内容もさることながら、僕を惹きつけるのは小林秀雄の語り口で、これは基本的にデビュー当時からまったく変わっていない、どんなに高級な物事を語る時にも、自分の実感というものから離れることが決してないのである。これは簡単なようで、本当に難しいことだ。実感だけが語られ、見ようとしている物事がぼんやりしてしまっては、お金を払ってまで本を買って読む意味がない。また逆に、物事の側に没入してしまい、自分とは切り離れた世界について語ってもらっても、ただ退屈なだけである。小林秀雄はそのどちらでもない、微妙な一線を、常に間違わずに歩いていくのである。
この第10巻は、昭和12年下旬と13年、小林秀雄35歳と36歳の時の著作が集められている。副題に「中原中也」となっているが、それはほんとにちょっぴりで、日中戦争がいよいよ勃発し、日本が戦時体制に突入していく中、その戦争というものそのものについて書いたものが中心となっている。文芸春秋の従軍記者として一ヶ月以上中国へも渡っていて、そこで見聞きしたものも文章となっている。戦闘そのものを体験したわけではなく、杭州やら上海やら蘇州やら、すでに戦闘が終わり占領された地域を見て回っていて、のんきな紀行文という趣きなのだが。
小林秀雄は戦後、戦時中、積極的に戦争プロパガンダに協力していたとして、批判されたりもしたことがあったようである。それに対して「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない」と言ったそうだが、小林秀雄にしてみれば、日本国が戦争を始め、これに勝たなければいけない以上、そのために全国民が一致団結して協力するのは、日本人として当然のことだ、そういう自分の立場を離れて、物を考えたり発言したりすることはできない、ということなのだ。
戦争に対する文学者としての覚悟を、或る雑誌から問われた。僕には戦争に対する文学者の覚悟という様な特別な覚悟を考えることが出来ない。銃をとらねばならぬ時が来たら、喜んで国の為に死ぬであろう。僕にはこれ以上の覚悟が考えられないし、又必要だとも思わない。一体文学者として銃をとるなどという事がそもそも意味をなさない。誰だって戦うときは兵の身分で戦うのである。
文学は平和の為にあるのであって戦争の為にあるのではない。文学者は平和に対してはどんな複雑な態度でもとる事が出来るが、戦争の渦中にあっては、たった一つの態度しかとる事は出来ない。戦いは勝たねばならぬ。そして戦いは勝たねばならぬという様な理論が、文学理論の何処を捜しても見附からぬ事に気が附いたら、さっさと文学なぞ止めて了えばよいのである。(「戦争について」)こういう腹の据わり方って、すごいものだよな。