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2013-05-08

とうとうギターを買ってしまった。

昨日は家では料理は作らず、「酒房 京子」へ。

酒房 京子

いやとうとうギターを買ってしまい、
つい盛り上がってしまったもんで・・・。



学生時代はバンドを組んだりもしていたので、
40を過ぎた頃から、「またギターが弾きたい」という気持ちは、
徐々に芽生え始めてはいたんですよね。

「おやじバンド」の話なども、見聞きするたび、
「気持ちがわかる・・・」
と思ってはいたのだけれど、
ぼくの場合凝り性だから、
やり出したら途方もない時間を使ってしまうのが、目に見えている。
「今はそんなことしてる場合じゃない」
と、自重していたんです。

しかしここ2週間ほどのあいだに、
ダイムコンサート」と「大宮グッドフェスティバル」の2回にわたり、
素人がライブ演奏する模様を見てしまったものだから、
とうとう火がついてしまった・・・。

寝ても覚めてもギターのことばかり考えるようになってしまい、
ネットで値段などを調べ始めてしまったら、
もうガマンできない。

昨日はとうとう、
「あそこに入ってしまったらおしまいだ」と思っていた近所の楽器屋を覗いてしまい、
そのまま即決で、エレキギターを買ってしまったという次第。



買ったのは、白いテレキャスタータイプ。

テレキャスター 激安

最低でも2万~3万円はすると思っていたら、なんと8000円。
最近は中国製の、安いのが出まわるようになっているとのこと。

小さなヘッドフォン用のアンプも購入、
昨日は早速、暇さえあれば、ガチャガチャと弾いていました。

しかし30年のブランクは、さすがに大きい。
昔は平気で弾けていたものが、今では指がまったく動かない。

よく40過ぎて、海で子供を助けようとして飛び込んで、
自分が溺れて亡くなってしまうお父さんの話を聞きますが、
それがどういうことなのか、よく分かりました。



夜はスピナーズ

四条大宮 スピナーズ

コンサートに出演していた飲み友達の九十九一似の男性がちょうど来たので、
ギター談義に花が咲く。

ぼくはやはり、ギターを買ったからには、
人前で演奏したいと思うわけなんですが、
スピナーズのマスター キム君に「ここでライブをやらせてくれ」と聞いたら、

「高野さんはミュージシャンではないのだから、
そう簡単に単独ライブなどできません」

との答え。

まことに当然。



九十九一は、さすがバンドマンの人脈が広いから、
ライブの企画を色々と考えてくれる。
でもどれも、会場を手配したり、チケットを売りさばいたり、
けっこうな手間がかかりそう。

そういうライブも、ゆくゆくはやりたいけれど、
それよりもう少し、手軽に人前で弾ける場がほしい。

すると、

「それなら鴨川がいいんじゃないですか」

と九十九一。

なるほど、屋外で、通り過ぎる人を相手にライブをやるのが、
最も簡単にすぐできる。

とりあえず、その方向で考えることにした。



話に花が咲くうちに、酒も進みます。
「ちょいと一杯」のつもりでいたが、
もちろんそんなので終わるわけがない。

ビールをお代わり、さらにウイスキーの水割りも注文し、
もう止められない。

「まだ食事していない」というお客さんがいたので、
連れ立って「酒房 京子」へ。

昨日も京子はウマかった。



赤こんにゃくとタケノコの煮物・・・。

酒房京子 赤こんにゃくとタケノコの煮物



カレイの煮付け・・・。

酒房京子 カレイ煮付け



ハモの鍋・・・。

酒房京子 ハモの鍋



雑炊・・・。

酒房京子 雑炊




日本酒に焼酎をシコタマ飲み、カラオケで盛り上がり・・・、

酒房京子 カラオケ

ヘベレケで帰宅したという次第。



朝は釜玉うどん・・・。

釜玉うどん

昨日は久しぶりに楽器を引いたら、
なんだか今日は、寝覚めが違う。

いつもより気持ちが穏やかで、
デトックスされた気分・・・。



「調子に乗ってやり過ぎないでよ。」

チェブラーシカのチェブ夫

気を付けるよ。




2012-10-24

名古屋行き

名古屋行き。まずは新幹線の車内でビール。






着いたらビール。






さらにあんかけスパゲティ。
やっぱり名古屋へ来たら、これを食べないとね。





用事が終わったらまたビール。











・・・となるわけだけれど、今回の用件はお葬式だった。

亡くなった友人の女性Yさんはもう7年以上の付き合いで、亡くなる直前までメールでのやり取りがあった。
僕のブログも見てくれていて、和久井映見との恋の行方を案じてくれてもいた。



