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2012-02-29

連子鯛が安く手に入れば迷わずこれ。
「連子鯛のちり鍋」


季節はようやく、春に向かいつつある。

先週暖かかったところから、今週は一転してまた寒くなり、今日などは東京や東日本では雪も降っているそうだけれど、東京で大雪がふるのは、冬型の気圧配置がゆるみ、太平洋性の暖かく湿った空気が入り込んでくるようになった証拠だ。

僕は、夏がいちばん好きなのだけれど、好きなせいなのか、夏はあっという間に終わってしまい、すぐに寂しい秋がやってくる。

だから徐々に夏の気配が高まっていく、春がいちばんいい。



昨日は北野天満宮へ梅を見に行った。

梅が好きだった菅原道真にちなみ、北野天満宮は梅の名所となっている。

梅苑はとうにオープンしており、25日は梅花祭だったのだけれど、今年の冬は寒かったせいなのか、梅の開花が例年より遅れているらしい。

まだつぼみのままの木も多く、見頃はもうすこし先となるようだ。



夕方、このブログを本にしてくれるという編集者の人と、京都で打ち合わせをした。

編集者は、たぶん30代の女性、同行の編集長もやはり女性で、女性向けファッションのムック本を中心に作っている部署らしい。

ずいぶん忙しいみたいで、明け方の4時頃にメールを送信してきたりする。

7つの案件をかかえ、京都でも、3本の打ち合わせを掛け持ちしたのだそうだ。



ファッション系の本を作る人たちが、どういうわけで、こんなおっさんのレシピ本を作ろうと思ったのかはよくわからないけれど、編集者の人は、僕のブログを気に入ってくれたらしい。

かなり細かく読んでくれていて、ただレシピだけでなく、僕の書いたコラムをたくさん入れたいと言ってもらえたのはうれしかった。

9月の出版だと聞いていたけれど、6月に早まったらしい。

ページ割りの案もできていて、具体的な話をずいぶんした。



そこでおもしろかったのが、「鍋」についての話だ。

僕はご存知の通り、寒くなってからというもの、毎日鍋ばかり食べているのだけれど、ページ割りの案には「鍋」というコーナーがない。

どうしてなのか聞いたら、「一人鍋はウケない」という。

編集者の人も、しょっちゅう一人鍋をするから、一人鍋のよさは十分わかっているけれど、それを記事にすると、どうしても寂しい感じが漂ってしまうのだそうだ。



鍋を食べている本人と、それを記事として見る人との温度差は、僕もつねづね感じている。

本人がどんなに鍋を満喫していても、それを見る側としては、「あんなに鍋ばかり食べて、飽きないのか」と思うところだろう。

鍋は食べている本人にとっては、無限の可能性があるもので、具材や味付けを変えれば、様々にちがった味わいや楽しみがあるのだけれど、傍から見る人にたいしては、それがうまく伝わらず、「毎度おなじようなもの」に見えてしまう。

そう考えてみると、鍋はやはり「ライブ」なのだと思い至った。



音楽が好きな人にとって、ライブが最大の楽しみであることは、言うまでもないだろう。

演奏者と観客がおなじ場を共有し、たがいに呼応しながら一つの表現が生み出されていく。

ライブの興奮や感動は、CDやDVDでは決して得られないものであり、音楽がほんとうに好きな人は、ライブこそ音楽の醍醐味だと言うだろう。

しかしそのライブを、「ライブ映像」として見たときには、話はまったくちがってくる。



ライブ映像には、独特の「寂しさ」があるものだ。

演奏がどんなによく、また観客がどんなに盛り上がっていたとしても、それを「ライブ映像」として見る人にとっては、自分が一人、置いてきぼりをくらっている感じがする。

ライブは演奏者と観客とで、すでに完結したものであり、そのほんとうの良さは、ライブ映像からでは絶対にうかがい知ることができない。

観客の熱狂は、ライブ映像を見ている人の感動とは、次元の異なるものであり、ライブ映像を見る人は、自分とライブ映像のあいだに、決して埋めることができない溝があるのを自覚することとなる。



鍋は、まさにライブだ。

鍋には、「完成」という段階がない。

食べる人により、鍋に材料が次々と入れられていき、煮えたと同時に、完成する間もなく食べられることになる。

あえて言えば、鍋の完成は、シメの雑炊や、うどんを食べるときだろう。

しかしそれは同時に、鍋の「終了」を意味するものでもある。

鍋のおいしさや感動はつねに、鍋を作り、また食べる人との関わりのなかに存在するものであり、それを外から見る人には、ほんとうのところは伝わらない。

鍋は料理の「原型」ともいえるものだと思うけれども、しかし料理が鍋にとどまらず、さまざまな一品料理を生み出すにいたったことは、料理が「ごちそう」として、食べる人との直接の関わりなしに存在するために、不可欠であったということができるのだろう。






と言いつつ、昨日も鍋。

スーパーへ行ったら、連子鯛が300円しない値段で売っていた。

連子鯛は小さいし、沖合でとれるため鮮度も落ちるから、刺身などにはできないが、塩焼きにしたり、鍋に入れたりすると、非常に味がいい。

連子鯛は、安いとはいえ養殖ではなく、あくまで天然だからだ。

安く手に入る真鯛は養殖だから、どうしても味が、ちょっと濁ったところがある。

しかし連子鯛の味は、それとはちがい、さすが天然、澄み切っている。



この連子鯛を、まずサッと焼く。

これは池波正太郎流のやり方なのだけれど、魚の臭みがとれ、香ばしい風味がつく。

鍋に入れるから、べつに中まで火が通らなくても、かるく焦げ目がつく程度でいい。



焼いた連子鯛を、昆布だしに酒をタップリとふり入れた汁で、5分ほど煮る。



あとは豆腐やら、長ねぎやらエノキやらを入れ、ひと煮したら出来あがり。



ポン酢に青ねぎを入れたタレで食べる。



鯛のだしがたっぷりと出た残り汁に、塩と醤油で味付けしてうどんにしたが、ほんとうはこれは、雑炊が一番うまい。