欲望を単純に満足させようとするところに、建設的な何かが生まれることは実はなく、むしろ世の中を色々眺めわたしてみると、「一番したいことをしない」と決めるところに、文化の花が咲き乱れるというところがあるんじゃないかと思うんだな。
典型的な例がスポーツで、例えばサッカー。誰でもボールを手で持ちたいだろう。でもそれをあえて禁止したところに、現在のサッカーの隆盛があるのじゃないか。ラグビーも同じだ。ボールは前に投げたいだろう。でもそれをさせないからこそ、様々なプレーが生み出されることになる。ボールを持ったら当然歩きたいのに、歩かせないバスケットも同様じゃないか。
京都の料理も似たところがあるという気がする。京料理は日本料理の代名詞とされているところがあると思うけれども、その京料理は京都の寺で坊さんたちが食べた精進料理が、一つのルーツであると言われる。
精進料理だが、やはりこれも、大きな特徴は、「肉と魚を使わない」ということだろう。これは僕が思うには、京都では元々、新鮮な魚を手に入れることが難しかったわけだ。新鮮な魚があれば、極端な話それをただ切って醤油をつけて食えばうまいわけで、どんな料理をしたってうまいものになる。新鮮な魚は日本の沿岸ならどこでだって手に入るから、そういうところの人たちは、どんな貧しい人だって、毎日最高にうまいものを食ってることになる。
しかし京都の貴族たちは、それが許せなかっただろう。自分たちはクソまずい、干からびたような魚しか食べられないのに、片田舎の貧乏人たちは、最高にうまい魚を食っている。それで仏教にかこつけて、魚を禁止してしまったのじゃないかと思うのだな。いやもちろん禁止したって、魚がうまい土地では、魚を食うに決まっているが、それは仏教的には正式じゃないと。仏教といえば、当時の最高の学問とも言えるものだったわけだからな。
それで京都では、日本人にとって最高にうまいものである、魚を使わずに、料理を組み立てるというチャレンジを始めることになったわけだが、その中で生み出されたものが精進料理だったわけだ。
僕はちょっと前に、嵐山の天龍寺で初めて精進料理を食べたけれども、正直言って感動した。魚を使えばなんのことはない、だし一つとっても、椎茸だの昆布だのを駆使して、上品な味に仕上げていく。野菜をおいしく食べるやり方を追求し、またゆずだのゴマだの山椒だのといった調味料に工夫をこらす。色鮮やかな見た目にして、見ても楽しめるようにする。京料理の精神はここにあるとも言えるんだと思うが、これらすべてのことは、魚がなかったからこそ、生み出されたとも言えると思うのだよな。
日々の食事を考えるという時にも、同じことが言えるんじゃないか。もちろん人間は誰だって、「うまいものを食いたい」と思うわけだが、ただ「うまい」ことを目標にしてしまうと、往々にしてつまらないものになってしまう。
だいたい金をいくらでもかければ、うまいものが食えるに決まっている。しかしそうやってただ金をかけてうまいものを食ったって、何にも面白いことはない。金をかけずにうまいものを食うところにこそ、日常の食事の面白さがあると思うんだな。いやもちろんたまには高いものも、食ったらいいとは思うけれど。
あと逆に金をかけずに、うまいものを食おうと思うと、現代ではふんだんに化学調味料を使うことになる。たしかにかっぱえびせんやカップラーメン、吉野家の牛丼が、うまいかまずいかと言われればうまいだろう。僕もそれは認める。僕だってそういうもので育ってきたわけだ。しかしただ化学調味料を使って、うまくしてしまうということにも、僕などは「てやんでい」と不満を感じるところがあるわけだ。やはり金をかけず、しかも化学調味料も使わずに、うまいものを食おうとするところに、面白さはあるんじゃないか。
というわけで、内容に比べて値段が圧倒的に安い、魚のアラとか、見切り品の野菜とか、大好きな僕なのだが、昨日は秋鮭のアラが、また150円という信じられない値段で出ていたので、ついついそれを買ってしまうことになるのである。
鮭をどうやって食おうかということになると、まずはただ塩をふって焼くというのが、誰もが認めるうまい食い方だ。汁の実にするのもいい。しかしあまりに同じ食い方ばかりをするというのも芸がないなと思っていたら、グルメシティでは鮭のそばに、「ちゃんちゃん焼きのタレ」というのを一緒に置いて売ってるわけだ。
ちゃんちゃん焼きというのは食ったことがないのだが、たぶん北海道の料理なんだろうな、鮭をキャベツだの玉ねぎだのといった野菜と一緒に、鉄板で蒸し焼きにするのだそうだ。それでタレというのが、成分表示を見ると、味噌と砂糖と、その他調味料というものだったから、それだけ確認して、タレは買わずに、自分で作ることにした。
フライパンに油をちょっと敷き、鮭のアラをならべる。このアラを並べた時点で、けっこうな量だったから野菜の置き場がまったくなくなってしまったが、気にせず上に、ざく切りのキャベツだの輪切りの玉ねぎだの、薄めに切ったじゃがいもだの、短冊に切ったピーマンだのを載せていく。
タレは味噌に砂糖、みりん、酒、醤油、それにチューブの生姜。それを野菜の上からかけ、フタを閉めて中火にかけてみた。
どうなることかと思ったのだが、野菜から出た水で、けっこうグツグツ煮えたようにもなり、なかなかうまそうだ。
というわけで食ってみたが、味噌を入れすぎたのが失敗で、ちょっと辛すぎた。しかしそれ以外はけっこうイケて、フライパンにいっぱい、食い切れるかと思ったが、あにはからんや、ぺろりと平らげた。蒸し焼きというのは、焼くと煮るの中間みたいなもので、鮭にはちょっとした焦げ目も付き、しかも野菜のうまみもちゃんと残って、悪くないもんだ。
昼飯は再びソーミンチャンプルー。ソーミンチャンプルーは相変わらず、毎日のように食ってるのだ。ツナ缶と、ゆでて水洗いし、よく水を切ったそうめん、それにニラを、ただ塩コショウして炒めるだけという、あまりに簡単な料理であるにも関わらず、東南アジアの味がする。さすが沖縄料理というのは、奥が深いんだよな。
おまけ。今朝の夜明け前。むこうに見えるのは東山。