死後の世界などたいして関心もなく、信じてもいない僕だけれど、今回名古屋へ行くにあたって、亡くなったYさんの存在を身近に感じざるを得ないことが起こった。

金がない僕は、名古屋へ行くための旅費を和久井映見に借りることにしていた。
快く承諾してくれた和久井映見だったけれど、出発の当日に金の受けわたしを相談しようと思って連絡しても、電話に出ない。

よく疲れて着信に気付かぬまま寝ていることがあるから、今回もそんなことだろうと思ったけれど、家を出ないといけない時間は刻一刻と迫ってくる。
このままではお通夜の時間に間に合わないと思ったその時・・・。



原稿料の先払いを知らせるメールがぽっこりと届いた・・・。



まったく予定していなかった入金を、このようなタイミングで得た僕は、

「まったくもう、仕方ないなあ・・・」

Yさんが苦笑しながらつぶやく声を聞くような思いがした。



お通夜でYさんに対面した時も、同じような感覚を持った。
生前と変わらぬきれいな顔のYさんは、ただ目を閉じ、横になっているだけのようにしか見えない。

いっしょだった名古屋の仲間たちも同じだったのだと思う。
Yさん、そしてご主人のKさんを囲み、お通夜の席には似つかわしくない賑やかな声で今後の飲み会について話す。

「Yさんの手料理がないから、次回はケータリングで仕方ないね・・・」

そこへYさんのご両親も加わってくる。

「一人になってしまったKさんを、ぜひ励ましてやってください・・・」



明るい笑い声が、お通夜の場にひろがっていく・・・。



月並みな言葉だけれど、Yさんは生きている。

より大きな存在となり、僕達を見守っていると、僕にはたしかに感じられる。





2012-07-19

イワシのトマト煮

今日の晩酌は・・・。
イワシのトマト煮と、水菜と豆腐の地中海風サラダ。



イワシは安いしうまいし年中あるしで、しょっちゅう食べるおっさん。

料理の仕方によっては、けっこうなごちそうに見えるのもポイントが高い。

今日は、地中海風にトマト煮。



早速やってみよう~!



まずはイワシを焼く。
イワシは頭をおとし、ハラワタをかき出してよく洗い、水気をぬぐい取ったら、軽く塩コショウして小麦粉をまぶす。
フライパンに大さじ1くらいのオリーブオイルをひき中火にかけて、イワシの表と裏をさっと焦げ目がつく程度に焼く。
焼けたイワシは、一旦とり出しておく。



野菜を炒める。
フライパンにオリーブオイル大さじ3くらいをひき中火にかけて、みじん切りにしたニンニク1かけ分と、やはりみじん切りにした玉ねぎ4分の1個くらいをじっくり炒める。
5分くらい炒めて、玉ねぎがちょっと透き通ってきたら、5ミリ厚さくらいに切ったジャガイモを炒める。



煮込むよ~!
白ワイン少々をふり入れ、カットトマト缶をそそぐ。
塩1つまみとコショウをふり入れ、イワシをもどし、シメジなどをいれる。
15分ほどフタをせずに弱火で煮込み、最後に味見し塩加減すれば出来あがり!






出来あがったイワシのトマト煮・・・。
パセリを散らすとうまそ~。



どれどれ、食べてみる・・・。
うま~い。
イワシは骨もあるけれど、かまわず頭からかぶりつく。



ジャガイモ・・・。
これもうま~い。
地中海風の煮込み料理にジャガイモって、ほんとに合うな。






あとは豆腐と水菜の地中海風サラダ。
3センチくらいに切った水菜2分の1把、皿に15分くらいのせよく水切りした木綿豆腐、うす切り玉ねぎ2分の1個、ニンニクみじん切り少々をボールにいれ、オリーブオイルとレモン汁をたっぷり、塩1つまみ、それにほんの隠し味程度の砂糖としょうゆをいれ、手で豆腐をつぶすようにしながらよく混ぜる。
半分に切ったプチトマトをくわえ、さらに軽く混ぜる。



これもまたまたうまいです。
洋風の味にも、豆腐はバッチリ合う。






酒は焼酎水割りを3杯。






最近、3ヶ月で10キロほど痩せたおっさん。

朝めしと昼めしを食べないことにして、夜は酒だけ、あとはおせんべいをポリポリかじるようにしていたらこうなったのだけれど、もしかしたらそのおせんべいに秘密があったのかもしれないと気が付いた。

