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2010-11-14

文 章

僕はこうやってブログで毎日文章を書くようになって、もう2年半くらいになるわけで、僕の文はどうも一文が長くて読みにくい、悪文と言われる類で、いい文だとは露ほども思っていないのだが、自分で納得できる文が書けることはある。

小林秀雄が、文を書く人間にとっていちばん大事なものは「文体」だと書いていて、これほんとは、「文体」などという味気のないことばじゃなく、もうちょっと小林秀雄らしいことばで表現されていた記憶があるが、それを忘れてしまったのだが、たしかに読む立場から言えば、自然科学の論文などの、論理による証明によって正しさが導き出されるものを別として、著者の言っていることを自分が信じるかどうかということは、著者の人間性を自分が好ましいと思うか否かということによるのであって、その人間性というものが文章のどこに表れるのかと言えば、まさに文体の中に、なのである。論理的にどんなに正しそうに表現されていても、その文体が、自分にとって受け入れることができないものである場合には、それを実際に正しいと思うことは、なかなか難しい。

ずいぶん前に吉本隆明の本をなにか買って、読み始めたのだが、数ページ読んでやめてしまったことがある。文体がやけに勿体ぶっている感じがして、好きになれなかったからだ。ふつうなら漢字で書く単語をひらがなで書いたりしていて、かといってそれが解かりやすさを目指しているものなのかと思うと、聞いたこともないような難しい漢語が使われていたりして、吉本隆明はもともと詩人だから、そのあたりのことは意識的にやっているのだと思うけれど、鈍い僕には勿体ぶっているとしか思えなかったというわけなのだ。

最近吉本隆明が対談したものを、編集者が文字に起こしたものを読んだのだが、そちらはけっこうおもしろかった。吉本隆明の思想そのものについては、それはもちろん、一冊くらい読んでわかるというものではないわけだけれど、語り口がやわらかくて、お風呂で読むのに最適だった。

ちなみにそれを読んで思ったことは、あの頃の人たちは「敗戦」ということが、自分の体験としてものすごく大きなものとしてあって、その前後で昨日までああ言っていた人が、今日からは正反対のことを言い出すみたいなことを数多く目撃していて、そういう中で戦中から戦後を、自分として一貫したものとしてどう捉えられるのかということが、吉本隆明の思想の出発点になっているということのようなのだよな。戦争というのはたしかに、国と国とのぶつかりあいで、平和な時にはあまり意識もしない、人間が括られている単位としては、いちばん大きな「国」というものについて、戦争が起こるとなると、深く考えざるを得ないだろうから、生活やら何やらは、それは大変にはなるだろうけれど、そこでしか得ることができないものも、かなり多いのだろうなと思う。

とこれは文章のことからは、ちょっと外れてしまったのだが。

小林秀雄の文体は、僕はすごく好きで、30巻近くある全集を、去年、1年近くかけて、全部読み切った時にも、内容について解らない部分は多かったのだが、そういうところでも、小林秀雄の筆の進み自体は心地良くて、それを味わいながら飛ばし読みしていたということもけっこう多かった。

小林秀雄はものを書くとき、構成を最後まできちんと考え抜いてから始めるということではなく、書いているうちに、文そのものがお互いに相互作用を始めて、それによって内容が出来上がっていくことが多いと書いている。もちろん書き始めるまでに、下調べとかそういうことは、小林秀雄はとくに、徹底的にやる人だったわけなのだけれど、いざ書き始めるときにはそういうものからは離れて、いわば自分を素の状態にして、文そのものがつくり出す世界を、そのまま書き留めることに専念する、ということだったのだと思う。

ここで誤解しやすいのが、文を書くということが、わりとふつうに考えられていることとしては、自分の内面にあることを、「文章」という形で、外側に表現するものであると思いがちなのだが、小林秀雄はそれをはっきり、そうではないと言う。

小林秀雄はそれを例えとして、よくヘボな文学者志望の学生などが、自分の作品を称して、自分はほんとうは、ここに書かれていることよりも、もっとたくさんの、奥深いことを、実際には考えているのだ、というようなことを言うことがあるが、そんなことは全くないのだと。書かれたことが考えの全てであって、書かれていない考えなどというものは、存在しもしないのだと、そういうことを言う。小林秀雄は、「自分は書かないと考えられないのだ」ということはよく言うし、また色んな作品の冒頭で、「書くことは、ある気はするのだが、果たして実際に書けるのか、書けないのか、よく解らない」というようなことも、よく書かれていたりする。小林秀雄にとっては、「書く」ということは、すでにある何らかの内容を、「文」という形で置き換える、というものではなく、書くということそのものが、その書かれている内容を、まさに今、生み出し、つくり出す、そういう行いであると、いうわけなのだよな。

その時小林秀雄は、だから、文章というもの、またはもう少し広くとって、「ことば」というものは、そのものが、ひとつの独立した生命のようなものであるという。昔の人は、「言霊」といって、ことばには魂が宿ると考えたのだが、それはあながち古代人の素朴な信仰であると、笑って済ませられるようなことではなく、実際に採るべき、大事なことがらを含んでいるのだと。今まさに書いている文そのものが、あたかも書いている自分とは独立した生き物のように、起き上がって、次へ続く文を呼び込んでいく。自分は初めは、最初から最後まで綿密に構成を考えて、最後の結論まで決めて、一度下書きをして、さらに清書するというやり方で文章を書いていたが、ある時からそれはやめて、文そのものが自らの力で成り立っていく、そのことを書き留めるというやり方に変えたのだと、小林秀雄は書いている。それで一度書いたら、もう読み直しもせずに、編集者に渡してしまうのだそうだ。

僕は、自分が小林秀雄のように、文が書けているとは、もちろん全く思わないが、でも小林秀雄が言っていることは、まさに正しいと感じ、そういう風に文が書いてみたいなと、いつも願っている。そうやって考えてみて、思うことは、文というものは、ふつう頭を使って書くと思われているものと思うが、そうではなく、むしろ文は、からだによって生み出されるものだ、ということだ。からだ全体が、あるリズムとか、メロディーとか、そういうようなものを感じることによって、文は生まれていく。本当にそうやって文が書けるときには、文は、まさに文字通り、「生きている」のであって、そういう文こそが初めて、筆者の手元を離れて、それを読む人のもとへ、飛び立っていけるものなのであると思っている。