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2013-03-11

京都流「べた焼き」探訪第2弾。
「お好み焼き 吉野」

こんにちは。ご訪問いただきありがとうございます。

このブログは、50歳バツイチ独身ひとり暮らしのおっさん、高野が、日々の自作料理を中心に、ひとり暮らし生活のあれこれを気ままに書き連ねているものです。
「どうか」と思われることは多々あるかと思いますが、お楽しみいただけましたら幸いです。




さて昨日は、お好み焼きを食べに行った。


具と小麦粉のタネを混ぜて焼く、関西式「まぜ焼き」のお好み焼きばかりかと思っていた京都に、実は広島風にも似た「べた焼き」と呼ばれるお好み焼きがあると聞いたのは、最近のこと。
有名店であるたかばし「山本まんぼ」へ2回行き、昨日は島田紳助御用達の店として知られるという「吉野」。



七条通から大和大路通を三十三間堂の壁に沿って南へ行き、塩小路通も越えてちょっと行くと、住宅地の中に赤い提灯が見えてくる。





提灯を東に、細い路地を入って行くと、その奥に店はある。

まわりに店は全くない、辺鄙ともいえる場所なのに、店内はお客さんで一杯。
日曜日は電話してから行かないと、席がないこともあるそうだ。



お好み焼きには、やはりビール。



それにイカ焼きとホソ焼き。

イカは塩味、ホソは「シロ」とも呼ばれ、牛の小腸、お好みソースで味つけしてある。



鉄板焼きを食べ終わったら、お好み焼きを注文。


肉玉そば入り大、1000円。

「肉」は京都では牛肉のこと。
豚肉入りは「豚玉」と呼ばれる。

この店には他にも「イカ玉」「スジ玉」「ホソ玉」「油カス玉」があり、ホルモンを入れるのが特徴らしい。

焼き方は、タネを鉄板に丸くのばし、ソースで味つけして炒めた細切りキャベツと麺、それに具をのせて、最後に目玉焼きを張り付けるという、広島のお好み焼きとも似たやり方。
ただキャベツが量が少なく、炒めるだけで蒸さないところが、広島流とはちがう。



運ばれたお好み焼きは、好みで甘いソースと辛いソース、それに魚粉と青のりを振って食べる。
このコショウの利いた辛いソースが、京都流べた焼きの大きな特徴で、お店ではそれぞれ複数のソースを合わせて炊くなどし、自分で調合したりもするようだ。



吉野のお好み焼きはおいしく食べたけれど、卵を生で落とし、青ねぎをたっぷりと振る山本まんぼのほうが、ぼくにとっては好みだった。






今日は3月11日。
この日は2年前から、ぼくにとって特別な日となっている。

京都にいたから地震自体は感じなかったけれど、それから刻々と明らかになっていく悲惨な状況に、数日間はテレビの前を離れられなかった。

あまりに多くの人が亡くなったことに、日本人として、体の一部を引きちぎられるような思いがした。



震災自体も十分悲惨だったけれど、さらに悲惨だと思ったのが原発事故。
震災は天災だけれど、原発事故は、日本の中枢が機能不全に陥ったことにより起こった人災。

人災により多くの人が、故郷を失い、家族と離れ離れで暮らさなければならなくなっている。

健康の不安を、これから何十年にわたって感じ続けなければいけなくなっている。



ぼくは2年前の震災で、自分が「日本人」であることを痛切に感じた。
この災難は、「東北」ではなく、「日本」が受けたものであり、問題を解決するために、自分も微力を尽くさなければならないと思った。



しかし問題の解決には、これからまだ、長い時間がかかりそうだ。

自分が一つだけ、最低限しなければならないことは、「3月11日を忘れない」ことだと思っている。



「おっさんも目の黒いうちに何かしないとね。」


そんなに時間は残ってないからな。


2012-12-10

大根煮、ワカメ炒め。それに少し、選挙のこと

今日の晩酌は・・・。
出版記念パーティーでもらった聖護院大根がある。大根もいろいろな食べ方があるけれど、大根そのものの味を味わおうと思ったら、まずはやってみたいのは池波正太郎「そうざい料理帖」に出てくる食べ方。大根を昆布だしで煮て、しょうゆで食べる。大根を煮ているあいだは、ちょっとした肴で酒を飲む。





大根は分厚く切って皮をむき、だし昆布をひいた鍋に入れてたっぷりの水を張る。
中火にかけて、沸騰したら昆布をとり出し、コップ半分ほどの酒を入れ、弱火でコトコト30~40分くらい煮る。





煮ているあいだにつまむのは、ワカメ炒め、ゆでガキのポン酢、厚揚げ焼き。






大根が煮上がる少し前に、塩ひとつまみを入れる。






しょうゆをたらして食べる。






大根の滋味が口いっぱいに広がって、これはうまいわ。






ワカメ炒めは向田邦子のレシピより。
ワカメを炒めるとはちょっと意外だけれども、ちょっとふりかけ的な味になり、酒の肴にいいのはもちろん、ご飯のおかずにもなると思う。





ワカメは何でもいいけれど、湯通しした生ワカメが一番うまいし、作るのもラク。
乾燥ワカメならかために戻してから使う。





フライパンを中火にかけ、ゴマ油とサラダ油それぞれ大さじ1くらいを入れ、ざく切りにしたワカメを2~3分、じっくり炒める。
この時すごく油ハネするから、フライパンのフタでガードしながらやるといい。





削りぶしひとつまみを入れ、しょうゆをまわし入れて味つけする。






ゆでガキは、くれぐれもゆですぎないのがポイント。
沸騰した湯に入れたら10秒くらいで引き上げて、すぐ水にさらして余熱をとる。大根おろしに青ねぎ、一味唐辛子とポン酢をかける。











今度の日曜はいよいよ選挙。

今回の選挙は日本の進路を決める大事なものになると思うから、
何としても行かないといけないと思っているけれど、
立候補者の顔ぶれを見ると、入れたくなる人がいない。

でも今回の選挙の結果一つで、
日本が明るい未来に向かって進むなどということはあるわけがないのだから、
せめて最悪の方向に進まないよう票を投じることが、
できる精一杯なのかなとも思う。



今回は、「脱原発」が1つの争点になっている。

政治的なスローガンは何でもそうだけれど、
「脱原発」を唱える人にも様々な考え方がある。

「何が何でも原発は即時廃止」と主張する人もいるけれど、
多くの人は、原発はもちろんないほうがいいけれど、
国民がきちんと生活していくことも大事なのだから、
原発なしで日本の経済が成り立つのかをきちんと考えないといけないと
思っているのではないか。

