池田満寿夫の「男の手料理」という本を読んだ。
このごろ僕は、料理にまつわるエッセイを、いろいろと読み漁っている。とくに男性の、作家が書いたもの。
ものを食べるということは、人間誰にとっても、最大の楽しみになりうるものであるというのは、まちがいのないことだろう。人間食べるということは、生きていく上で第一に必要なことなのだから、そういうものは神様が、きちんと楽しいようにしてくれて、無理なくできるようになっているのだ。
いや自分は、お金がないから、うまいものが食べられないので、べつに食べることは、とくに楽しくないという人が、もしかしたらいるかもしれないが、僕に言わせれば、その人は、ただ楽しむための努力をしていないだけなのだ。
お金をだせば、うまいものが食べられるというのは、これはまったく、誤解も甚だしいのであって、高くたってまずいものは、いくらでもある。世の中には、人から金をかすめ取ろうとする、よからぬ輩が、はいて捨てるほどいるのであって、そういうのに引っかかってしまった日には、どんなに金を払ったって、うまいものなど食えやしない。
また、うまいものを食えば、それがすなわち、楽しいのかというと、そうとは限らない。高い金を払って、うまいものを食べられたとしても、それは当たり前のことなのであって、何のおもしろさも、楽しさもない。死ぬほどうまいものが、まじ、というくらい安いというときに、楽しい気持ちというものは、わきあがってくるものじゃないのだろうか。
そのためにはやはり、脚なり、頭なりを使って、探すなり、考えるなり、しないといけないわけで、それをただ、何も考えずに、近場のコンビニで、添加物のたっぷりはいった冷えた弁当を買っているようでは、食べることを楽しむなどということは、とうてい覚束ないのである。
食に関するエッセイは、そういう食べるということの楽しみについて、あ、こんなやり方、こんな考え方があるのかと、目を見開かせてくれるようなところがある。今まで読んだ中では、やはり檀一雄と池波正太郎の書いたものがおもしろい。
「男の手料理」は、池田満寿夫がサンケイ新聞に、1年以上にわたって連載したのをまとめたもので、池田氏はこれを、とくに男性が、「こんなに簡単なら自分にもできる」と思ってもらいたいと思って、書いたと書いている。
池田氏の定義によれば、「男の手料理」というものは、まず第一に、「材料にこらない」こと。冷蔵庫を開けたときに何があるかによって、それを使って手早く料理する。第二に「手抜きであること」。なのだそうだ。
実際笑える料理がいろいろあって、第一回は「コロンブスの卵丼」。これはごはんに目玉焼きをのせ、ウスターソースをぶっかけて食べるのだそうだ。
「トウフ丼」というのもある。熱いごはんに冷奴をのせ、おかかときざみネギ、それにしょうゆをかけて食べるというだけのもの。
一事が万事、その調子で、これが料理かと思うようなものばかりなのだが、池田氏はそこで、いやこれも十分料理なのだと主張するための理屈をこね、それが楽しい食事の時間を演出することに役立ったという実例をあげる。
そのあたりのところ、僕のこのブログの料理と、共通するところもあって、まあ男というのは、けっきょくそういうものなのだなと、ちょっと微笑ましい気持ちになる。
しかし池田氏の料理、その前提において、「冷蔵庫にものが入っている」ということがあるわけなので、きちんと奥さんやら親やらがいて、冷蔵庫にものを入れておいてくれるという人にとっては、かなり参考になるのだろうとは思うのだが、上手に買い物することが、料理をする上で一番だいじなことになってくる、僕のような一人暮らしの人間にとっては、ちょっとあまり、参考にならない。
また男の料理が「手抜き料理である」ということも、僕にはちょっと異議があって、これは奥さんがいて、自分の作ったものを見せ、「どうだ、これはおもしろいだろう」などという場合には、それはそれで存在意義もあると思うが、根本的には、かけるべき手間はきちんとかけたほうが、料理するのは楽しいと思うのだ。
僕がいう「ミニマル料理」は、手抜き料理とはちがう。不必要な手間、たとえばわざわざ調味料をカップやスプーンで計ったり、材料を何種類も組み合わせたり、みたいなことはしないが、必要な手間は惜しまない。そうして、料理をつくり、食べることを楽しもうという趣旨である。
昨日の昼めし。
豚肉のうどんすき。
これは池波正太郎の「そうざい料理帖」に出ていた料理で、このところ何度も作っているのだが、ほんとに簡単にできて、おまけに安いし、しかも死ぬほどうまい。
だし昆布とたっぷりの酒をいれた水で、豚コマ肉を煮て、そこにうどんを入れるというだけの話。
しょうゆとみりんを、出来上がった鍋の汁で割り、タレにする。
豚コマ肉というのは、炒め物に使ったりすることが多いと思うが、こうやって煮て食べても、非常にうまい。
晩めしは、アラ大根。
スーパーへ行ったら、けっこううまそうな、いい色をしたカンパチのアラ、150円で売ってるのだ。
コマ肉と同じ話で、切り落とされる部分だから、値段が安くなるというわけだが、味はまずいどころか、骨の近くだから、脂がのっててプリプリとして、切り身よりよっぽどおいしい。
それが150円だというのだから、僕はスーパーでこれを見かけると、矢も盾もたまらず買ってしまう。
ぶり大根のつくり方は、今日はもう、長くなるから書かないが、こういう安い材料を、手をかけてごちそうにするというのが、料理のかなり大きな楽しみであると僕は思う。
ポイントは、アラを湯通しして、そのあと水でよく洗うこと。それからアクをきちんと取ること。それだけ忘れなければ、あとはどういうやり方をしても、それなりにおいしくできる。
今日はたっぷりの酒に、しょうゆと砂糖、みりんで味付けした汁を、強火で煮詰めてみたのだが、いやこれは、ほくほくのアラに、コッテリとしたタレがまとわりついて、大根にもきちんと味がしみ、死ぬかと思うくらいうまかった。
あとはハマグリの湯豆腐。
これは単に、湯豆腐にハマグリを入れるというだけ。火にかけて、ハマグリのフタが開いたら出来上がり。
これはもちろん、昆布とハマグリのだしがたっぷりとでた、汁がうまいわけで、中身を食べてから、塩で味をつけ、しょうゆをたらし、うどんを入れた。
これもまた、死ねましたです。
酒は、近所の酒蔵「佐々木酒造 古都」の冷や酒。
古都はなんと、川端康成が愛した酒で、このラベルも、川端康成の揮毫だそうだ。
いろいろランクがあるが、これはいちばん下の一級酒タイプ、ふだんの晩酌用。元からある甘いものと、新しく作られた辛いものとがあるのだが、これは甘いほう。
甘いなかに、はんなりとした風味があって、広島賀茂鶴の落ち着いた感じとか、福美人・白牡丹のやさしい感じとはまた違う、いかにも京都という味。
いいですな。