僕が中東、とくにリビアの動向から目が離せず、毎日ニュースを細かくチェックしてしまうというのは、僕が時事問題一般に興味があるというわけではなく、この問題が、非常に大きな歴史的な転換を意味するからというだけのことでもない。
僕が「独裁者」というものに興味があるからなのだと思う。
興味があるといっても、独裁者は、近くにいると、とても迷惑な存在だ。
僕が前いた会社は、これはたぶん、日本の中小企業ではよくあることだと思うのだが、典型的に独裁的な体質で、社長は絵に描いたようなワンマンだった。
社長の思うことが絶対で、まわりの人間は、それに沿うように行動しないといけないわけだから、自由な発想などというものをもつことは、基本的に許されない。
さらにこの社長の場合、これも非常に日本的だと思うのだが、自分が何かを積極的に指示するということではなく、まわりの人間が、社長が望むことを忖度し、それをあたかも自分が思い付いたかのように提案することを好むという人だったから、まわりの人間も、なかなか大変なのである。
もちろん、社長にたいする批判などというものは、許されない。批判はすなわち、攻撃とみなされ、倍になって帰ってくる。社長の地位をおびやかしかねない人物は、徹底的に弾圧される。
しかし一方で、そういう基本的なところだけ守っていれば、あとは自由であるともいえるので、社長の視野に入らない、ちょっと遠くにいる人間にとっては、これほど過ごしやすい場所はない。
独裁者の特徴だと思うが、外的なルールを嫌うから、遠くの人間にとって、それもないとなると、制約はまるでなくなり、和気あいあいとした、心地よい人間関係がつくりだされる。
独裁者というのは、遠くから見ていると、人間的魅力にあふれた人に映るから、遠くにいながらそれを思うということは、ある意味幸せであるともいえる。
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独裁的な組織運営というものは、ある意味組織運営の黄金であるともいえるから、大昔から今にいたるまで、そのやり方は脈々と受け継がれている。
最近では独裁も、抜身のままで姿をあらわすことは少なくなり、宗教的な権威だとか、さまざまな仕組みだとかを身につけて、カモフラージュするようになっていると思うが、そのなかで北朝鮮とリビアというのは、昔ながらの独裁のやり方で運営される、希少な国であるといえるだろう。
だからこれらの国を見ていると、なんだかなつかしい感じがしないか。
ネットで見たが、カダフィが22日の演説で、口汚いことばと反米、反イスラエルを連呼する姿を見て、リビア大使をつとめたこともあるイギリスの老外交官が、なかば嬉しそうに、「昔ながらのカダフィだ」とコメントしていたのだそうだ。近年カダフィは、英米との関係改善のために、「猫をかぶっていた」のだそうである。
今回中東の動乱は、情報手段の発達によって、独裁国の国民が、自分たちだけが虐げられ、人間扱いされないことにたいして、おかしいと感じるようになり、不満の声をあげたものだが、独裁者が追放されたはずのチュニジアで、ふたたび大規模なデモが起き、暫定政府の攻撃によって、何人もの人が殺されたという報道もあるから、リビアでもカダフィが追放されたとしても、そのあとにもっと住みやすい世の中がやってくるという保証はない。
だいたい、独裁者が追放されたあと、あらたな独裁者が権力の座につくということは、歴史が繰り返している悲劇である。
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独裁と、独裁でない社会、それを民主主義とよぶとして、そのちがいは、「自由な批判が許されるかどうか」であり、またそれを実際に政策に組み込んでいく仕組みをもつかどうか、ということだろう。
たしかにそのとおりであると思うし、それはほんとに大事な問題であると思うのだけれど、物事はそう簡単でもないと思う。
批判が許され、実際にそれをおこなう勢力があったとしても、それにたいして、聞く耳をもつかもたないか、ということは、決定的な違いだからである。
大人にたいするもっとも痛烈な批判者は、赤ん坊であるともいえるだろう。
赤ん坊はとにかく泣く。こちらが良かれと思ってすることでも、気に入らないと、それを拒んで泣きわめく。まったく理不尽な存在だ。
それにたいしてビートルズは、「赤ん坊よ、もっと泣け。お母さんを悲しい気持ちにしてやれ。お母さんは、もっとちゃんとわかってもよいのだから」と歌ったが、赤ん坊の痛烈な批判に耳をかたむけ、それを受け入れることができるようになるということが、人間が成長し、新たな認識に達することができるということについての、ひとつのあり方であるといえるのじゃないか。
僕が先日東京で会った、高校時代の友人は、昔は子供が大嫌いだった。ところが自分に子供ができてみると、その子がかわいいと思えるようになり、そうすると、以前は大嫌いだった世の中の子供すべてが、かわいいと思えるようになったという。
ここには巨大な、認識上の転換がおこっているのだと思う。
理不尽で、わがままであるともいえる批判を、そういう理由で切り捨ててしまうのではなく、それを自分の内側にふくみこむことで、新たな世界が見えてくる。
根本的には、批判というものは、赤ちゃんに限らず、すべてのものについて、同じようにいえることなのであって、どんなに批判が許されたって、ただ許されているだけで、実はそれを切り捨てていたり、また単に利益を誘導するということで終わっていたとしたら、新しいことは何も始まらない。
しかし批判を受け入れるということは、何かの仕組みを整備することで、できるようになるというものではない。人間性の問題である。
このごろ、幼児を虐待する若い両親の例が、増えている気がする。
昔も、子供を捨てたりということは、もちろんあったわけだが、それは経済的に困窮して、やむにやまれず、そうせざるを得なかったということだったのではないかと思うのだが、最近の例は、べつにそういうことではなく、子供がわがままに泣くことにキレて、暴力をふるってしまうということであるらしい。
日本は民主主義だが、もしかしたら今、批判を許さない社会というものにむかって、転がり落ちていっているのかもしれない。
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なんだか中途半端なのだが、もう書くのに疲れたので、昨日のめし。
土曜日は、すし屋で昼ビール。
ふたたび鯖ずし。
にぎりと巻き物。
ハマグリの入った赤だし。
夜は水菜が安かったから、豚コマ肉のはりはり鍋。
酒は「古都」の冷や。
シメは、豚のだしがたっぷり出た汁に、塩で味をつけ、コショウをふって、うどん。
このごろどうも、シメをちゃんと食べないと、がまんできない感じになってきた。太りそう。