として確立されていく。

しかしまたしても、分野が確立される頃にはツェッペリンはそこにはおらず、新たな挑戦を始め、これから、というところでドラマーが死亡、解散するに至ってしまう。
だからツェッペリンは、「ロックバンド」ではあるが、それ以上の細かな分野分けは出来ない。
レッド・ツェッペリンは、レッド・ツェッペリンである、というより他に、呼びようがないのである。

ライブ演奏のスタイルもまた、おなじ考え方に貫かれている。
普通のロックバンドは、事前に曲の進行をメンバーと細かく確認し、ライブではその通り演奏するものだと思うが、ツェッペリンはそうではなかったということが、ライブ映像を見るとよく分かる。
ステージでのその場の即興で決められる部分が大きく、メンバー同士が目を合わせながら、主にはギターのジミー・ペイジだが、場合によっては他のメンバーが、次への展開を主導していく。
だからあのような、緊張感あふれる、生き生きとした演奏が可能なのだな。

「ロック」というのはたぶん、社会などによって押し付けられる枠組みに反抗し、本来の生き生きとした人間性を確認しよう、ということを目指した音楽なのだと思う。
であるならば、レッド・ツェッペリンこそはまさに、本当の意味でのロックバンドである、と言えるのだな。


2008-03-24

『逝きし世の面影』 渡辺京二著

日本の「近代」は明治維新によって導入され、今はまさに近代という時代のなかにある。

今存在するものは自分が生まれたときにすでに存在したものの延長戦上にあるわけだから、それがもっと前から変わらずに存在していると思いがちだが、もちろんそうではない。近代という時代は始まってからまだ200年も経っていない。

まあ言われてみれば、そんなこと分かっていると思うかもしれない。近代とは科学と、それによって生み出される技術とを基盤とする社会である。今の様々な科学技術が200年前には存在しなかったことは、もちろん誰の目にも明らかなことである。

しかしそのような表面的な成果の根底には、基本的な考え方というものがある。人間が社会や自然、そしてその中に生きる人間自身をどう捉えるかということについて、100年単位の時間の中で巨大な転換が行われ、それが科学技術の進歩などといったものを生み出すに至ったのだ。それではその考え方の転換とはどのようなものであったのか、近代という社会の本質とは何なのかということは、それが私たちにとってあまりに当たり前すぎる物事であるために、そうそう簡単には見えてこない。

20世紀は近代文明が頂点を極めた時代であった。様々な科学技術の発展により、人類には明るい未来が約束されているように思われた。しかし21世紀の今、そのように単純に明るい未来を思い描く人は少ないだろう。科学技術が発展した結果、環境問題や、グローバル化の問題が生まれ、世界は政治的にも経済的にも、大きく揺れ動いている。このまま進んでいってしまったら人類の存亡すら危ぶまれることになっている今、それではこれから私たちはどちらの方向を向いてどのように進んでいったら良いのかという事について、まさに今、答を見つけていかなければいけないのである。

そのためには、近代とは何なのか、それが人間にとってどのような意味を持つものなのかを徹底的に明らかにしていくことからしか、始めることができない。この本の著者の渡辺京二はそれを、近代以前の文明がどのようなものであったのかを探ることにより、見つけ出そうとしているのだ。

近代以前の文明は、すでに滅びてしまった世界である。いや江戸時代やもっと昔の様々な文化は、今に残っているものもたくさんあるではないかと思うかもしれないが、個別の物事は残っていても、そこで暮らす人間の生きる営みのあり方、その根底にある基本的な考え方は、今では残っていない。そこに光を当てることのできる光源として、著者は当時の日本を訪れた外国人たちの見聞の記録を見出した。

江戸末期、日本を訪れた外国人達は、すでに近代の中にいた。彼らは今の私たちと基本的に同じ視点を持っており、近代以前の日本を大きな驚きを持って眺め、無数の記録に残している。その記録を丹念に見ていく事により、著者は近代がどんなものなのかを、それ以前の時代と比較し、相対的に明らかにすることに成功したのである。

ここに描かれた近代以前の日本の姿は、私たちにとってある懐かしさと、同時に失われてしまったものに対する寂しさをもって迫ってくる。その懐かしさと寂しさとは、来たるべき未来に対するビジョンである。 それを感じたとき、そのときが、近代後の世界を見つけ、つくり出していく私たちの長い長い旅の、第一歩なのである。

平凡社刊。1900円+税。


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