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2012-06-09

サバづくし、炒り豆腐


スーパーはたしかに品揃えがよく、大量仕入れをすることで値段を下げるから、多くの地域で個人商店を圧倒し、駅前商店街が「シャッター化」してしまっているところも少なくない。

たしかに品揃えがよければ選択の幅が広がるのだし、さらに値段が安ければ言うことないようにおもえるけれど、それはあくまでアメリカ流の考えで、日本に本当に適したものなのかどうか、僕ははなはだ疑問におもう。



アメリカの田舎町にある小さなハンバーガーショップで、店頭に張り出してある宣伝文句に、

「256通りの味が楽しめる」

と書いてあるのを見たことがある。

「256通り」といわれると、ものすごくたくさん種類があるようにおもえるけれど、何のことはない、

「レタスをいれるかどうか・・・」

「玉ねぎをいれるかどうか・・・」

などなど、8種類のトッピングをいれるかいれないかを選ぶことができるようになっているというだけの話で、そうすると選択の可能性は、2の8乗で256通りになるということだった。



日本人なら、そんなものに価値を感じることはなく、「256通り」が宣伝文句として成り立つこともあり得ないのではないか。

でも「自由の国」アメリカは、「選択の自由」を尊ぶあまり、選択の見かけ上の数の大きさにまどわされ、それが実際に何を選んでいるのか、見えなくなってしまうことがあるようにおもえる。



ある知り合いの女性が、スーパーでどうやって食べたらいいかわからないものがあったら、その場で携帯から「クックパッド様」をひらき、その食材の料理法を検索、確認してから買い物カゴにいれるのだといっていた。

これなど、まさに悲劇、または喜劇であるとしか僕にはおもえない。

アメリカはおそらく、料理法といってもただ煮るか、焼くか、サラダにするかくらいのことしかないのではないか。

それにたいして日本では、食材ごとにこと細やかに、異なった料理の仕方をすることになるから、ただ選択の自由ばかりが広がってしまっても、それを活かすことができないことになる。



もちろん日本のように、極端に選択の自由がすくないことも、またもう一方で、非常に問題だとはおもうけれども、こと「料理」に関していえば、僕は日本では、スーパーよりは個人商店に軍配が上がるとおもう。



