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2011-09-02

えげつないことするなと思うが

僕は東京に40年住んで、そのあと名古屋、広島、そしていま京都に、それぞれ1年半強、住むということになっている。その土地に、短い期間ではあっても実際に住んでみると、旅行や出張で訪ねるというくらいでは絶対にわからない、その土地その土地の習慣とか考え方とか、そういうもんが見えてくるのが面白い。

長年住み慣れた東京を離れて、初めて行った名古屋では、もうカルチャーショックの連続だった。例えば街を歩くとする。たくさんの女の子とすれ違い、エロオヤジであるこちらとしては、女の子をチラチラと目の端で追ったりするわけだ。

東京ではそういう場合、女の子は絶対にこちらを見ない。少なくとも僕は、女の子から見られていると感じたことは一度もない。東京では「見たら負け」というところがあるんじゃないかと思う。だから僕などは、いつも負け続けていたわけなのだ。

ところが名古屋の場合、女の子の方もチラチラこちらを眺め、しょっちゅう目線が合ったりする。名古屋ではそれが普通で、少なくとも「目線が合ったら負け」ではないのだろう。僕は名古屋へ行ったら、急に「モテる男」になった気がしたものだ。

名古屋では、地下鉄に乗るとおばあさんが普通に話しかけてくるのにも、死ぬほどびっくりした。東京だったら、電車の中で他人に話しかけるのは、頭のおかしな人くらいだろう。

同じ日本なのだが、それぞれの土地で驚くほど文化が違い、現代社会では人の行き来も多いし、狭い日本なのだから、もっと均質化されても良さそうなものなのに、その違いは根強く残っている。色々引越しをして、土地土地を渡り歩くというのは、根無し草になり寂しいのじゃないかと思うかもしれないが、僕は寂しさよりも、土地土地の文化を知る面白さのほうが、圧倒的に上回る。


京都へ来ても、色々思うところがあるのだが、一つものすごくはっきりと、東京との違いを感じさせるところが、「バーでのマナー」だ。

カウンター席しかない、小さなバーや居酒屋へ行ったとする。東京の場合、カウンター席での飲み方にははっきりとしたマナーがあって、それは「隣のお客さんに話しかけちゃいけない」ということだ。

カウンター席だから、自分の隣には、知らないお客さんや、知っていたとしても、友達ではないお客さんが座っていたりするわけだけれども、バーテンやオーナーの橋渡しなしに、そのお客さんに話しかけるのは、東京ではマナー違反なのだ。東京ではバーテンの橋渡しがあって初めて、隣のお客さんと話していいことになる。僕は馴染みになった居酒屋のママに、かなり厳しく教育されたから、それは間違いない。あと他のお客さんが話した話題を、自分が取って話してしまうことも、やはりマナー違反になる。

ところが京都の飲み屋へ色々行っておどろいたのは、カウンターに座った瞬間に、両隣のお客さんがここぞとばかりに話しかけてくることだ。店のカラーによっても多少の違いはあるのだが、京都では多くの飲み屋で、一見のお客は両隣はおろか、店中の全てのお客さんから、仕事やら何やら、根掘り葉掘り聞かれて、常連客の名前も4~5人は覚えさせられ、無理やり常連客の仲間入りをさせられるのは間違いない。

それだけ見ると、京都の方が、東京よりフレンドリーでいいようにも思うが、京都にだって、店の雰囲気を壊す困った客というのはいるわけだ。そういう客がカウンターで所構わず周りのお客さんに話しかけたら、それはお店だって、常連のお客さんだって困るだろう。

しかしそういう時のために、京都が持っている安全装置が、「お断りシステム」なのだと思う。

京都では「一見お断りの店」がけっこうある。祇園やらの高級なお茶屋だけの話じゃなく、安い居酒屋でも、扉に「一見お断り」の札が貼られている場合がある。またはっきりとそのように表示されていなくても、実はマスターやママが、相手を見て、「この人はうちの店の雰囲気には合わない」と思えば、一見客を断る店は多い。僕は幸い、まだ断られたことはないのだが、僕がよく行くバーでも、いわゆる酔っぱらいのオヤジが、鼻ちょうちんで気分よく扉を開けた瞬間に、マスターが「ごめんなさい」と言って断っていた。

一見に限らず、京都では、色々な理由で出入り禁止になるお客が、それぞれの店でけっこういる。京都では、店内でのマナーが東京のような形で外的に決められていない代わりに、問題のあるお客を中に入れないことで、店の雰囲気を守るということなのだろう。


日本の各地で、それぞれの文化があるというのはその通りなのだが、それを「東京とそれ以外の地域」という形で括ることもできるように思うんだよな。東京は日本の首都だから、他の地域にはない、独特の文化が発達していると言えるのじゃないか。

これは東京の文化じゃないかと僕が思うのは、「ルールやマナーを明文化したがる」ということだ。さっきの飲み屋のマナーの例でも、「これはいい、これはいけない」ということがはっきりと、単純な形で決められている。京都にだって当然マナー違反はあるわけだが、酔っぱらいのオヤジを断ったマスターに、「なぜ断ったの」と聞いても、「いやうちの雰囲気には合わないから」としか、マスターは答えられないだろう。いい悪いの線引きが、京都では曖昧なのだ。