黒豆せんべい。
黒豆ダイエットというのもあるそうで・・・。

このおせんべい、1日に3分の2から1袋くらいは食べちゃいます。



おせんべいは、まず小さく割ってから食べるおっさん・・・。




このおせんべい、塩味がそれほどきつくないのもいいところ。




2012-02-16

一回やってしまえば面倒くさくなくなる。
「イワシのつみれ鍋」


人間は、様々なものを生み出しつづけていくわけだけれど、それが「ほんとうに必要なのか」と言われれば、疑問である場合も多い。

新しいものが生み出されて、「いや、それがあるおかげで便利になったよ」と言うかもしれない。

たしかにその通り、便利にはなるだろうが、それではそれがなかった以前、生活が成り立っていなかったのかといえば、そういうわけではないだろう。

べつに原始時代から、人間はそれなりに、十分満足した生活を送っていたにちがいない。



料理にしても、おなじことだ。

だいたい料理などという七面倒くさいことをするのは、人間だけだ。

動物は、文句もいわずに、毎日おなじものを食っている。

パンダが、「もうオレは笹を食うのは飽きたから、何かちがうものを食べさせてくれ」とは言わないわけだ。

人間だけが、毎日ちがうものを食べないと気が済まない。



人間は、大昔から、おなじものを食べつづけることができなかったのだろう。

べつに栄養分だけ考えれば、生のサツマイモをかじっていたって問題ないはずだ。

むしろ野菜などは、生のままのほうが、加熱によって分解されないから、栄養分が豊富だったりする。

しかしわざわざ火を使い、焼いたり煮たりするのは、人間が、おなじものを食べつづけると、すぐに飽きてしまうからなのだろう。



ここ20年ばかりのあいだに、インターネットの登場により、社会は大きく変わった。

その変化の具合については、さまざまな人が、莫大な数の考察をしているわけで、ここでさらに、それについて言うことはない。

しかし現在、多くの人が、インターネットの通信費に、たくさんお金を遣うようになっているのは、間違いないことだろう。

特に若い人の場合、そのしわ寄せで、逆にお金を使わなくなっているのが、自動車ということなのだろう。



30年ほど前なら、若い男は車がなければ、恋人を見つけられなかった。

デートをするには、「ドライブへ行く」のが定番だった。

車自体は、親のものだったりするから、その維持費をすべて払っていたというわけではないにしろ、少なくともガソリン代は、自分で払わなければいけなかった。

ガソリン代も、そこそこ馬鹿にならないから、そのためにアルバイトもしたものだ。



しかし今の若い人を見ていると、車に乗るのは少数派なのじゃないか。

東京にいる大学生の息子などを見ていても、免許すら取ろうとしていない。

それより必要なものは、圧倒的に携帯電話だ。

車などより、携帯電話がなければ、恋人を見つけることは難しいのだろう。



携帯電話といっても、今は通話するより、インターネットの接続に使うのが中心となりつつあるのだろう。

スマートフォンの登場により、携帯端末から、パソコンと変わらないレベルで、インターネットで用が足せるようになっている。

そうなると、ネットの接続費用が馬鹿にならない。

家のパソコンを、インターネットに接続している場合だと、ネットの接続料を、携帯と、パソコンと、2重で払わなければいけないことになる。



携帯とパソコンとのネット接続を一つにまとめてしまうことができれば、ネットの接続料は、半分になるわけなのだが、最近、いい方法を見つけた。

イーモバイルのポケットWifiを使うことだ。

2月から使い始めているのだけれど、下りで42ギガの速度が出るから、これまで光でつないでいた自宅のパソコンも、それほど遜色なく使うことができる。

ポケットWifiを持ち歩けば、iPhoneなどのスマートフォンも、もちろん使える。



イーモバイルは、以前のやつは、速度がぜんぜん遅かったから、自宅のパソコンに使う分には、やはりちょっと不便だった。

それにネットに接続する際、認証などに時間がかかるので、使い勝手も悪かった。

でもポケットWifiならば、パソコンが立ち上がるのとほぼ同時に、自動的にネットに接続される。

速度も問題ないから、NTTの光回線を解約し、ポケットWifi一本にしようと思っている。



ただしこれは、私のように、一人で暮らしている人間だけができるやり方だ。

家のパソコンを自分以外の家族も使う場合には、やはりパソコンには固定回線を引いておく必要があるかもしれない。

ただ夫婦2人の家族などなら、夫婦がふたりともポケットWifiをもつことにして、家のパソコンの固定回線を解約すれば、回線1つ分の節約にはなるかと思う。






昨日は、イワシのつみれ鍋にすることにした。

