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2009-05-12

小林秀雄全作品5 「罪と罰」について

相変わらず小林秀雄の全集を読み続けているのだ。
もう僕は秀雄を、愛してしまっているのだな。
って気持ち悪いが。
この全作品5は、昭和9年に書かれたものが集められたもの。
昭和9年といえば、もう80年近く前、僕の父親が生まれた年だ。
そんなに昔に、もうとうに死んでしまった人が書いた文章を読んで、まるでその人と一緒に「今」を生きているような気持ちになってしまうのだから、すごいもんだな、本っていうものは。
またそうやって読むうちに、書かれた文章から間接的にだが、時代というものを感じることもできて、戦前、まさに今戦争に向かって転げ落ちていく当時の日本の世相をうかがい知ることができるのも面白い。

小林秀雄は文芸批評家としてデビューするも、文壇の常識を無視した、歯に衣着せぬ批評が大きな反発を呼び、ノイローゼになって自殺まで考えるようになってしまう。
それを、全作品4に収録されている「Xへの手紙」で思い切りぶちまけてしまった後は、改めて、プロの批評家としてきちんと世に認められるようになるべく、研鑽を重ねていくのだな。
全作品4の中にも、そういう内容がいくつかあるのだが、「批評」とは何なのかについて、徹底的に熟考したり、また歴史によってで淘汰を受ける中で生き残った、「古典」と呼ばれるものを読み、批評することで、より客観的な批評が可能なのだという事を考え出したり、そしてその延長に、ドストエフスキーに挑戦するということになっていくわけだ。
「罪と罰」それから「白痴」について書いているが、これはドストエフスキーを読み込んだ人でなければよくわからない文章で、なので当然、僕にはよくわからないが、小林秀雄が何か、まだ登ったことがない、高い山に登ってみたかったんだな、という、その気迫は、びしびしと伝わってくる。
ドストエフスキーという偉人の胸を借りて、自分を試してみたかった、ということなんじゃないかと感じる。

その一方で、文芸春秋の文芸時評を再開したりもしている。
こちらはさすがに、以前のように喧嘩を売りまくる、というような無謀なことはせず、大人の対応をしているが、これなどは当時編集長は菊池寛で、小林秀雄はどこかで、「菊池さんだけには頭が上がらない」みたいなことを書いていたと思うから、菊池寛に「どうだい、またやれよ、文芸時評」みたいなことを言われたのかな、などということを想像してみたりする。
小林秀雄の戦後の文章を集めた文庫本、「考えるヒント」の中の文章も、たしか文芸春秋が主催した文人講演会みたいな所で喋ったものに手を入れたものが多いのだが、文芸時評にしても、講演会にしても、ドストエフスキーについての文章を書くのに比べたら、より一般の人に向けたものであって、まあそうやって、専門家と一般人の間を往復しながら、小林秀雄は批評家として成長していったのだと思うのだが、これも全く僕の勝手な想像だが、どちらかと言えば世の中嫌いの小林秀雄を、世の中に目を向けるようにさせる上で、菊池寛、そして文芸春秋の役割というのは、小さくはなかったんだろうなという気がする。

実際、僕など素人にとっては、ドストエフスキーについて書かれた物よりも、デビュー当時の喧嘩売りまくりの文芸時評や、「考えるヒント」にあるような、「言語」とか、「歴史」とかについて書いたものの方が、当たり前だが圧倒的に面白い。
小林秀雄の文芸春秋に載った文芸時評の第一回の冒頭を、あんまり面白いから、これは全作品1に収録されているものだが、ちょっと引用してみる。

「私は文芸時評というものを初めてするのである。川端康成に今月の雑誌一そろい貸してくれないか、文芸時評を書くんだ」と言ったら、「君みたいに何にも知らない男がかい」と、彼はふきだした。何も弁解なんかしてるんじゃない。私はただ、最近、文芸批評家諸氏の手で傍若無人に捏造(ねつぞう)された、「アジ・プロ的要求」だとか、「唯物弁証法的視野」だとか、「文壇的ヘゲモニイ」だとか、等々の新述語の怪物的堆積を眺めて、茫然として不機嫌になっているばかりだ、という事を、まずお断りして置く方がいいと思ったのである。

仲間が仲間の符牒(ふちょう)を発明して行くのは当然な事であって、例えばテキ屋諸君はテキ屋諸君の符牒を活用する。そして彼らの間では、符牒は実際行為に関して姿をあらわすだけだから、符牒は常に正当な役割を謙譲に演じている。だが、批評家諸君の間では、符牒は精神表現の、或(あるい)はその伝達性の困難を、故意に或は無意識に糊塗(こと)する為に姿をあらわして来るのだから話が大変違ってくる。この困難を糊塗するという事は、別言すれば、自分で自分の精神機構の豊富性を見くびって了(しま)うことに他ならない以上、見くびられたこの自分の精神機構の豊富性の恨みを買うのは必定(ひつじょう)であって、符牒は勝手に反逆し、自分の発明した符牒が人をまどわすと同程度に当人を誑(たぶら)かす。馬鹿を見るのは読者許(ばか)りではない。批評家当人達も仲間同士の泥仕合で馬鹿を見ている。

これらの符牒の堆積に、兎(と)も角(かく)も一礼するのは礼儀だとは思うが、一つお辞儀をしたらさっさと歩かしてもらいたいものだと考える。私は、出来るだけ素面で作品に対して、出来るだけ正直に私の心を、多少は論理的に語ろうとする」

と、いきなり批評家に正面から喧嘩を売っているのである。
あまりに痛快。
すごいよな。

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