川出さんが、それではどういうきっかけで、「生物記号論」に興味をもつようになられたのかをお伺いしました。
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川出 僕がそういう方向へ進んでいったというのは、柴谷篤弘さんの影響がありますね。現役のころから、柴谷さんの影響で、「生物学批判」という視点はもっていました。
僕が定年になるすこしまえ、池田清彦さんと柴谷さんが、「構造主義生物学」について、やかましく言い出したころ、柴谷さんが大阪で、外国の、構造主義に興味がある生物学者を数人よんで、研究会をやったのです(1986)。それに僕もよんでもらって、話を聞いて、よくわからなかったけれど、おもしろかった。
そのあとには京都で研究会があって、郡司ペギオ-幸夫さんとか、米本昌平さん、松野孝一郎さん、などといっしょに僕も出席して、座談会がありました。そこで3日間、話をして、それはあとで本にもなりました(1989)。僕はそのころは、そういう方面の知識はなかったけれど、柴谷さんに誘ってもらったんです。
高野 それでは柴谷先生は、以前から、川出先生には見込みがあると思っておられたということなんですね。
川出 そう、僕は渡辺格の弟子なのだけれど、柴谷さんと格さんが、日本の分子生物学の草分けです。この二人は非常に肌合いはちがうのだけれど、二人で日本の分子生物学を指導してきました。
ポーランドの哲学者コラコフスキーがいっているのですが、「どんな社会にも知識人というのがおり、それには2種類ある、ひとつは祭司、もうひとつは道化だ」。祭司と道化が両方いることで、社会は維持されている。祭司は秩序を維持する。道化はそれをときどきかきまわして、活性化する。格さんは、まさに祭司。柴谷さんは道化。それが非常にぴったりあうというのが、僕の実感です。僕はその二人にみちびかれたんです。
高野 そういう意味では、川出先生は、生命とは何かを考えるうえで、いちばんいい場所にいらしたということなのですね。
川出 結果としてね。それで僕は、格さんに忠実であるよりは、柴谷さんに忠実なほうになっていったんです。
柴谷さんは、「構造主義生物学」をやっていて、それがネオダーウィニズム、現代生物学に反対するという趣旨はわかるのだけれど、もうひとつよくわからない。それで僕は、柴谷さんのいうことをちゃんと理解できないままに、ちがう方向をさがして、言語学に助けをもとめたんですね。
高野 先生は、構造主義生物学とおなじように、現代生物学にはまったくない視点から、生命とは何かを明らかにしようとする、松野孝一郎さんが提唱されている「内部観測」は、どう評価されますか。
川出 難しくてよくわからないんです。基本的には、僕の言っていることと通じることがある、つまり自然科学のように、対象を見るのに、その外から、どこだかわからないところに身を置いて見るのではない、生きてはたらく系自身の内部から見るのでなければ、意味や価値をつくりだす主体のことは理解できない、と思うのだけれど、松野さんのいわれていること自体は、よくわからない。
それよりは、おなじ「内部観測」とくくられることがある、郡司ペギオ-幸夫さんの研究のほうが、まだすこしわかります。物と物との関係を論理であらわしたものとして生命をとらえ、それをコンピュータでシミュレーションしている、というくらいのことはわかる。でも「生命の論理」というのは、「生物」とは、ちょっと、ちがうのじゃないかという気がします。郡司さんは「生命壱号」とはいうけれど、「生物壱号」とはいわないでしょう。「生命」と「生物」とは、ちがいがあると思うんです。生物とは、やはり「モノ」、分子などの物質なのであって、僕はそこにこだわるんです。