個人商店の決定的な欠点は、「品揃えが少ないこと」で、これは売り場面積の問題なのだからどうしようもない。

だから魚屋でも八百屋でも、事前に献立を考えてから買い物へ行ってしまうと、個人商店には自分のほしいものがないということになる場合も多い。

ただ個人商店では、旬の一番いいものを、厳選してそろえているから、そこで買えば、今まちがいなくおいしいものが食べられることになる。

また料理法がわからなくても、個人商店は目の前にお店の人がいるのだから、いくらでもきくことができる。



昨日も魚屋へ顔をだしたら、若大将が眼の色をかえて飛び出してきた。

「今日はこの塩サバ、いいですよ・・・」

僕がサバ好きなのを知っているということはあるけれど、京都の人にとって、サバはやはり特別なものなのだろう、若大将は「サバ」となると、眼の色がかわる。

焼津産の塩サバで、鮮度がいいからしめサバにもできるとのこと。

値段も、大きなのが1尾580円と安いし、若大将がそうやって勧めてくれるものは間違いない。

3枚におろしてもらって買ってかえった。



それで作ったのが、しめサバ




それから塩焼き。

どちらも脂が乗りまくっていて、ほっぺたが落ちた。



それからサバのあらで、船場汁

これもしみじみうまい。



八百屋でゴーヤが売っていたから、食べ方をきいてみた。

そうしたら、

「さっと塩ゆでし、かつお節とポン酢しょうゆをかけて食べるとおいしい・・・」

なるほど、ゆでるから苦味がおさえられるし、ポン酢の味は、ゴーヤによく合う。



あとは4本100円のちょっと形のわるいというキュウリを浅漬にした。

斜め切りにし、塩もみしたキュウリを、昆布と鷹の爪といっしょに漬物器でつける。



豆腐屋で、「炒り豆腐をつくる」といったら、作り方を教えてくれた。

小さめに刻んだニンジンとシイタケを、フライパンで油で炒め、だし半カップほどをいれ、酒とみりん、それにしょうゆで味付けする。

すこし煮てニンジンがやわらかくなったら、水切りした木綿豆腐をくずしていれ、ヘラでさらにくずしながら、水気がほぼ完全になくなるまで炒る。

小口に刻んだ青ねぎをふり、溶き卵をまわしかけ、ひと混ぜしたら出来あがり。



すこし甘めに味付けすると、「ほっ」といやされる。





以上の肴で、芋焼酎の水割りを2杯。

昨日のみ過ぎたものだから、今日はそれほどのめなかった。






四条大宮は戦前から戦後すぐまでは、北に西陣をかかえる阪急電車の終着駅として大きく栄えたそうだけれども、繊維業の衰退とともに西陣に以前のにぎわいがなくなり、また阪急電車の終着駅も河原町まで延長して、繁華街の中心は東へ移動してしまうこととなり、今では少しさびれている。

そのせいだとおもうけれども、四条大宮の飲み屋は値段が安い。

まず基本的にチャージがとられないし、酒の値段も1杯300円から500円。

ワンコインで十分のめるようになっている。



だから僕は、いつも夜の散歩に出かけるとき、千円札1枚をもって家を出ることにしている。

酒を飲むとつい気が大きくなり、あり金をすべて使ってしまうことになって、財布を持ち歩くと危険だからなのだけれど、さすがにワンコインだと足りないばあい困るので、少し余裕をもっている。



今夜も千円札をポケットにねじ込んで、夜の散歩へ出かけた。

何日かまえ就職試験の面接の前日にテキーラを飲み干して帰った中国人の女の子が、面接がどうだったのか気になって、その女の子を見かけた鉄板焼屋をのぞいてみたが、店内はガランとして女の子はいない。

その鉄板焼屋がまた安くて、角ハイボールが180円、さらに300円前後のつまみも多いから、ワンコインでつまみまでいけてしまう。

でも今日は、ガランとした鉄板焼屋へ行く気がしなかったから、他を当たることにした。



四条大宮の1つとなりが四条烏丸。

四条烏丸は京都のビジネス街の中心で、しゃれた飲み屋もいろいろある。

その裏道り沿いにある、前に1度行ったことがあるバーへ、てくてく歩いて行ってみた。

今日は少し気分をかえて、他の街へ行ってみる。



メニューを見ると、さすが四条大宮より少し高い。

一番安くて500円。

芋焼酎の水割りをたのんだら、

「銘柄は何にしますか」

というから、

「一番安いので」

とお願いした。

しかし多少高いとしても、千円あるからお釣りがくる。



焼酎をのみ始めると、そこへ、お通しがきた。

これは計算に入れていなかった・・・。

お通しがないのは、なにも京都の流儀というわけではなく、四条大宮だけの流儀だったらしい。

お金が足りるか、急に心細くなる。



店にいるお客を見渡すと、全員バリッとしたサラリーマン。

ビジネス街にあるバーだから、さびれた四条大宮の鉄板焼屋とは、だいぶ客層がちがう。

ママもポロシャツにジーパン姿の僕には目もくれず、常連らしい、背広姿の男性と話している。

不安な気持ちで、焼酎をのみ、肴をつまむ。



お勘定は、800円。

「よかった、足りた・・・」

ポケットにあるくしゃくしゃになった千円札でお勘定をし、15分の道のりを、とぼとぼと歩いて帰る。



鉄板焼屋の前に来たから、ふと中をのぞいてみる。

さっきはガランとしていた店内がにぎわっているとおもったら・・・。

中国人の女の子がいた・・・。

今日も2人連れ、さらに今日は横にすわった中年の男性客と、なにやら話している様子。

「たのしそう・・・」



しかしポケットに残っているのは200円。

角ハイボールを1杯のめないことはないけれど、さすがにそれではお店に申し訳なく、恥ずかしいから、寄らずに家に帰ることにする。



家に着き、布団にはいる。

女の子と中年男性のたのしそうな光景が目にうかび、なかなか寝付けなかった。