ルールやマナーが明確であるということは、誰にでも公平で、一見いいことのように思えるけれども、逆に実は大事なことを見落としてしまう、ということがあるんじゃないか。ルールやマナーに従ってさえれば、何をやってもいい、というような風潮を、生み出してしまうところがあるんじゃないかという気がするんだよな。


経済学者の金子勝氏のツイートによると、8月26日に国会で、福島での除染についての法案が、審議されることもなく、自公民により強行採決されたのだそうだ。その除染法が、原案にはなかったとんでもない書き換えがされているのだそうで、環境省が、原子力ムラと相談の上、除染に関するすべてを決め、住民に決定権は一切なく、罰則をつけて強制的に従わせるものになっているのだという。どんなに能力があっても、民間業者は一切入れずに、政治家と官僚が自分たちの利権を守るために、都合のいいようになっているのだそうだ。

復興という巨大な利権を、濡れ手に粟で持っていくために、自分たちの都合のいいようにルールを決めていく。国会で、定められた手続きをきちんと経ているのだから、そこには何のルール違反もない。ルールを守っていればそれでいい、という考え方からすれば、何も問題ないことだ。でも「そんなえげつないことするなよ」というのが、普通の人の実感だろう。しかし「えげつないこと」は、ルールやマナーとして明文化できることとは違うから、何の強制力も持たないことになる。

「すべてを曖昧にする」というのは、日本が元々持っていた文化じゃないかと思うのだよな。物事を曖昧にすることにより、不要な対立を避け、みんなが仲良くしていく。日本はそうやって、狭い国土で平和に暮らしてきた。

そこにたぶん、西洋から、「全てを明確に定める」という文化が入ってきた。そうすると、それまでの日本が持っていた、曖昧でありながらも大事なことが、明確でないという理由で「意味のない」ものとなり、忘れさられてしまっていく。そういうことがあるのじゃないかという気がする。

西洋では、合理主義の一方で、いまだにキリスト教が、大きな力を持っている。キリスト教は、「倫理」について、たぶん今でも西洋を支配し、それが合理主義とのバランスを保っている所があるのじゃないか。

ところが日本は、西洋から合理主義だけを輸入してしまい、キリスト教は輸入しなかった。それが今日本で、倫理的に見てあまりにおかしいことが、平気でまかり通ってしまうようになっている、一つの理由じゃないかと思うのだよな。

もちろん僕は、「それではキリスト教を輸入しよう」ということを言いたいのじゃない。入ってきてしまった合理主義は、もう取り除くことはできない。すべてを曖昧にして済ませてきた、昔の日本に戻ることはできない。そうであるならば、合理主義をうまく飼い慣らし、日本人がもう少し心地良く暮らせるようなあり方を、何らかの形で見つけていく必要があるんじゃないか。

それがどういうものだか、僕にもよくわからないけれど、少なくともはっきりしていることは、それは政治家や一部の専門家に任せればすむ問題ではないということだ。日本人の一人ひとりが、考え、模索していかなければならない課題なのであると思う。

金子勝氏のツイート:
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109103045996052480
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109378653477015553
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109381013926461440
http://twitter.com/#!/masaru_kaneko/status/109386030322421760


昨日はグルメシティは、毎週木曜日の特売の「木曜もっくん」と、毎月1日の特売である「一の市」が重なって、巨大な特売日となっていた。しかし特売ってのは、どうして何でもかんでも、いっぺんに安くしてしまうのかな。品を替え、毎日順番に安くしてもらった方が、こちらとしてはあがたいんだがな。でもそれではスーパーとしては、意味がないということか。

そのグルメシティの特売で、昨日は鶏もも肉を買った。鶏もも肉はこのところずっと、汁の実にばかりしていたのだけれど、鶏もも肉自体を、一番おいしく味わうのだとしたら、僕は塩焼きだと思うのだよな。


塩焼きは、僕は粗塩だけをすり込んで、青ねぎとレモンをふって食べるのが好きだが、べつに好みでコショウを振ったっていい。でも間違いないのは、焼き過ぎないのが何より肝心だ。

僕はフライパンのフタはしないで、弱火でじっくり焼くようにするが、ちょっと赤いかな、というくらいで火を止めると、柔らかくてモチモチでうまいのだ。でも昨日は、久しぶりの塩焼きだったので、ちょっと焼きすぎてしまった。


茄子のおしたしは、前日硬すぎて失敗したから、もう一度チャレンジした。「ゆで過ぎかな」というくらいゆでてみたら、やはりゆで過ぎだったが、ゆで過ぎると困るのは、絞るとき形が崩れてしまいそうになることくらいで、味は硬いよりは100倍うまい。でももう少し硬めでもよかった。


こういうつまみで酒を飲むと、酒が非常にうまくて、つい飲み過ぎてしまいそうになるのだが、昨日はなんとか2合で終われた。