(まえがき) インタビュー(1/4) インタビュー(2/4)
川手さんの理論の核心について、お伺いしました。
◇ ◇ ◇
川出 僕の考えが、ほかの生物記号論者とちょっとちがうところは、一つには、生物に社会性が内在すること、孤立した生物個体というのは人工的な生物像だということ、もう一つは、ふつうの生物記号論者は、記号の次元が、生物にだけあって、無生物にはないと考える。それにたいして僕は、そこは連続であって、無生物にも記号の次元が存在すると考えるんです。現役の記号学者では、John Deelyという人が無生物の記号性を主張しています。
僕が最近書いた論文を、生物記号論の指導的人物である、イェスパー・ホフマイアーに送りました。それを彼は、「ワンダフルペーパーだ」といってくれたけれど、ただし無生物の記号性については、自分は意見がちがうといっていました。
高野 僕は先生がそういうふうに、無生物にも記号の次元があると言い切るところが、先生の理論でいちばんおもしろく、まさにその通りであると思うところなんです。それはどういうところから、そう思うようになられたのですか。
川出 それはごく単純なことなんです。生命の起源を考えたときに、連続的だと思うんです。生命とはいえないけれど、生命らしさをもった存在がある。きちっとここからが生命であると境界をたてることは、生命の勝手な定義をするのでないかぎり、できない。そうすると生命は非生命と連続している。そうであれば、記号性も連続しているはずだと。ホフマイアーは、それには反対だというんです。
高野 もし40億年くらいまえのあるときに、様々な分子が高濃度で存在する分子の海から、初めての生物、細胞なら細胞が生みだされたと考えるとすれば、当然その前には、細胞とまではいえないけれど、ほとんど細胞に近いようなものがあったと考えなければいけないわけで、そうするとそれだって、生物だといってもいいじゃないかということになる。おなじように、その前も、その前の前も、考えられるわけだから、どこかのある時点で生物が生まれたと考えると、おかしなことになりますよね。
川出 そうですね、論理的に考えるとそうなんです。記号論の生みの親であるパースは、そう考えていました。でも僕は、パースがいっているからそう思うというわけではありません。自分なりにいろいろ考えた結果として、パースとおなじ結論にいたりました。それから今西錦司も、「物質にも命がある」といっていました。ホフマイアーは、その点は自分と考えがちがうけれど、個人の意見だから、それはそれでかまわないといってくれています。
高野 ホフマイアーが、生物と無生物をきちんと区別したほうがいいと考えるというのは、どういうところからきているんでしょうか。
川出 それは考えたことがなかったけれど、西欧的知性なのではないでしょうか。「自然界のなかで、人間だけはとくべつなものである」という大前提。それは彼らももう防衛できないけれど、無生物にまで連続させるのはあんまりではないかな。
高野 現在の主流の生物学者は、先生の生物記号論をどのように評価されていますか。
川出 近年のヒトゲノム計画を推進した、分子生物学の世界的中心人物の一人である和田昭允が、「情報とは意味をもった秩序であり、遺伝情報は、子孫を残すという意図を、意図せずにもつことになったものだ」といっているんです。「意味」や「意図」というのは、自然科学には、ぜんぜんないことばなのだけれど、そういう自然科学をこえた観念がなければ、生物は理解することができないと、主流の生物学者も考えるようになっている。だから僕の考えがきびしく批判されるなどということは、いまはあまりないでしょう。ただ「なんだか理解できない」とか、「まともに相手にするには及ばない」と思われていることでしょう。
でも分子生物学というのは初めから、「情報」ということばをつかっているんです。分子生物学で情報ということばがつかわれだしたころに、江上不二夫という、そのころの生化学の大御所が、「これはいかん」といったんです。「これは科学のことばではない」と。だけど、分子生物学は、おかまいなしです。だって情報ということばをつかわなければ、遺伝のメカニズムについて説明できないんですから。分子生物学は初めから、人文系のことばを密輸入しているんです。