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2011-03-10

原稿、おでん、ikoi cafe

原稿は、順調かどうかはわからないが、ともかくなんとかすすんでいる。
あらかじめ頭に描いていた構成があったのだけれど、書きはじめてすぐに、それでは足りないことがわかって、あらたな内容を大幅に追加することにした。
でもそれはこれまで、幾度となく話したり、書いたりしてきたことだから、いままた書くのは、それほど大変なことではないのだ。

小林秀雄はその著作のなかで、
「自分は書きながら考える」
ということを、くりかえし語っている。
「書く」ということは、すでに自分のなかにあるものを、そのまま文字として表現するということでは決してない。
「ことば」というものには、独特の力があって、自分が原稿用紙に記した文が、つぎにあらたな文をよびこみ、それがまたあらたな文を・・・というように、あたかもそれ自体が「いのち」をもつものであるかのように、みずから形を成していく。だから自分は、書かないと、自分が何を考えているのかすらも、わからないのだと。

僕のブログや原稿が、そこまでのものだと言うつもりはないのだけれど、僕が今回、書こうとする本の全体として、表現したいテーマというのは、まさにそのことなのだよな。
郡司さんが「徹底した不定さ」ということばで言う内容も、おなじことだと僕は思っている。

カダフィのような独裁者が、なぜあのような、「ひとをひとともおもわない」ようなことをするのか。
というよりもむしろ、「ひとをひとともおもわない」ことが、独裁者であるために絶対に必要な条件であるとおもうのだけれど、それは「ひとが意思をもつ」ことをみとめると、
「どうなるか予測がつかない」
からだ。

人間は未来を、ある原因があって、それにたいする結果があって、それがまたあらたな原因となって、という形でしか予測することができない。
それは機械の設計原理とおなじことで、自動販売機にお金をいれると、結果として飲み物とお釣りがでてくるというのは、まさにそういうものとして計算されている。

人間もそのように、ある原因があって、その結果がひとつ決まって・・・、というものであったとしたら、人間の行動は「すべて予測できる」ということになるのだけれど、しかし残念ながら、人間は「意思」をもっているから、ある原因があったとしても、それにたいしてどう行動するかは、ひとつには決められない。そのときの気分ひとつで、人間はいくらでも、ちがったことをしかねない。

独裁者にとっては、それは「恐怖」である。
人間が自分の意思で行動をはじめたら、どうなるかわからない。もしかしたらヤツらは、自分に歯向かい、自分を排除しようとするかもしれない。
そういうおもいから、独裁者は「国民が意思をもつ」ということを、徹底的に弾圧することになるのだ。

それはいわば、「車を運転する」などということと、まったくおなじことだ。
ハンドルやタイヤが、勝手な意思をもって行動してもらっては困るわけで、あくまで自分の意思に忠実にしたがうものでなければいけない。
それが「機械」の機械たるゆえんなわけだけれど、独裁者はだから、「国を運転している」ようなものなのだ。

しかしそれはなにも、独裁者にかぎったことではない。
いまの社会の「組織」というものは、大なり小なり、そういう考え方にもとづいて運営されている。
「民主主義」はちがうだろうというかもしれないが、たとえば「法案」というものが、議会で審議されるとして、「法案の効果」が予測できないものであったとしたら、審議というもののしようがない。
また「法案の可否」というものも、政党政治のもとでは、「数の論理」で決まるわけだから、そこには「議員の自由な意思」などというものは、かぎりなく存在しないことになっている。
ただ「選挙」だけは、その結果をあらかじめ予測することはできないから、それによって民意が反映されることにはなっているけれど、今回日本で政権交代をしてみて、民主党政権が以前の自民党とおなじ路線に、ひたすらもどろうとしているのを目のあたりにすると、選挙によって反映される「有権者の意思」などというものは、ほんとに微々たるものであると痛感せざるをえないわけだ。

このように、いまの世の中の「しくみ」のほとんどは、ものごとが「予測可能である」という考え方のうえに立って、つくられている。
しかしそれは、「幻想」なのである。

もちろん人間の行動も、ある程度のことは予測することができる。しかしその根本においては、「予測不能」であると考えること。予測が不能であるということを、きちんとふくみこんだ論理を構築し、それにもとづいて、社会のしくみを考えなおしていくこと。
それこそがいま、求められているのだと、僕はおもう。

そういうことを、きちんとした正しさと、わかりやすさをもって、書くことができて、さらにそれが、売れるようなものであったら、いいなと僕はおもっている次第なのです。



昨日の晩めしは、「おでん」にした。
大根と玉子と厚揚げと、これだけは僕は、
「はずせない・・・・・・」(池波正太郎風)
わけなのだけれど、今回はフライパンで、一食分だけをつくることにしたから、入れられるとしたらあと一品。
ここにごぼう天とかチクワとかじゃなく、「肉」を入れるのが、僕は好きなのです。
昨日は鶏の手羽元。これをアクをださないために、強火で焼いて、火を通しておく。

だしは昆布とだしパック、それに酒と淡口しょうゆで味をつける。みりんなどの甘みはなし。
これはかなりイケました。

いままでおでんをつくるたびに、ゆで卵にひびが入って、うす皮がくっついて、殻がうまくむけずに悲しいおもいをしていたわけなのですが、そしたら二人の方から、「殻がうまくむける卵のゆで方」を教えてもらった。
「ためしてガッテン」のページ
http://cgi4.nhk.or.jp/gatten/archive/program.cgi?p_id=P20100929
を見てもらうのが早いのだけれど、

要は卵をゆでる前に、とがったほうではなく、丸いほうの底に、あらかじめヒビを入れておくのだ。
卵のなかにある「二酸化炭素」が悪さをしているとのことで、こうやってヒビを入れることで、それを抜くのだそうです。

おかげでほんとにきれいにむけました。
めでたしめでたし。
今回七味をかけてみたりもしましたが、これも悪くなかったです。

酒は「桃の滴」の冷やを2合。

今日の昼は、「ikoi cafe」でランチ。
豚バラと大根のオイスターソース炒め。
なかなかうまかったです。
菜の花も、この春はじめて食べました。