イワシのつみれの素朴な味は、以前から好きだったのだけれど、つみれを作るのが面倒だと思っていた。

しかし人間、おもしろいもので、何でも一回やってしまうと、それまで面倒くさいと思っていたことが、たいして面倒くさくなくなるものだ。

このあいだ豚のつみれを作ったから、イワシのつみれを作ることも、面倒とは思わなくなってしまった。



250グラムほどのイワシは、頭を落として、そのまま手開きしてしまう。

水道の蛇口の下で、まず親指の爪で腹を切り裂き、内蔵をとり出す。

それから両手の親指の爪で、両側から、中骨とそこに付いている肉とを切り離すようにしていって、最後は中骨をつまんで、下方向へ引きちぎる。

たいして難しくないし、どうせ叩いてしまうのだから、少しぐらいグチャグチャになってもいい。

開いたらよく洗い、水気を拭きとっておく。



開いたイワシを、包丁でよく叩いていく。

あらかた細かくなったら、ショウガ1かけと長ねぎ5センチ程度をみじん切りにしたもの、それにスプーン1杯程度の味噌を加えて、さらに叩いていく。

ここにゴボウのみじん切りを加えるとまたおいしいと、魚屋のおばちゃんは言っていた。



よく叩いたら、つなぎの片栗粉をまぶして、手でよくまぜ込んでおく。



昆布だしを沸かして、つみれをスプーンですくって、湯の中へ入れていく。

たっぷりの酒を注ぎ、みりんと醤油で味をつけ、5分くらい煮る。

青魚には甘みがないので、味付けはすこし甘めにするのがいい。



あとはここへ、白菜だの、豆腐だの、長ねぎ、シメジ、小松菜だのの、好きな野菜を煮えにくい順番に入れ、火が通れば出来あがり。



七味をふって食べる。

イワシのだしがたっぷりと出た汁が激ウマだ。



うどんにももちろんいい。





2011-09-13

無料理料理について、さらにあれこれ考えてみた


昨日も無料理料理の数々を食いながら、無料理料理について想いを巡らせたりとかするわけだ。

「無料理料理」とは、昨日のブログに書いた通り、味付けを全くしないか、または塩だけの味付けをしておいて、あとは醤油やウスターソースをぶっかけて食べるという、「料理とは微妙に呼べない料理」のことを指す、僕の造語だ。昨日の僕の晩飯を見ても、まず筆頭のサンマの塩焼き、それから冷やしトマト、冷奴、きゅうりとセロリの浅漬がそれに当たることになる。

この無料理料理スタイルは、世界的に見てどうなのだろう、どちらかと言えば少数派と言えるんじゃないか。お隣りの韓国は違うだろう。韓国ではほとんどのものは、しっかりと味が作り込まれている。「ヤンニョム」という唐辛子だの味噌だのニンニクだのを練り合わせたものが、日本の醤油的に使われるわけだが、それは基本的には料理の味付けとして使われるのであり、それを自分で付けたりかけたりして食べるというのは、そうそうはないような気がする。

中国だと「点心」が、無料理料理に当たるのか。餃子やらシュウマイやらを、小皿に自分で醤油や酢を混ぜわわせて調合したものに付けて食べる。でも点心はあくまで、簡易的な食べ方であって、日本の寿司や刺身、とんかつみたいに、料理の中心に躍り出てきたりはしないんじゃないか。あくまで味付けをして出すのが、中国料理の基本だろう。

ヨーロッパの料理は、僕はよく解らないところもあるのだが、やはり基本はソースで、ソースをかけた料理が出されることになるんじゃないか。ドイツなどウィンナーに粒マスタードを付けて食べたりするのは、あくまでオプションであり、ウィンナーに基本的な味付けはされているだろう。

世界の中で、無料理料理大国であると思えるのは、日本の他には、アメリカなんだよな。アメリカ人は、何にでもケチャップをつけて食べると言われる。ハンバーガーが典型で、ただパンの間に肉やら野菜やらを挟み、味付けはケチャップだ。日本が醤油やウスターソースをかけるのと、まったく同じセンスで、アメリカ人はケチャップをかけるのじゃないかと思える。

日本の中でも、実は地域により、無料理料理を好むのかそうでないのかということに、違いがある。無料理料理を好むのは、東京、それに大阪だろう。東京は、基本的に何でも醤油をかけて食う。大阪はウスターソース。京都と、それから名古屋は、料理を作り込む習性があると思う。名古屋では、とんかつを食べると、多くの場合、東京のように卓上に置かれているソースを自分でかけるのでなく、ソースがかけられて出てくる。味噌カツの場合はもちろんそうだし、味噌カツとドミグラスソースを選べる店があったりする。


無料理料理を「素材主義」と関係付ける人がいるのだが、それはどうなのかと思うのだよな。アメリカの友人が、「アメリカの料理は素材のおいしさを大事にするんだ」という説明をしてくれたことがある。素材のおいしさを大事にするから、塩だけで味付けして、あとは足りない人は、自分でケチャップをかける、という論理だ。大阪の友人からも、同じ言い方を聞いたことがある。