ぼくも原発については、大体そういう風に思っている。



原発と経済の問題については、経済界などを中心に、
「原発なしでは日本の経済は成り立たない」
と主張する声が多い。

工場などへ安定的に電力を供給することは、
風力や太陽光などの再生可能エネルギーでは不安定で無理だから、
やはり原発が必要だとなる。

大勢からそう言われてしまうと、
「そういうものなのか」と思わないこともない。

実際世論調査をしても、「脱原発」には過半数が賛成するのに、
「政権の枠組み」を問われると、
原発を推進する「自公民の大連立」と答える人が増えるのだという。



そういう中で、今後の日本を考えるための1つのヒントとして、
経済学者 金子勝氏の主張は耳を傾けるに値すると思っている。

金子氏は、

「日本が原発に固執するのは世界的に見て時代遅れで、
太平洋戦争の敗戦前に、世界が機動力にすぐれる戦闘機と空母にシフトしたのに、
あくまで戦艦に固執して戦艦大和を造ったのとそっくりだ」

という。



アメリカを筆頭として世界の潮流は、これまでの「集中型システム」から、
コンピュータを活用した「分散型システム」へ移行しようとしている。

集中型システムの代表例であるスーパーマーケットが、
映画館やレストランなどが入った巨大施設で集客しようとしても、
低成長時代の現在では行き詰まりが見えてきている。

それに対してコンビニは、個々の店舗は小規模ながら、
分散型のコンピュータシステムをフルに活用して在庫管理をすることで、
堅調に利益を上げている。



発電所もそれと同じで、集中型の原子力発電所は、
送電ロスが大きいし、いったん事故が起こるとシステム全体を麻痺させて、
リスクもあまりにも大きい。

それに対して再生可能エネルギーを利用した発電所は、
個々の発電所は小規模で不安定でも、
分散型コンピュータシステムを活用した「スマートグリッド」でつなぐことで、
効率的に送電することが可能になる。



スマートグリッドの開発に、世界は舵を切っており、
実際その開発にともなう経済効果は巨大なものになる。

日本がそこに踏み出せないまま原発に固執してしまうと、
「失われた20年」が「失われた30年」になり、
日本は決定的に「ガラパゴス化」してしまうことになると、金子氏は言う。



経済界の言うことと、金子氏の言うことのどちらが正しいのか、
素人にはわかりにくい。

実際この間の原発事故をきっかけとして、「専門家」と呼ばれる人たちが、
自分の利益のためにいかに嘘をつくかを、ぼくたちは数多く目撃してきた。

ただぼくはこの2年ほど、金子氏のツイートをずっと見て、
また著書も2冊ほど読み、
「この人は、つくづく私欲のない人だ」
と感じている。





「選挙は行くのが大事だね。」
そうそう、入れるのは誰でもいいよな。





金子勝ブログ「地域分散ネットワーク型のシステムへ――総選挙に問う(1)」

金子勝ツイッター


2011-09-02

えげつないことするなと思うが

僕は東京に40年住んで、そのあと名古屋、広島、そしていま京都に、それぞれ1年半強、住むということになっている。その土地に、短い期間ではあっても実際に住んでみると、旅行や出張で訪ねるというくらいでは絶対にわからない、その土地その土地の習慣とか考え方とか、そういうもんが見えてくるのが面白い。

長年住み慣れた東京を離れて、初めて行った名古屋では、もうカルチャーショックの連続だった。例えば街を歩くとする。たくさんの女の子とすれ違い、エロオヤジであるこちらとしては、女の子をチラチラと目の端で追ったりするわけだ。

東京ではそういう場合、女の子は絶対にこちらを見ない。少なくとも僕は、女の子から見られていると感じたことは一度もない。東京では「見たら負け」というところがあるんじゃないかと思う。だから僕などは、いつも負け続けていたわけなのだ。

ところが名古屋の場合、女の子の方もチラチラこちらを眺め、しょっちゅう目線が合ったりする。名古屋ではそれが普通で、少なくとも「目線が合ったら負け」ではないのだろう。僕は名古屋へ行ったら、急に「モテる男」になった気がしたものだ。

名古屋では、地下鉄に乗るとおばあさんが普通に話しかけてくるのにも、死ぬほどびっくりした。東京だったら、電車の中で他人に話しかけるのは、頭のおかしな人くらいだろう。

同じ日本なのだが、それぞれの土地で驚くほど文化が違い、現代社会では人の行き来も多いし、狭い日本なのだから、もっと均質化されても良さそうなものなのに、その違いは根強く残っている。色々引越しをして、土地土地を渡り歩くというのは、根無し草になり寂しいのじゃないかと思うかもしれないが、僕は寂しさよりも、土地土地の文化を知る面白さのほうが、圧倒的に上回る。


京都へ来ても、色々思うところがあるのだが、一つものすごくはっきりと、東京との違いを感じさせるところが、「バーでのマナー」だ。

カウンター席しかない、小さなバーや居酒屋へ行ったとする。東京の場合、カウンター席での飲み方にははっきりとしたマナーがあって、それは「隣のお客さんに話しかけちゃいけない」ということだ。

カウンター席だから、自分の隣には、知らないお客さんや、知っていたとしても、友達ではないお客さんが座っていたりするわけだけれども、バーテンやオーナーの橋渡しなしに、そのお客さんに話しかけるのは、東京ではマナー違反なのだ。東京ではバーテンの橋渡しがあって初めて、隣のお客さんと話していいことになる。僕は馴染みになった居酒屋のママに、かなり厳しく教育されたから、それは間違いない。あと他のお客さんが話した話題を、自分が取って話してしまうことも、やはりマナー違反になる。

ところが京都の飲み屋へ色々行っておどろいたのは、カウンターに座った瞬間に、両隣のお客さんがここぞとばかりに話しかけてくることだ。店のカラーによっても多少の違いはあるのだが、京都では多くの飲み屋で、一見のお客は両隣はおろか、店中の全てのお客さんから、仕事やら何やら、根掘り葉掘り聞かれて、常連客の名前も4~5人は覚えさせられ、無理やり常連客の仲間入りをさせられるのは間違いない。

