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2010-08-25

「人間にとって科学とは何か」(村上陽一郎)

「科学」というものも、人間の文化的活動の一つにちがいなく、また今や科学は、人間にたいして、巨大な影響を及ぼすようになっているにもかかわらず、「科学が趣味」という人、音楽とか、芸術とか、スポーツとか、そういうものに比べて、すごく少ないんじゃないか。
この本を読むと、その理由がよくわかるし、また著者が、まさに「科学が趣味」という人の輪を、どう広げられるのかということについて、真剣に問おうとしているということがうかがわれる。

意外なことだが、科学というのは、誕生してからまだ200年もたっていない。
「科学者」を意味する「scientist」ということばが生まれたのが、19世紀の半ばだというのだ。
16世紀のコペルニクスや、17世紀のガリレオ、ニュートンは、科学者ではなかったのかと思うが、彼らは「哲学者」であったそうなのだ。

科学の目的は、「真理の探究」にあるわけだが、それは科学者個人の興味のおもむくままに、試行錯誤をつづけていくなかで、あるとき発見されるというものであり、だから科学にはもともと、ある目標を設定し、その達成の対価として、報酬が支払われるという意味での、「お客」がいなかった。
医者であれ聖職者であれ、また音楽や芸術スポーツ、すべてのものが、何らかの形で、お客をもつのにたいし、科学だけは、篤志家が、目標を限定せず、科学者の試行錯誤そのものを応援する、という形で、研究費を支払ってきた。

実際、なにか根本的なことを見つけるというときには、ただ与えられた問題を解く、ということではなく、何を解いたらよいのかという、その問題そのものを設定することがまず重要であって、そのために必要な長い期間に、目標など設定しようがない、ということがあるのだろう。
また問題が設定されたとしても、それを解くための具体的な道筋について、工程表などがつくれるということではなく、発見は、多数の試行錯誤の集約の結果として、あるとき姿をあらわすというものであり、それは病気の治療などと大きくちがうものだ、ということもあるだろう。

科学における発見というものが、そのような性質をもつために、科学者以外の一般の人間は、まず「お客になる」という道を閉ざされてしまったわけだ。

さらに科学は、そのやり方として、実験や観察を緻密におこない、その結果を論理や数学で説明していくものだから、高度に専門的であって、専門分野ごとに学会をつくり、研究結果の妥当性は、その学会のなかで、同業者どうしによって評価されるという体制がつくり上げられた。
そのために、専門家以外の人間が、科学を行うということも、とてもむずかしい。

そのような事情から科学は、成立以来、一般社会とは隔絶した、特異な世界のなかで、細々と活動が続けられるということになっていった。

ところが第二次世界大戦を機に、状況が大きく変わった。
「原子爆弾をつくる」という目標のために、国家がプロジェクトをつくり、科学者を集め、研究させ、開発に成功し、またそれが実際に、広島と長崎に投下され、甚大な被害をもたらすということがあってから、国家や産業界が、ある具体的な目標を達成するために、莫大な研究費を支払う、ということが行われるようになったのだ。
各国の核兵器開発はもとより、アポロ計画や、がん撲滅プロジェクト、近年のヒトゲノムプロジェクトや、現在まさに進行している、遺伝子治療にかんするプロジェクト、などなど、が進んでいくなかで、科学者が、もはや社会とは隔絶された世界で、自分の興味のおもむくままに、ひたすら自由に研究するということが許されなくなり、自分たちも社会の一員として、何をしなければならないのかということに、真剣に向き合わざるを得ないことになってきた。

それはもちろん必要なことであり、科学者が自分の研究の目的や、社会に対する責任、守らなければならない倫理、そのようなことに意識的になるのは大事なことだし、また実際、それは様々な形で、行われるようになっているのだが、著者はむしろ、それが行き過ぎることによる歪みを危惧する。

ついこないだ、民主党による事業仕分けで、理化学研究所がおこなうスーパーコンピュータの開発について、蓮舫議員が、「世界で一番じゃなければいけないんですか、どうして二番じゃだめなんですか」と問うたことに、象徴的にあらわれているが、世の中が科学にたいして、「目標」、「世の中の役に立つこと」を求めすぎると、それは今度は、科学を殺すことになってしまうというのだ。

科学のなかでも、目標を限定することになじむ領域もあるが、そうではなく、とくに基礎研究などの領域は、何の役に立つかはわからなくても、科学者が全身全霊をかけて、自分の興味を追求していく、というところでだけ、大きな成果があらわれる。
スーパーコンピュータの研究などは、まさにそういうものであり、単に世界最速のコンピュータを開発するということではなく、その研究を行うことにより、研究をはじめる前には思ってもみなかったような、様々な成果が生み出されていく。
そういう領域に、「役に立つ、立たない」というものさしを当ててしまうと、すべてが台無しになってしまう。

それではそのような行き過ぎを、どうやって正していったらいいのか。
それについて、著者は、世の中の一般の人が、「科学リテラシー」、科学というもの、真理の探究というものが、いかなるものであるかについて、知識としてではなく、体験として、感覚として、理解できるような、そういうことのための、具体的な手立てを考えていかなければならない、と言う。
そうして世の中の人たちが、科学というものを愛で、それを実践する科学者を、共感をもって応援するような、そういう状況をつくり上げていかなければいけない。

そのためには、大学の教育というものも、ただ専門家を養成する、ということのためだけでなく、専門家にならない人も、科学リテラシーを身につけることができるような、そういうあり方を考えなくてはいけない。
専門家と一般の人をつなぐ、橋渡しのようなことも、何らかの形で考えなければならない。

それはまさに、「科学が趣味」であるような人たち、お茶の間科学者、休日科学者、のような人たちを、どう生み出していけるのか、ということだろう。
それが実現したら、ほんとにすごいことだと思うし、実際著者は、どうしたらよいのか、すぐに答えが出るわけではないけれど、これは取り組まねばならない課題なのだと、この本をとおして、力をこめて、説いているのである。

人間にとって科学とは何か (新潮選書)
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