しかし「素材を大事にする」ということと、「味付けをしない」というのは、別のことだろう。京都のように、素材を大事にしながらも、素材に応じた様々な味付けをしていくという考え方だってあるわけだ。味付けをしないということは、何か積極的な意味合いがあると、考えなければいけないだろう。


無料理料理は一つには、たしかに素材と関係あるところはあるとは思うんだよな。寿司や刺身のことを考えてみれば、醤油はあらかじめかけてしまうより、食べる直前に付けたほうが、生魚の風味を損なわないということがあるだろう。サラダにしても、食べる直前にドレッシングをかけたほうが、野菜のシャキシャキした食感を味わうことができる。とんかつも、ソースは食べる直前にかけたほうが、衣のサクサクとした味わいを残すことができる。

しかしそれだけでなく、無料理料理は、「料理の味付けを他人にまかせてしまう」ということがあるだろう。味付けは、料理の方向性を決める、中心であるとも言えるものだろう。しかし例えば、とんかつ屋が、ソースをどこからか仕入れるのだとしたら、料理の中心であるはずの味付けを、ソース会社にまかせるということになる。寿司屋なら、醤油会社に、味付けをまかせてしまうということだ。

この一番大事なことを、人にまかせてしまうことって、いかにも日本人らしいという気がするんだがな。会社の方針は社長が決める。国の方針は、政府が決める。自分はそれを社長や政府にまかせているのであり、それについてはとやかく言わない。自分は自分のできる範囲のことを、精一杯やればいいんだ。僕などもわりと、そういう考え方になりやすいのだが、そのほうが何となく、いさぎがいいような感じがする。

昔のヤクザとかでも、「オレの命は、親分に預けた」みたいなところがあって、「仁義無き戦い」では、命を預けたはずの親分に、子分が片っぱしから裏切られていくわけだけれど、それが日本の美学みたいなところもあるんじゃないか。

さらに無料理料理では、タレをかけるのを、食べる人にまかせるということがあるわけだ。醤油でもソースでも、かけるものは決まっているのに、それをかけないで出すことで、食べる人が「自分で選択した」という気持ちになる。日本でも選挙とか、そんなところがあるんじゃないか。組織でがんじがらめにされて、結局投票する人は決まっているのに、一応投票所へ行って、その人の名前を紙に書いて出す、みたいな。

こうやって書いてみると、料理を作る人の責任逃れの尻拭いを、ただ食べている人がしているだけのようにも思えてくるが、まあしかし、僕もこの無料理料理が好きなのだから、日本人的な人間であると言えるのかも知れない。それに僕の場合、自分が作り、自分で食べるわけだから、何も問題ないのである。



昨日はサンマの塩焼き、焼き網からもうもうと上がる白煙と、さらにそのうち炎も上がりだし、火事にならないかとヒヤヒヤしながら見ているうちに、つい焼きすぎてしまい、黒焦げになってしまった。


万願寺の炊いたん。三条会商店街の八百屋で万願寺とうがらしを買ったのだが、やはり京都の野菜は、スーパーで買うより、八百屋で買ったほうが圧倒的に安いな。袋にいっぱい入ったのが130円。スーパーだとこの3倍か4倍はする。

八百屋だから、おっちゃんに万願寺の炊き方を聞いてみた。京都だから、野菜を煮るには薄味にするのだろうと思っていたら、なんとこってりと味付けすることが多いとのこと。それで昨日は、みりんと醤油をたっぷり入れて炊いてみたら、たしかに唐辛子のほろ苦い味と、甘辛い味とが非常によく合いうまい。万願寺はよくジャコと一緒に炊くが、かつお節でもまったく問題なく炊ける。


京都産のトマト。これも八百屋で買ったがほんとにうまい。



昼飯は、塩焼きそば。味付けは醤油と酒、チューブのニンニクと生姜なのだが、この醤油を少なくして、塩を入れてみた。これが大変成功し、野菜の炒め加減も、シャキシャキとした感じがきちんと残り、この焼きそばは非常にうまかった。



昨日は十五夜。このお月さんを眺めながら、ベランダでビールを飲んだりもしたが、十五夜のお月さんというのは、たしかにまんまるで、大きくて、しかも明るく、ほんとにきれいなものだな。


2011-09-07

一番したいことを我慢するからこそ面白いんじゃないか

人間は当然誰でも「欲望」を持っているわけなのだけれど、欲望をストレートに満足させようとすることは、ただ文化の貧困を招くばかりだと思うんだよな。現代は「やりたいことをやる」というのが最も素晴らしいことのように思われているところがあると思うけれども、日本人が戦後それを徹底的に追求してきた結果が、現在の日本の混迷であり、菅元首相の醜悪さだったのじゃないか。「総理大臣になりたい」というのは、僕も小学校の時思ったことだが、それをまっすぐ追求することが日本をあれほどの混乱に陥れることになるとは、ちょっと前の人達は思っても見なかったことだろう。