それだけ見ると、京都の方が、東京よりフレンドリーでいいようにも思うが、京都にだって、店の雰囲気を壊す困った客というのはいるわけだ。そういう客がカウンターで所構わず周りのお客さんに話しかけたら、それはお店だって、常連のお客さんだって困るだろう。

しかしそういう時のために、京都が持っている安全装置が、「お断りシステム」なのだと思う。

京都では「一見お断りの店」がけっこうある。祇園やらの高級なお茶屋だけの話じゃなく、安い居酒屋でも、扉に「一見お断り」の札が貼られている場合がある。またはっきりとそのように表示されていなくても、実はマスターやママが、相手を見て、「この人はうちの店の雰囲気には合わない」と思えば、一見客を断る店は多い。僕は幸い、まだ断られたことはないのだが、僕がよく行くバーでも、いわゆる酔っぱらいのオヤジが、鼻ちょうちんで気分よく扉を開けた瞬間に、マスターが「ごめんなさい」と言って断っていた。

一見に限らず、京都では、色々な理由で出入り禁止になるお客が、それぞれの店でけっこういる。京都では、店内でのマナーが東京のような形で外的に決められていない代わりに、問題のあるお客を中に入れないことで、店の雰囲気を守るということなのだろう。


日本の各地で、それぞれの文化があるというのはその通りなのだが、それを「東京とそれ以外の地域」という形で括ることもできるように思うんだよな。東京は日本の首都だから、他の地域にはない、独特の文化が発達していると言えるのじゃないか。

これは東京の文化じゃないかと僕が思うのは、「ルールやマナーを明文化したがる」ということだ。さっきの飲み屋のマナーの例でも、「これはいい、これはいけない」ということがはっきりと、単純な形で決められている。京都にだって当然マナー違反はあるわけだが、酔っぱらいのオヤジを断ったマスターに、「なぜ断ったの」と聞いても、「いやうちの雰囲気には合わないから」としか、マスターは答えられないだろう。いい悪いの線引きが、京都では曖昧なのだ。

ルールやマナーが明確であるということは、誰にでも公平で、一見いいことのように思えるけれども、逆に実は大事なことを見落としてしまう、ということがあるんじゃないか。ルールやマナーに従ってさえれば、何をやってもいい、というような風潮を、生み出してしまうところがあるんじゃないかという気がするんだよな。


経済学者の金子勝氏のツイートによると、8月26日に国会で、福島での除染についての法案が、審議されることもなく、自公民により強行採決されたのだそうだ。その除染法が、原案にはなかったとんでもない書き換えがされているのだそうで、環境省が、原子力ムラと相談の上、除染に関するすべてを決め、住民に決定権は一切なく、罰則をつけて強制的に従わせるものになっているのだという。どんなに能力があっても、民間業者は一切入れずに、政治家と官僚が自分たちの利権を守るために、都合のいいようになっているのだそうだ。

復興という巨大な利権を、濡れ手に粟で持っていくために、自分たちの都合のいいようにルールを決めていく。国会で、定められた手続きをきちんと経ているのだから、そこには何のルール違反もない。ルールを守っていればそれでいい、という考え方からすれば、何も問題ないことだ。でも「そんなえげつないことするなよ」というのが、普通の人の実感だろう。しかし「えげつないこと」は、ルールやマナーとして明文化できることとは違うから、何の強制力も持たないことになる。

「すべてを曖昧にする」というのは、日本が元々持っていた文化じゃないかと思うのだよな。物事を曖昧にすることにより、不要な対立を避け、みんなが仲良くしていく。日本はそうやって、狭い国土で平和に暮らしてきた。

そこにたぶん、西洋から、「全てを明確に定める」という文化が入ってきた。そうすると、それまでの日本が持っていた、曖昧でありながらも大事なことが、明確でないという理由で「意味のない」ものとなり、忘れさられてしまっていく。そういうことがあるのじゃないかという気がする。

西洋では、合理主義の一方で、いまだにキリスト教が、大きな力を持っている。キリスト教は、「倫理」について、たぶん今でも西洋を支配し、それが合理主義とのバランスを保っている所があるのじゃないか。

ところが日本は、西洋から合理主義だけを輸入してしまい、キリスト教は輸入しなかった。それが今日本で、倫理的に見てあまりにおかしいことが、平気でまかり通ってしまうようになっている、一つの理由じゃないかと思うのだよな。

もちろん僕は、「それではキリスト教を輸入しよう」ということを言いたいのじゃない。入ってきてしまった合理主義は、もう取り除くことはできない。すべてを曖昧にして済ませてきた、昔の日本に戻ることはできない。そうであるならば、合理主義をうまく飼い慣らし、日本人がもう少し心地良く暮らせるようなあり方を、何らかの形で見つけていく必要があるんじゃないか。

それがどういうものだか、僕にもよくわからないけれど、少なくともはっきりしていることは、それは政治家や一部の専門家に任せればすむ問題ではないということだ。日本人の一人ひとりが、考え、模索していかなければならない課題なのであると思う。

金子勝氏のツイート:
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109103045996052480
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109378653477015553
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109381013926461440
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109386030322421760


昨日はグルメシティは、毎週木曜日の特売の「木曜もっくん」と、毎月1日の特売である「一の市」が重なって、巨大な特売日となっていた。しかし特売ってのは、どうして何でもかんでも、いっぺんに安くしてしまうのかな。品を替え、毎日順番に安くしてもらった方が、こちらとしてはあがたいんだがな。でもそれではスーパーとしては、意味がないということか。

そのグルメシティの特売で、昨日は鶏もも肉を買った。鶏もも肉はこのところずっと、汁の実にばかりしていたのだけれど、鶏もも肉自体を、一番おいしく味わうのだとしたら、僕は塩焼きだと思うのだよな。


塩焼きは、僕は粗塩だけをすり込んで、青ねぎとレモンをふって食べるのが好きだが、べつに好みでコショウを振ったっていい。でも間違いないのは、焼き過ぎないのが何より肝心だ。

僕はフライパンのフタはしないで、弱火でじっくり焼くようにするが、ちょっと赤いかな、というくらいで火を止めると、柔らかくてモチモチでうまいのだ。でも昨日は、久しぶりの塩焼きだったので、ちょっと焼きすぎてしまった。


茄子のおしたしは、前日硬すぎて失敗したから、もう一度チャレンジした。「ゆで過ぎかな」というくらいゆでてみたら、やはりゆで過ぎだったが、ゆで過ぎると困るのは、絞るとき形が崩れてしまいそうになることくらいで、味は硬いよりは100倍うまい。でももう少し硬めでもよかった。


