2011-09-25
新福菜館三条店の大盛りラーメンと、ナスとにしんの煮付け
懲りもせず毎週新福菜館三条店へ通い、ラーメンを食べているわけなのだ。これはどれだけうまいんだと思うかもしれないけれど、明日地球最後の日が来るとしたら、僕はとりあえずこれを食って死にたい。だからどうしたって話だが、それだけうまいもんを毎週食べられるのは、幸せというものなのだ。
このラーメンがどうしてこれほどまでにうまいかについて、このブログで毎週のように、書いてきているわけで、このブログを続けて読んでくださっている人にとっては、「耳にタコとはこのことだよ」と言いたいところだろう。どれだけうまいかは、たしかに食ってみないと分からないことだが、そう言ってしまえば身も蓋もない。このブログを書いている意味もない。だからと言って、毎週同じことを書くわけにもいかないわけだが、このラーメンは、食うたびに新しい発見があるので、これまでついつい、毎週書かずにはいられない気持ちになってしまっているわけなのだ。
昨日はとうとう、この店で毎週同じものを頼むことも、新たな段階に入ったようで、店に入って席に着いたら、注文を聞きに来た男の子が、僕が注文する前から、すでにビールとキムチを手にしていた。
この店は、店員の雰囲気もすごくいい。よくラーメン屋で、店員が威勢よく「いらっしゃいませー」とか、声を揃えて言ったりすることがある。それはべつに、悪いこととは思わないが、店員としても、ただ命令でやれと言われているからやっているだけのことで、それ以上のものではないだろう。北朝鮮のマスゲームのように、統率がとれていることを示しているだけであり、大してどうと思うところもない。
新福菜館三条店の店員も、もちろんきちんと挨拶はするが、この店の店員の良さは、挨拶などにあるのではない。店員は、まず大将がいて、それから番頭らしい、若いお兄ちゃんがいるのだが、それ以外は全員中国人なのだ。20歳前後の若い男の子が3人、女の子が二人いるのだが、アルバイトなのだろう。聞くところによれば、もう何年も前から、中国の子たちの友人関係のネットワークで、誰かが辞めればまた新たに誰かを紹介してという具合に、代々受け継がれているものらしい。
その中国人のアルバイトの子達が、働く様子をカウンター越しに見るのが、大変楽しいわけなのだ。
昔の日本人も、こういうところがあったのだろうなと思うのだが、働くのがいかにも楽しそうで、活き活きとしている。働いていることそのものを、喜び、楽しんでいる感じがする。
だいたい今の日本人の若い子は、あのような洒落てもいないラーメン屋で、アルバイトをしたりはしないだろう。新福菜館三条店も、何も好き好んで中国人を雇っているというよりは、アルバイトを募集しても、日本人の応募がなくなったということなのじゃないか。日本人の若い子は、おそらく、もし時給が同じだったとしても、このようなありきたりなラーメン屋でバイトするよりも、洒落たカフェバーでバイトすることを選ぶんだろう。
まあしかし中国人にとっては、あの新福菜館三条店でも、十分洒落ているのかも知れないが、いずれにせよ、楽しそうに働く若者を見るのは気持ちがいい。手が空くと、店員同士ムダ話していたりもするのだが、そういう様子を見るのも楽しい。その素朴な様子が、前にも書いたけれど、いかにも「昭和の日本」という感じで、昔のテレビドラマの「時間ですよ」とか「寺内貫太郎一家」とか、そんなものを眼前で見せられているような気がする。
今日も大盛りラーメンを食べたのだが、いつも通りあまりのうまさに死亡したのは言うまでもない。先週も書いた通り、どんぶりの底にある麺を上に持ってきて、からまっている麺を食べやすくするのと同時に、上にトッピングしてあったもやしをスープに沈め、スープの味を染みさせるというやり方は、もう絶対に間違いない、新福菜館三条店大盛りラーメンの基本的な食べ方といえるだろう。
こうやってしばらく、麺とスープ、チャーシューと青ネギだけで、新婦k菜館三条店のベースの味を楽しんだあと、やおら卵を溶きほぐし、スープの味を変えるとともに、ここで味のしみたもやしを初めて、食べ始めることにするわけだ。