欲望を単純に満足させようとするところに、建設的な何かが生まれることは実はなく、むしろ世の中を色々眺めわたしてみると、「一番したいことをしない」と決めるところに、文化の花が咲き乱れるというところがあるんじゃないかと思うんだな。

典型的な例がスポーツで、例えばサッカー。誰でもボールを手で持ちたいだろう。でもそれをあえて禁止したところに、現在のサッカーの隆盛があるのじゃないか。ラグビーも同じだ。ボールは前に投げたいだろう。でもそれをさせないからこそ、様々なプレーが生み出されることになる。ボールを持ったら当然歩きたいのに、歩かせないバスケットも同様じゃないか。

京都の料理も似たところがあるという気がする。京料理は日本料理の代名詞とされているところがあると思うけれども、その京料理は京都の寺で坊さんたちが食べた精進料理が、一つのルーツであると言われる。

精進料理だが、やはりこれも、大きな特徴は、「肉と魚を使わない」ということだろう。これは僕が思うには、京都では元々、新鮮な魚を手に入れることが難しかったわけだ。新鮮な魚があれば、極端な話それをただ切って醤油をつけて食えばうまいわけで、どんな料理をしたってうまいものになる。新鮮な魚は日本の沿岸ならどこでだって手に入るから、そういうところの人たちは、どんな貧しい人だって、毎日最高にうまいものを食ってることになる。

しかし京都の貴族たちは、それが許せなかっただろう。自分たちはクソまずい、干からびたような魚しか食べられないのに、片田舎の貧乏人たちは、最高にうまい魚を食っている。それで仏教にかこつけて、魚を禁止してしまったのじゃないかと思うのだな。いやもちろん禁止したって、魚がうまい土地では、魚を食うに決まっているが、それは仏教的には正式じゃないと。仏教といえば、当時の最高の学問とも言えるものだったわけだからな。

それで京都では、日本人にとって最高にうまいものである、魚を使わずに、料理を組み立てるというチャレンジを始めることになったわけだが、その中で生み出されたものが精進料理だったわけだ。

僕はちょっと前に、嵐山の天龍寺で初めて精進料理を食べたけれども、正直言って感動した。魚を使えばなんのことはない、だし一つとっても、椎茸だの昆布だのを駆使して、上品な味に仕上げていく。野菜をおいしく食べるやり方を追求し、またゆずだのゴマだの山椒だのといった調味料に工夫をこらす。色鮮やかな見た目にして、見ても楽しめるようにする。京料理の精神はここにあるとも言えるんだと思うが、これらすべてのことは、魚がなかったからこそ、生み出されたとも言えると思うのだよな。


日々の食事を考えるという時にも、同じことが言えるんじゃないか。もちろん人間は誰だって、「うまいものを食いたい」と思うわけだが、ただ「うまい」ことを目標にしてしまうと、往々にしてつまらないものになってしまう。

だいたい金をいくらでもかければ、うまいものが食えるに決まっている。しかしそうやってただ金をかけてうまいものを食ったって、何にも面白いことはない。金をかけずにうまいものを食うところにこそ、日常の食事の面白さがあると思うんだな。いやもちろんたまには高いものも、食ったらいいとは思うけれど。

あと逆に金をかけずに、うまいものを食おうと思うと、現代ではふんだんに化学調味料を使うことになる。たしかにかっぱえびせんやカップラーメン、吉野家の牛丼が、うまいかまずいかと言われればうまいだろう。僕もそれは認める。僕だってそういうもので育ってきたわけだ。しかしただ化学調味料を使って、うまくしてしまうということにも、僕などは「てやんでい」と不満を感じるところがあるわけだ。やはり金をかけず、しかも化学調味料も使わずに、うまいものを食おうとするところに、面白さはあるんじゃないか。

というわけで、内容に比べて値段が圧倒的に安い、魚のアラとか、見切り品の野菜とか、大好きな僕なのだが、昨日は秋鮭のアラが、また150円という信じられない値段で出ていたので、ついついそれを買ってしまうことになるのである。



鮭をどうやって食おうかということになると、まずはただ塩をふって焼くというのが、誰もが認めるうまい食い方だ。汁の実にするのもいい。しかしあまりに同じ食い方ばかりをするというのも芸がないなと思っていたら、グルメシティでは鮭のそばに、「ちゃんちゃん焼きのタレ」というのを一緒に置いて売ってるわけだ。

ちゃんちゃん焼きというのは食ったことがないのだが、たぶん北海道の料理なんだろうな、鮭をキャベツだの玉ねぎだのといった野菜と一緒に、鉄板で蒸し焼きにするのだそうだ。それでタレというのが、成分表示を見ると、味噌と砂糖と、その他調味料というものだったから、それだけ確認して、タレは買わずに、自分で作ることにした。