こういうつまみで酒を飲むと、酒が非常にうまくて、つい飲み過ぎてしまいそうになるのだが、昨日はなんとか2合で終われた。



2011-08-30

野田氏が総理になるということで

野田氏が総理大臣になることが決まったということで、野田氏は年も僕に近いし、ぜひ頑張って欲しいと思うんだが、まあしかし、野田氏が総理大臣になったからといって、日本がどうなるともあまり思えないというのが正直なところだろう。

というか、誰が総理大臣になっても、あまりどうなるとも思えない。それ以前に、日本がどうなったらいいのかも、ようわからん。

脱原発・自然エネルギーの人たちは、「自然エネルギーこそが日本が進むべき道だ」と言うんだろうが、あまりそうとも思えん。日本にソーラーパネルやら風車やらが立ち並ぶ未来を想像しても、全くワクワクせん。自然エネルギーが、一つの重要な方向性であることは確かなのだろうが、僕はあまり興味はない。

僕は原子力発電所については、味の素と同じ考えだ。僕は消極的脱味の素派だ。

僕は自分で味の素を使おうとは、全く思わない。味の素は料理の面白さを、半減させてしまうどころか、特に初心者にとっては、「料理」というものが何なのかを、全くわからなくさせてしまう害悪すらあると思う。

あの、粉をパラパラと水に溶かすということが出汁であると思ってしまうと、肉や魚を煮ることの意味が、全くわからなくなってしまう。出汁は料理の基本だから、出汁がわからなくなるということは、料理がわからなくなるということだと思うんだな。

同じ粉でも、煮干しや鰹節を砕いて粉末にしたものと、味の素は決定的に違うと思う。天然の材料を砕いたものは、どうしたって煮出さなければならない。しかも出し殻があとに残る。まだそれだと、出汁の意味は、かろうじてわかるような形になっている。

ただ、例えばラーメン屋で、味の素を使わないとする。そうするとラーメンの値段が上がり、結果としてお客が離れ、ラーメン屋の経営が成り立たなくなるわけだ。僕はだから、ラーメン屋が味の素を使うことは、全く否定しない。

食の安全を考える人達の中には、味の素を全く使わないことを目標にする人もいると思うんだが、僕はそれとは全く異なる。味の素で多少犠牲になるものがあったとしても、ラーメン屋の経営のほうが大事だという考えだ。

まあこれと原発問題がどう関係があるのかは、もう面倒臭いから説明しないが、原発問題は、日本が山ほど抱える問題の、その中の一つであり、例えば企業の経営の問題とか、安全保障の問題とか、膨大な金額にのぼる赤字国債の問題とか、そういうものの中で、優先順位を決め、バランスよく考えていくことが必要なのだと思う。

原発の問題でいえば、未来のエネルギーの問題などよりも、まず福島の放射能汚染問題が、最優先に解決されなければならない、よほど深刻な問題だ。日本人は福島限定の問題だと、どうしても他人事になってしまうのだろうな。まあ僕もそうかも知れないが。

放射能に汚染された地域の除染の問題や、いま実際放射能を浴び続けている子供たちの問題、強制退避地域から外れた人たちへの補償の問題…等々。とにかくこれは、一刻も早く何とかしてもらいたい。

そのために増税が必要だというのなら、増税したってかまわない。もう今の時代、借金で何とかしようと考えるような時代じゃないだろう。これからする借金など、経済が減速するこれからの日本に、返していけるわけがない。


日本のこれからを考えた時、一番大きな問題は、終戦以来日本を引っ張ってきたシステムややり方が、もう通用しなくなっているということだろう。貧しかった日本が、経済大国を夢見て、猛烈に頑張り、金持ちになっていった。そのジャパニーズドリームを、日本は20年ほど前に、達成したというわけだ。しかしそのやり方は、金持ちになってしまった日本には、もう通用しない。同じやり方を、今中国がひた走りに頑張っているわけだろうが、金持ちになってしまった日本には、もうその真似はできない。

それでは日本は、これからどうしたらいいのかというのが解らないままに、ここまで来てしまっているわけなのだよな。その途中で震災と原発事故が起こり、このままではいけないということが、なおさらはっきり解るということになってしまった。

僕はこの混乱は、まだまだ続くと思うのだよな。あと20年くらいは続くんじゃないか。

「今までのやり方」というものは、何も政治家や財界の人たちに限ったことじゃない。日本人の一人一人が持っているものだろう。

今回菅首相を見ても、団塊の世代特有の、あの他人を押しのけ、何としてでも自分が一番になろうとするという、高度経済成長時代の考え方が、まったく抜けていないんだなとつくづく思った。だからこれまでのやり方で、成功体験を持っている人は、新しいやり方を見つけることなど無理なんじゃないか。またもし誰かが見つけたとしても、みんなでよってたかってそれに反対して、潰してしまうことになるだろう。

僕ぐらいの世代でも、やはりこれまでのやり方の中で、いい思いをしてきた部類に属するのじゃないかと思う。バブル真っ盛りの頃に仕事を始め、仕事とはこういうもんだとか、それなりに考えているものがあったりするわけだ。

僕は日本は、そういう成功体験を一切持たない世代が、社会の中枢を占めるようになるまで、変わらないんじゃないかと思うんだな。それはたぶん、いま30代前半くらい以下の人たちじゃないか。

この人達は、大学を卒業したのは、完全にバブルが崩壊してから。就職もすごく大変だっただろう。それ以来、日本の経済は悪くなり続けているから、いい思いを一つもしていない。それにこの世代の人達は、コンピュータ世代であるということもある。小学校の頃からファミコンに親しみ、中学高校でマックやウィンドウズを体験し、コンピュータを使うのが当たり前という世代。

僕はこの世代が、今の野田首相の年くらいになる20年後あたりになって、初めて日本は、大きく変われるということになると思うんだよな。

そう考えると、僕の世代や、もう少し下の40代の世代がやるべきことが何かといえば、日本を決定的な破綻に至らせないようにすることとか。また何がほんとうに大事なのかを、一人ひとりが考え、それを後輩に伝えていくこととか。そういうことなのじゃないかと思ったりする。