この時好みにより、一味唐辛子と「ヤンニンジャン」を入れるといいことに、この食べ方を知って初めて気付いた。
新福菜館三条店には、調味料が三種類、卓上に置かれている。コショウ、一味唐辛子、そしてヤンニンジャンだ。コショウは好みで最初にふりかければいいわけだが、一味とヤンニンジャンの存在意義が、今までよく分からなかった。これまで一味やヤンニンジャンを入れて食べたこともあったのだが、どうもピンと来なかったのだ。
ところが卵を溶きほぐしてスープに混ぜると、甘辛いスープの味とあいまって、ちょうどすき焼きのような味になるのだが、人によってはこの味が、ラーメンとしては刺激が足りないと思うことがあるだろう。ここに一味と、さらに唐辛子とニンニクを練り合わせたものであるヤンニンジャンを入れると、味が一気に引き締まることになる。
要は新福菜館三条店は、調味料の使い方についても、そこまで計算されているということなのだ。にも関わらず、そのこだわりは一切、言葉として伝えられることがない。
東京のラーメン屋ならば、間違いなく、「大盛りラーメンの食べ方」という説明書きを作り、それを客席のいたるところに貼り出してあると思うのだ。ところが新福菜館三条店では、そのようなことは一切されない。毎週通っていたにもかかわらず、1年半もの長い間、自分でそれに気が付くまで、放っておかれることになる。
「商売」という意味では、こうして新福菜館三条店が、おいしいラーメンの食べ方をお客に知らせないことは、明らかにマイナスになっているだろう。しかし1年半たって食べ方を自分で発見したお客は、創業者に抱きつきたいほどの感動を覚えることになる。その感動こそが、商売より大事であると、新福菜館三条店は考え、食べ方をお客に指導しないということなのだろう。しかしその考え方こそが、まさに僕をこの店の中毒にさせている原因なのだろうと思う。
京都は「にしん」をよく食べる。「にしんそば」は京都の名物にもなっているが、要は京都は、新鮮な魚がなかなか手に入りにくい土地柄だったから、干した魚をよく利用したということなのだろう。
干した魚の中でも、他の魚と違い、にしんだけは、煮物に使うことができた。肉じゃがを見ればわかるが、煮物は「おふくろの味」という趣きを持つものであり、だからこのにしんも、京都でおふくろの味的な、独特の地位を占めているのではないかと想像する。
にしんは普通は、「身欠きにしん」を使うものだろう。しかしおそらく、冷蔵技術の発達により、身欠きにしんほどカチカチに干し上げてしまわなくても、北海道から京都まで、にしんを輸送できることになり、それで生まれたのが「ソフトにしん」なのだろう。ソフトにしんは、ちょうど普通の一夜干し程度の干し加減となっている。
ソフトにしんはグルメシティには置いていないが、魚屋や、京都ローカルのスーパーには置いてある。にしんをナスと煮付けるのは、京都の郷土料理のひとつであり、今せっかくナスがうまい時期だから、やってみることにした。
魚屋のおばちゃんによると、ソフトにしんはゆでこぼし、ナスも下ゆでして、ソフトにしんをこってりと炊いたその汁を少し薄めて、別鍋でナスを炊くのだそうだ。この別鍋でナスを炊くというのが、一口のIHレンジしかない我が家では、どうにも面倒くさい感じがして、魚屋のおばちゃんにせっかく教えられながらも、いまだちゃんと言うことを聞いたことはない。でもそれ以外はおばちゃんのいう通り、ゆでこぼし、下ゆでをして作ってみた。
これはほんとに素朴な、おふくろの味。限られた材料に手をかけ尽くして味わうのが、京都の料理なのだよな。食べながらしみじみとした気持ちがしてくる。
八百屋で京都山科産のトマトを買った。180円とちょっと高かったが、京都の露地物のトマトは、そろそろ終わりだというから、今のうちにちゃんと味わっておかないといけないだろう。京都産のトマトは、スーパーに売っている熊本産などのトマトとは、比にならない甘さがある。
あとは漬物と冷奴で、冷や酒を2合半。