フライパンに油をちょっと敷き、鮭のアラをならべる。このアラを並べた時点で、けっこうな量だったから野菜の置き場がまったくなくなってしまったが、気にせず上に、ざく切りのキャベツだの輪切りの玉ねぎだの、薄めに切ったじゃがいもだの、短冊に切ったピーマンだのを載せていく。


タレは味噌に砂糖、みりん、酒、醤油、それにチューブの生姜。それを野菜の上からかけ、フタを閉めて中火にかけてみた。


どうなることかと思ったのだが、野菜から出た水で、けっこうグツグツ煮えたようにもなり、なかなかうまそうだ。


というわけで食ってみたが、味噌を入れすぎたのが失敗で、ちょっと辛すぎた。しかしそれ以外はけっこうイケて、フライパンにいっぱい、食い切れるかと思ったが、あにはからんや、ぺろりと平らげた。蒸し焼きというのは、焼くと煮るの中間みたいなもので、鮭にはちょっとした焦げ目も付き、しかも野菜のうまみもちゃんと残って、悪くないもんだ。



昼飯は再びソーミンチャンプルー。ソーミンチャンプルーは相変わらず、毎日のように食ってるのだ。ツナ缶と、ゆでて水洗いし、よく水を切ったそうめん、それにニラを、ただ塩コショウして炒めるだけという、あまりに簡単な料理であるにも関わらず、東南アジアの味がする。さすが沖縄料理というのは、奥が深いんだよな。



おまけ。今朝の夜明け前。むこうに見えるのは東山。



2011-09-05

「人をたらしこむ技術」は、もっと一般に認知されなきゃいけないんじゃないか

一昨日から昨日にかけて、台風12号が猛威をふるい、京都市内はちょっと風が強いくらいで大したことはなかったのだが、奈良や和歌山では数十人という死者や不明者が出たそうだ。数十人というと、東日本大震災と比べてしまうと、なんだか少ないような感じがしてしまうが、平時の感覚でいうと大被害で、伊勢湾台風に次ぐ被害だろうと言われているという。

人間は誰でも、自分の人生について、とりあえずは大丈夫だろうとタカを括っているわけで、それがある日、思いもかけない洪水やら津波やらで、命を断たれてしまうことがある。今回命をなくした人たちだって、まさに「寝耳に水」だったのだろう。自然災害が起こるたびに、人生は無常であり、運命は人の才能や努力などとは、まったく関係のないところで決められていくことに、思いを致すことになるわけだが、日本人が自然災害が多発する場所に暮らしてきたために、この無常を基底とした独自の人生観を発達させてきたと言われれば、たしかにその通りなのかなとも思う。

世界では、広大な砂漠が広がるというような場所に暮らす人も多いわけだ。そういうところで生き延びるために必要なのは、おそらくは必死の努力であり、弱肉強食であり、そこから生まれる人生観が、日本人とは異なったものになるというのは、これまた当然ということだ。


台風というと思い出すのは、学生時代のアホな経験だ。

東京が激しい台風に見舞われた時、悪友と僕とは、新宿歌舞伎町へナンパに行くことにした。台風で帰れなくなる女の子が出るだろうから、車で乗り付ければ、そんな女の子を簡単に拾えるのじゃないかと考えたのだ。僕は無事歌舞伎町に到着したが、悪友はいつまでたっても待ち合わせ場所に現れない。結局僕も、一人でナンパする勇気はなく、そのまま帰宅したが、あとで聞いたら、悪友は新宿へ向かう途中、冠水した道路に突っ込み、エンジンに水が入って車がお釈迦になってしまったのだそうだ。

ナンパに関して僕はいい思い出がなく、学生時代は人並みにナンパはしたこともあるが、うまくいった試しはない。世の中にはナンパの極意を知る達人もいると聞くが、僕にはついぞ、その極意は導き開かれることはなく、この年に至っている。

ナンパを初めとする、女性をモノにする技術は、「不良」と呼ばれる人たちの専売特許のようなところがあるだろう。中学校の時、一目惚れし、密かに想いを寄せていた女の子が、気付いたら不良と付き合っていてびっくり仰天したことがある。当時かわいい女の子は、だいたい不良と付き合っていた。

この間も、出会い系サイトで女性がサクラに騙され、出会い系サイトに500万円以上も注ぎ込んでしまい、後でサクラに騙されたと察して、そのサイトを訴え出たとニュースに出ていた。騙すのは良くないことだが、そのサクラは少なくとも、その女性の心をそれだけつかむ、何らかの技術を身に付けていたことにはなる。