とにかく今の時点で、日本を大きく変えるウルトラCなぞあるわけがないし、そんなことを言おうとする奴は、眉に唾して話を聞いたほうがいいんじゃないかと僕は思うね。



昨日は昼めしに、焼きそばを作った。この焼きそばは、いつも2玉で作るのに、昨日は1玉にしたもんだから、しょうゆの加減を間違えて、ちと塩っぱかった。


つなぎにうどん。冷凍うどんを湯がいて冷やし、おかかと青ねぎ、生姜に醤油をぶっかけて食う。冷凍うどんは、値段のわりに、すごくうまいんだよな。でも最近は、京都に来て、コシのないへなちょこのうどんも、なかなかいいなと思うようになっている。


晩飯は豚肉と水菜のうどんすき。水菜としいたけを、見切り品で買ったはいいが、使わずに冷蔵庫に入っていたのを消費するため。しかしこれは、しいたけが効いたんだな、出汁が死ぬかと思うくらいうまかった。やはりしいたけはエライのだ。


朝飯に、またうどんを食った。



2011-07-19

肉じゃが

今上陸しつつある台風は、けっこうでかいらしい。しかも時速15キロというスピードだというから、かなりのろまなやつだ。大きな被害などがなければいいと思うが、台風ってのは鉄筋コンクリのマンションの中にいたりして、出かけなくても済むのであれば、眺めている分には、悪くないものなのだよな。いつもとは違った風が吹き、雨が降るから、自然のエネルギーを感じることができる。

まあだいたい、純粋な自然災害ということなのであれば、あきらめるより仕方ないのだ。今回の大震災だって、地震と津波だけの話であれば、大勢の人が亡くなったとはいえ、どうすることもできなかったことだ。今回はそこに、原子力発電所の事故というものが加わってしまったことが、話をややこしく、そしてあまりに悲惨なものにしてしまっているのだよな。

よく今回の大震災を、太平洋戦争に例える人がいて、そういう場合だいたい、今のこの時点を、太平洋戦争の終戦の時点と重ね合わせるわけなのだけれど、それは違うんじゃないのか。
太平洋戦争というのは、当時の日本の政府やら軍部やらの幹部連中が引き起こした人災だ。
負けると分かっている戦争に突入し、不利な戦況を国民に隠し、終戦のタイミングを誤って空襲や沖縄上陸、原爆投下を許し大惨事をまねいた。
それに匹敵するようなことが、今まさに、これから始まろうとしているんじゃないかという感じがするんだがな。
だから今のこの時点は、太平洋戦争の開戦前くらいに当たるのじゃないかと思うのだ。

あの「脱原発」というのがいちばん怪しい。
太平洋戦争開戦前に、「大東亜共栄圏」という思想があって、知識人がこぞって賛成したのだそうだ。
英米が中心となった、侵略的な世界観ではなく、もっと共存共栄をめざすような、そういう新しい世界をアジアに作らなければいけないのじゃないか。
それが日本の使命であって、戦争はそのために行う「大東亜戦争」なのだ、という話だ。
これに京都学派を始めとした、そうそうたる哲学者が賛成した。
なんかそれって、「脱原発」と似ているんじゃないのか。

福島原発があれだけの事故を起こして、しかもその責任者であったはずの東京電力やら経産省やら政府やらの人たちが、ことごとく責任逃れをするようすを目にすれば、今後どんな地域だって、いくらお金を積まれても、もう原子力発電所の新設を認めることはないわけだ。
だから、「原子力発電所を新しく造らない」という消極的な意味では、脱原発はすでに達成されている。

「脱原発」をいう人は、それではさらに何を求めているのか。
「全原子力発電所の即時停止」ということならば、経済的な問題を何一つ考えずに、無謀な戦争に突っ込んでいったのと、何も変らないのじゃないか。

原発を止めて、明日から日本の経済はほんとうに大丈夫なのか。
脱原発の人たちは「大丈夫だ」というけれど、そんな議論を僕はきちんと聞いた覚えがない。
少なくとも脱原発を言うほとんどの人は、そんなことちゃんと考えてやしないだろう。
自分たちの生活が明日からどうなるかを、ちゃんと考えもしないで、感情的にものを言っているんだ。

今本当は大切なのは、感情的に原発に賛成か反対かを言うのじゃなくて、きちんと冷静に物事を分析し、これからどうしなくちゃいけないかを考えることなのだ。
これまで原発を推進してきた人たちは、自分たちの考えに誤りがあったことをきちんと認める。
福島原発の事故がなぜ起こったのかをきちんと検証する。
日本中の原発の安全性をすべて確認する。
電力の供給について、どういう方法でどれだけのことができるのかをちゃんと予測する。
そうしたものの上に立って、「それじゃ日本はこれからこうしていきましょう」としないといけないのじゃないか。
それをすべてすっ飛ばして、脱原発、自然エネルギー、そういうところに感情的に突き進んでいって、いいことがあるわけがない。

もちろんそれは、脱原発の人達だけが悪いということじゃないだろう。
原発を推進してきた当事者たちが、あくまで責任逃れをしようとするというところにも、大きな問題がある。
原発推進、原発反対、その両方が合わさって、日本をめちゃくちゃな方向へ進めようとしているということなのじゃないかと、僕は思うのだ。

また怖いのは、この脱原発の流れに菅首相が乗っかって、自分の権力を温存させようとしていることだ。
これで原発解散でも打って、脱原発組が勝ったりしたら、日本はそれこそ破滅だな。
菅首相の後に橋下徹が首相にでもなった日には、日本はおしまいだ。

まあしかし、日本というのは、破滅しない限り方向が変えられない国なのじゃないかという気もするのだよな。
「原理」とか「原則」とかいうものを持たず、妥協して、物事を曖昧にさせたままやっていくことで、力を発揮する国民性だから、原理や原則こそが必要な今のようなときには、どうすることもできない。
だからこのまま脱原発へ突き進んで、数年たって破滅して、それでやっと、方向を変えることができると。
そういうことになるんじゃないかと、僕は思うんだがな。


とまあ、そういうことになったとしても、人間はめしを食っていかなくちゃいけないのだ。

三条会商店街で露店を出して、すぐきやら野菜やらを売っている農家のおばちゃん。
このおばちゃんが、またほんとにいい人で、僕はこのおばちゃんを見かけると、どうしても何か買ってやりたくなってしまうのだ。
すぐきやらぬか漬けやら、すぐに食べられそうなものならいいのだけど、昨日はつい、袋にたんまりと入った玉ねぎ、200円で買ってしまった。