他にも宗教団体やら、詐欺商法やらが、時々驚くような巨額の金額を人から集めたというので話題になることがある。客観的に見れば、ちょっと考えれば解るだろうと思えるような、嘘くさい話でも、それにやすやすと騙される人がいる。しかしこれは、騙された人の無知を責めるべきであるというより、騙した人が、それだけ多くの人の心をつかむ一種の技術を、持っていたことを認めるべきだろう。「人をたらしこむ技術」というものは、悪用するのは良くないが、たしかに存在するということだ。


しかしこの「人をたらしこむ技術」は、一般にはきちんと認知されていないと言えるんじゃないか。少なくとも学校で、人をたらしこむ技術が教えられることはないだろう。学校の優等生は、人のたらしこみ方を知らずに大人になる。しかし不良は、それをいち早く身に付け、自分の生活の糧としていくことになるわけだ。

企業でも、大企業になると、人をたらしこむ技術に頼ったりせずに、知名度とか、安定性とか、社会的評価だとか、そういうところで勝負しようとするわけだが、新興企業などまだ何の知名度も持っていないところでは、いかに人をたらしこめるかというところで勝負しようとするところも、あるように思える。精鋭の営業部隊を編成し、営業力で勝負しようというのは、そういうことだろう。営業の極意は、「いかに自分が勧めるのでなく、相手にその商品を、自分から買いたいと思わせるか」ということであるとも聞く。まさにそれは、どう人をたらしこめるのかということそのものだろう。

どう人をたらしこめるのか、またはこれは、言葉がちょっと悪いから、「どうやったら人の心をつかめるのか」と言い換えてもいいが、これが実際にはっきりと存在する技術であるということ、また人が成功するために大きな力を発揮するものであるということは、間違いなく言えることだろう。それならなぜそれを、学校で教えないのか。それがただ不良に独占されたものじゃなく、優等生も身に付けるようになれば、世の中もすこしは変わるのじゃないか。また人の心をつかむ技術に点数がつけられれば、不良がもっといい成績を取るということが、出てくることだってあるんじゃないか。

なぜ人の心をつかむ技術が、学校で教えられないのかといえば、結局それは、人の心をつかむ技術が、学問的に明らかにされていないからだろう。学問的に明らかにされていないことを、学校で教えることはできない。しかしたしかに存在する技術を、学問が明らかにできていないのだったら、それは学問の方に、何か足りないことがあるんじゃないか。

僕はこのあたりのところに、未来について考えるべき大事なポイントが、隠されているようにも思うんだがな。



昨日はグルメシティの特売日で、サンマが138円だった。いよいよサンマシーズンがやってくるな。これほど安くてうまくて、料理が簡単ないい奴はいないのだから、今年もたっぷりお世話にならなきゃいけないわけだ。東北でもサンマが、無事捕れているようだし、嬉しい話だ。


この頃常備菜としている浅漬だが、今まではキュウリとセロリを混ぜていたんだが、実はキュウリより、セロリのほうがうまいんだよな。


昨日はキュウリが高くて、さらに「ミニセロリ」という、何がミニなんだか解らないが、普通のセロリよりはるかに巨大なセロリが、普通のセロリと同じような値段で売っていたので、それを浅漬にした。薄切りにしたものに、だし昆布と鷹の爪、酢と塩を振り、よく揉み込んでタッパーにぶち込み、冷蔵庫に入れておく。昨日はまだ漬かりは浅かったが、サラダ的な感覚で大変いい。


一昨日カボチャを煮てみたのだ。カボチャは今まで、「おかずにもならないし、つまみにもならない」と馬鹿にしていたのだが、食卓に並べてみると、酒を飲みながらの炭水化物の補給源として悪くない。

これまで一度もカボチャを煮たことがなかったから、グルメシティのバックヤードの戸をたたき、おばちゃんに出てきてもらって煮方を聞いた。ひたひたのだしに砂糖、そして煮ながら徐々にしょうゆを足していくというやり方で、人生初のかぼちゃの煮物にしては、なかなかうまくいった。


ふと気付いたら、僕はこれまで、もやしに正面から向き合ったことがなかったことに気がついたのだ。鍋や炒め物の具の一つとして扱うだけで、もやしそのものを味わおうとしたことがなかったのだな。しかしもやしはせっかく安いのだし、もうちょっと活用できることがあるのではないかと、昨日はもやしをゆでて、それにおかかと青ねぎ、ポン酢を掛けて食ってみた。

まあ特別どうということもない、普通の味だったかな。もやしはひげ根を取れば、味が格段に良くなるというが、さすがにそこまでやる気にはならないしな。


あとはオクラをのせた冷奴。しかしそろそろ湯豆腐の季節で、スーパーにはもうはや、湯豆腐用の豆腐が並んでた。