安いのだけれど、この量を使いきれるかどうか、はなはだ自信がない。
まあしかし、買ってしまったものは使わなければいけないということで、とりあえずいちばん玉ねぎを消費できそうなメニューとして、肉じゃがを作ってみた。

この肉じゃがは、僕は非常に自信作なんですけどねぇ。
ちょっと誰かに、味見をしてもらいたいもんです。
今まで食ったすべての肉じゃがの中で、これがいちばん美味いと僕は思うんですよねぇ。
一人暮らしが残念なのは、自分が美味いと思っても、それを証明できないことなんですよね。

作り方はとても簡単。

ジャガイモやらニンジンやらを切って、フライパンに入れる。玉ねぎはこの時入れてもいいし、煮上げるすこし前に入れて、シャキシャキ感を残してもいい。僕はそうします。
ジャガイモは、切ってからしばらく水にさらしておくと、煮崩れしにくくなる。

水を1カップ入れ、フタをして強火にかける。
沸騰したら、3分くらいそのまま煮る。
砂糖をスプーンに5杯くらい、バカバカ入れる。
また2分くらい煮る。
牛コマ肉を入れ、醤油を、すこし足りないかな、というくらいの量入れて、2分くらい煮る。
味を見て、醤油を追加して、ちょうど良い加減にして、3分煮る。
以上で煮時間10分。
10分以上煮てしまうと、ジャガイモが煮崩れてしまうから、ぜったいダメなのだ。
そしたらあとはフタを取って、フライパンを煽りながら、上下を返して、煮汁をほぼ完全に煮詰めてしまう。
青ネギと七味唐辛子をふって食べる。

ジャガイモを、完全に煮汁をかぶせずに煮ることになるから、それがかえって、蒸したようになって、ほっくりして美味いのだ、これが。

酒は日本酒。2合飲んで、日本酒はなくなって、さらに焼酎を1合飲んだ。

残りの肉じゃがで、今日は白めし。
いやこれはたまらん。


2011-07-14

今さら脱原発宣言

菅首相が、
「原発に依存しない社会をつくる」
と今頃になって明言したわけだ。
これはどういう意味があるのかな。

脱原発というのはすでに、「国民の総意」であるとも言えることになっている。
あの原発事故が起こって、東京電力やら原子力安全保安院やらの体たらくを見てしまえば、これから原発を新設することなど国民が許すはずがない。
それは誰がなんと言おうと、実質的にそうなっているのであり、べつに今さら菅首相に言われなくたって分かっていることだ。

菅首相の実質的な政策決定は、浜岡原発を止めたり、原発のストレステストを実施することにしたり、再生可能エネルギーの固定買取制度の成立を退陣の条件にしたりと、脱原発の方向に進んでいることは、誰の目にも明らかだった。
これがもっと早く、2ヶ月か3ヶ月前にこの脱原発宣言をしていたら、国民は菅首相に対して、拍手喝采しただろう。
でも今さらそれを言われたって、
「また延命か」
というくらいにしか思えないということだよな。

こうやって見ていると、菅首相というのはつくづく「国民目線」のセンスがない人だと思ったりする。
国民がどう感じているのかとか、感じ取れる神経がないのだろうな。
しかしもちろん、それは何も菅首相に限らず、自民党にしたって、民主党の他の閣僚にしたって、大して変わらないことだ。
菅首相だけが、飛び抜けて能力が低いというわけでもない。

これが例えば、橋下大阪府知事みたいな、もっと目端のきいたやつが首相だったら、今頃東電やら経産省やらを相手に丁々発止の戦いを繰り広げていたのかもしれない。
そしたら国民は、拍手喝采してそれを迎えただろう。
でもその方が、日本にとっては危険だよな。
国民の人気を取るのがうまいやつは、陰で何をするか分からない。

菅首相がどんくさいおかげで、これまでの日本の政治の何がどうダメなのかということが、反吐が出そうなほど露わにはっきり見えてしまっている。
遠からず選挙だってあるのだから、そこで国民は、日本の進路について大きな選択をしていかなければならないことになる。
その選択を考えるための十分な時間が、こうやって与えられているということは、いいことなのだと僕は思うがな。

しかし菅首相、総理大臣やってるのが楽しくて仕方がないのだろうな。
初めの頃は、何かやっては叩かれ、やらなくても叩かれ、「それじゃ俺はどうしたらいいんだよ」くらいにむくれたりもしていたのだろう。
しかしそろそろ就任以来1年が過ぎ、多少は日本の操縦の仕方が分かってきたということだ。
楽しくて楽しくて、辞めたくないのだろうな。
まあ気持ちは分かるよ。
長居してもらいたくはないが。


昼めしは、卵入りの赤だし。
味噌の量をまちがえて、ちょっと味が薄かった。
しかし赤だしというのは、味噌汁とは別の食い物だと言ってもいいくらいだな。
「赤だし」と「味噌汁」の違いは、「お吸い物」と「味噌汁」の違いくらいはあるんじゃないか。


晩めしには、豚肉と小松菜の焼きそば。
もう最近は、「何でも焼きそば」式なのだ。
「何でも焼きそば連合会」とか結成しようか。
うそ。

いやこれはうまいっすよ、ほんとに。
まず「豚肉と小松菜の炒め物」がうまいということは誰が考えても分かるだろう。
そこに中華麺が、絶妙な形で絡んでくるのだから、うまくないというのは有り得ないのだ。

ただあえて問題を言えば、焼きそばは日本酒には合わないな。
「炒め物」というのが、日本酒には合わないのだ、たぶん。
だから日本の昔からの料理には、炒め物がないのだろうな。

やはり炒め物には、ビールか焼酎ということだよな。

2011-07-09

脱原発はいいんだが…

今国民で多数決をとったら、「脱原発」ということになるのだろう。

まずあれだけの事故が起こって、原発の安全性というものが根底から揺らいだわけだ。
さらにそれを何とかごまかそうとする東京電力や経産省、財界などの姿勢も、露わに見えてくるようになってしまった。
ああやって自分の会社が儲けることしか考えないというのは、もういいよと。一部の人が儲けるための仕組みではなく、もう少しみんなのためになるやり方を考えようよというのが、最大公約数として見れば、日本人の多くが思っていることなのじゃないか。

しかしそれが政治の上では、そう言うのが菅首相一人だというのが、なんとも不思議なんだよな。
自民党や公明党という、これまで原発を推進してきた人たちが言うのは、解らなくもないとしても、民主党でもほとんどの人が、原発推進ということになっている。

たぶんこれまで日本を形作ってきた枠組みというものが、それだけ強固だということなのだろうな。人間関係やら法律やらお金やらでがんじがらめになってしまって、身動きが取れなくなってしまっている。

ところが菅首相というのは人格破綻者だから、そういうことを一切無視して「脱原発」を言い、国民の人気を得ることで、自分の延命につなげようとしている。
昨日の国会で菅首相は、
「自民党と公明党も、これまでの原発推進の責任をきちんと感じてもらいたい」
と言ったそうだが、まったく当然。
「なぜそれをもっと早く言ってくれなかった」
と言いたくなるようなことだよな。

でも本当は、こうやって単純に賛成か反対か、という問題ではないはずなんだよな。
原発だけの問題ではなく、日本のこれからの、特に経済のあり方について、きちんと議論された上で、その中に原発の問題を位置付けていくと考えなければいけないのじゃないか。
でもそれは、今の日本の政治には無理なんだろうな。
人格破綻者があのまま突っ走ると、あとで色々不都合が起こってきそうな気もするのだけれど、仕方ないということだ。

原発反対を言う人も、それでは原発がなくなってしまうことで、自分の友だちや知り合いが失業したり、生活できなくなったりしてもいいと思っているかといえば、そうではないだろう。
エネルギー問題は日本の経済の中心的なことだから、下手にいじると経済がめちゃくちゃになってしまう。
経済的な影響を最小限にしながら、原発をフェードアウトさせていく、ということを考えなければいけないのじゃないかと思うが、少なくとも菅首相がそれを考えているようには見えないからな。

日本はこれから、まだまだひどいことになっていくような気がするのだけれど、それが日本の宿命なのだろう。
甘んじて受け止めるしかないわけだよな。


関西は昨日で梅雨明け。「いかにも夏」という雲が、ぽかぽかと浮かんでいる。
あの雲の上に温泉があれば、僕はそこでゆっくり浸かって、そのあと雲の綿布団で昼寝がしたい。

昼めしは肉じゃがの残りと白めし。
白めしは蒸らす時にきちんと火を入れるようにしたら、いやうまいのなんの。
ほんとにたまらんわ。白めし。


キャベツのソーミンチャンプルー。こないだ失敗したのだけれど、昨日は最高にうまくいった。
要はキャベツを、柔らかくなるまであらかじめ下茹でしておくこと。
もちろん素麺は、茹でたら水で洗い、よく水を切っておく。
そしたらあとは、フライパンを温め、ツナ缶を油ごと入れて、キャベツを入れさっと混ぜ、素麺をしばらく炒めて、塩コショウして出来上がり。
ツナ缶のうま味がばっちり行きわたるから、ほかに調味料はなにも必要ないのだ。

酒は大七からくち生もと。
炒めた麺をつまみに酒を飲むっていうのは、かなりイケるんだよな。
昨日は3合も飲んでしまった。


2011-07-08

色々考えると分からなくなるのは仕方ない

日本は一度「江戸時代」に戻ってみたらいいんじゃないかと思うのだが、それはダメなのかな。

だいたいが小さな国土で、山が多いから住める場所も少なくて、資源も限られている。そこで自然と調和し、限られた資源の範囲で出来ることだけをやる。

そういう生活に戻ってみたらどうなのかと思うんだがな。

例えば会社なんかで、無理に無理を重ねて一生懸命仕事をする。そうするとどうしたってストレスが溜まって、それを解消するために、仕事が終わると盛り場に繰り出さないと気が済まなくなる。
そうやって、「生産」と「消費」とを左右に大きく振りながら生活していくことが、経済を成り立たせ、日本を豊かにしていくことだ。
これまでそういう風に考えて、日本は世界の経済戦争に参戦してきたわけだ。

その行き着く先に、今の原発問題もある。

結局これまでの経済状態を保つためには、多大な電力が必要だから、それを賄うためには原子力発電所が必要だと、そういう論理だ。

でもそろそろ、そうやって頑張って頑張って、経済戦争を戦い抜くということは、やめてみてもいいのかもしれないという気がするんだよな。

ただ問題は、それをやめると日本はどうなるのかということだ。

まあ経済的に貧しくなるのは間違いないわけだ。

安くて大量の電力が必要な大企業は、日本から出ていく。だいたいそれ以前に国民が物を買わなくなるわけだから、つぶれる企業も出てくる。失業者は街にあふれる。外でお酒を飲んだりもしなくなるから、飲み屋もつぶれる。等々。

それはたしかに、あまり幸せなこととは言えないから、諸手を上げて「それでもいい」とは言えないわけだよな。やはりきちんと食って、生活していくということも大事なことだ。

僕の場合、このところ、日本のことをあれこれ考え出すと、そのあたりでどうしたら良いのか分からなくなって、思考停止状態になる。
もっと慎ましい生活をしてみてもいいと思うが、かと言って他人の不幸を推奨するわけにもいかない。

まあしかしべつに、何もかも分かっている必要などないわけだ。日本だってこれから、なるようにしかならない。
結局は日本人の「総意」というものが、この国のこれからを決めていくことになる。
でもその総意の中の、1億分の1には、僕も入っているわけだから、それなりに真面目に考えたいとは思うのだよな。


一昨日の昼めしは、キャベツのソーミンチャンプルー。まあうまかったのだけれども、作り方の手順を失敗したと思うのだよな。

僕がこれまで作っていたソーミンチャンプルーは、ニラを使っていた。ニラは瞬間的に火が通るから、フライパンにツナ缶を入れて、ニラを入れて、それからゆでた素麺を入れて…という作り方で問題なかった。
同じ手順でキャベツをやってみたのだけれど、キャベツはニラと違って火が通るのに時間がかかるものだから、延々と炒めるうちにツナが乾いて焦げ付いてしまった。
僕が思うにこれは、素麺を茹でる時、キャベツも一緒に下茹でしてしまったら良いのじゃないか。
今度作る時はそういうやり方をしてみるつもり。


昨日の昼めしは馴染みの喫茶店「ikoi cafe」のランチ。豚ロース肉の生姜焼きに万願寺とじゃこの炊いたん、その他。

万願寺はヘタも取らず、種もそのままで、大きくぶつ切りにするだけで炊いていた。僕は今までわざわざヘタと種を取り、小さく刻んでいたのだが、そんな必要ないんだな。


晩めしは肉じゃが。グルメシティでは毎週木曜の特売で、オーストラリア産の牛コマ肉を安く出すので、いつもそれを使って肉じゃがを作るのだ。
作り方は極めてシンプル。カップ一杯の水に砂糖と醤油で味をつけて、野菜と肉を煮汁がなくなるまで煮る。以上。
調味料は他に一切入れないし、アクも取らない。
調味料を入れるタイミングとか、最後に煮汁を煮詰めるためにフライパンを煽りながら上下を返したりとか、多少のテクニックがないわけではないが、別にそんなのどうだって、そこそこ美味しくいくはずだ。

ただ大切なポイントは、「七味をかけて食べる」こと。これをするのとしないのとでは、味が10倍くらいは違う。
肉じゃがに青ネギをかけるというのは、広島で覚えたやり方。これは好みでどちらでもいい。

酒は福島、大七からくち生もと。昨日もこれを2合。

2011-07-01

孫さん、ikoi cafe、ソーミンチャンプルー

木曜日は僕が馴染みにしている喫茶店「ikoi cafe」に昼めしを食べに行くと決めている。
いい店で30代前半という若いママが頑張っているから、応援したいと思っていて、週にいっぺんは行こうと思っているのだけれど、木曜というのは発売したての週刊文春が置かれるからで、ここでランチを食べて、コーヒーを飲みながら週刊文春を一冊読み切るというのを、僕は木曜日の日課としている。

今週の週刊文春では、ソフトバンク孫さんの自然エネルギー構想が叩かれている。
週刊新潮でもやはり孫さんを叩いているのだそうだ。

自然エネルギーといっても現在の時点では、ソーラーパネルにしても風力発電にしても発電効率は低く、到底原子力発電を代替するということにはならないのだけれど、それを孫さんが政権に食い込みながら推進しようとしているのは、単純にもうけを狙っているからだというのがその趣旨だ。

ソフトバンクはiPhone頼みの経営になっていて、借金も1兆円以上あり、通話料を安くしているから基地局の整備も進まず、実際大震災でもソフトバンクの携帯ははいちばん通じにくかった。
このまま行ってもジリ貧なので、新たな収益の柱をぶち上げる必要に迫られて、それで孫さんは自然エネルギーに邁進しているのだと。
実際自然エネルギーは、菅首相が退陣の条件とした固定買取制度が成立すれば、作った電気を国に決まった値段で買い取ってもらえることになるから、必ずもうかる補助金ビジネス、ボロもうけの商売だ。
孫さんは憂国の士などではなく、政治に食い込むことで大きな利益を得ようとする、現代の政商なのだと。

僕は孫さんの真意がどこにあるかについて、本当のことなど分かろうはずはないけれど、孫さんが原子力に替わる新たなエネルギー源が今こそ日本に必要であり、そのために自分は、事業家として出来うる限りのことをしようと思っているという、孫さんの気持ちは本物だと思っている。
僕もそれには共感できるし、実際僕も、今回のこの悲惨な原子力災害については、何か自分が力になれることをしたいと思い続けている。

でも孫さんの今回のやり方を見ていると、補助金を収益の柱にしようとするというのは、人の善意を当てにして商売をしようとしているというようなもので、事業としては「ひねり」が足りないのじゃないかと思うのだよな。

例えば思い出すのはジョン・レノン。
ビートルズは結成以来、ロックンロールからスタートしながらも、それに留まらない世界を表現できる新しい音楽を生み出しつづけて行ったわけだけれど、ジョンはそのころ盛り上がっていったベトナム戦争に対する反戦運動に影響されて、徐々にそちらに傾倒していくことになる。
しかし反戦というメッセージをストレートに出そうとすればするほど、音楽としては貧弱なものになってしまったのだよな。
その代表的な作品である「イマジン」は、国境のない世界を夢見るジョンの心根こそ美しいけれども、音楽的には見るべきものは何もないと僕は思う。
というか、そのレコードをお金を出して買いたいとは思わない。

ジョンはそのうち、音楽自体を作れなくなってしまって、長い休眠期間に入ってしまい、再スタートしようとした矢先に撃たれて死んでしまうわけなのだけれど、なんだか僕には孫さんがジョンと同じような道を歩もうとしているのではないかと思えてしまう。

何かをやろうとしたときに、その「目的」というものも重要なのだけれど、それをいかに実現するかという「手段」も大切なのだよな。
その手段というのは、「音楽」とか「事業」とか、そのほか文学でも科学でも政治でも何でも良いのだけれど、存在するためにはある一定の形をとる必要があるもので、元来保守的なものだ。
その保守性が、革新的な「正しい」目的からみると何ともまどろっこしく、まさに打破すべき相手そのもののように映ってしまうということがあるのかとは思うのだけれど、しかし結局はきちんとした手段なしに物事が実現するということはない。

それは一見遠回りのように見えるもので、そんなことをグズグズ言っているよりも、何でもいいからまずは行動するほうがいいと言いたくなるようなものであり、たしかにそれも必要な時があるけれど、でも結局は、きちんとした手段を整備していくことが一番の近道だ、ということなのじゃないかと僕は思う。

ikoi cafeのランチはアスパラの入った鶏のつくね。

京都では6月30日にこの「水無月」というものを食べる習慣があるということで、ママのお母さんが作ったというのをいただいた。
要はういろうにあんこを乗せたもの。

近くの神社で「茅の輪くぐり」というのをやっていて、これをくぐってお参りするといいことがあるというから、僕もやっておいた。
でもお賽銭は50円。

京都はこれからいよいよ祇園祭もスタートし、いい時期になるな。


晩めしは、昨日も炒麺シリーズ、豚と水菜のソーミンチャンプルーを作ってみたのだけれど、すごく失敗した。

焼きそばの要領で、酒と醤油のタレを使ってみたのだけれど、これが全くダメだった。
焼きそばの場合、蒸し麺を使うから、その麺がきちんとタレを吸い込むわけだけれど、素麺は茹でてしまうから、タレを全く吸い込まない。
なんだか水浸しの、煮物の出来損ないを食ってるようで、いちおう全部食べたけれど、素麺にタレを使ってはいけないということは、はっきり分かった。

しかも家のカセットコンロ、炒め物をするには火力が小さくて、水洗いした水菜を入れたらフライパンの温度が下がってしまい、そのあと入れたタレが沸騰しないものだから、酒が十分煮切られず、アルコールの風味が残ってしまうし、兎にも角にもいいことがなかった。

しかし酒は賀茂鶴。
これは変わらずうまかった。