2012-02-26
豆腐は煮ないのが京都流。
「ハマグリの湯豆腐」
土曜日には、馬鹿の一つ覚えみたいに、スーパー銭湯でサウナに入り、そのあと決まったラーメン屋へ行って、ビールにキムチ、餃子、それに大盛りラーメンの卵入りという、決まったものを食べることとなっている。
そのあと家に帰って、2~3時間昼寝するのが、毎度の完全に決まったコースになっていて、昼寝から覚めるとたいへん幸せな気分になる。
土曜日は、とくべつ予定が入っていなければ、完全オフの日と自分で決めているのだが、休みに気分転換するのならば、何かちがったことをした方が、新しい刺激があって良さそうな感じもするけれど、そういうことには何故かならない。
前日の金曜日から、翌日のサウナとラーメンを心待ちにしてしまう。
しかしこれには、まったく理由がないことではなく、サウナにしても、ラーメンにしても、サボったり浮気したりすると、後悔することになる。
サウナについては、サボりの影響はてきめんで表れる。
真冬で寒かったりして、家からちょっと離れたところにあるスーパー銭湯まで行くのが面倒だからと、近場の銭湯ですませたりしていると、すぐに疲れがたまって、明け方目が覚めたりするようになる。
それがサウナへ行くと、ちゃんと寝られるようになったりするから、「サウナさん、サボってごめんなさい」と反省するしかない。
おそらく家の風呂や銭湯では取れない、身体の中心部の疲れというものがあるのだと思う。
ラーメンについても、せっかくの休日だから、他のものを食べながらビールが飲んでみたいと思う気持ちがないではない。
それで別の店へ浮気をしたりすると、これもしっぺ返しがすぐにやってくる。
だいたいもう翌日には、いつものラーメンが食べたくなり、我慢できなくなって、けっきょくその店に、あらためて食べに行かないと済まないことになる。
その店のラーメンの、中毒になってしまっているわけだ。
そんなことがあるから、サウナにラーメンは、土曜日には欠かすことができないことになっていて、休日の行動の選択肢をいちじるしく狭めることとなってしまっている。
ブログを更新し終わって、昼からサウナへ出かけると、昼寝から覚めるともう夕方だから、それで一日が終わってしまう。
毎度まったく代わり映えのしない休日の過ごし方に、せっかく京都にいるのだし、どうかと思わなくはないのだが、仕方がないというわけなのだ。
ラーメン屋では、餃子やラーメンがおいしいことはもちろんなのだけれど、店員を見ているのも楽しい。
最近は大将が、土曜日は出てこないようになっているのが残念なのだけれど、修行僧を思わせる大将の、ラーメン作りに集中するたたずまいは、いくら見ても見飽きない。
その店は、ほかには番頭らしき30歳くらいのお兄ちゃんのほかは、全員中国人のアルバイトを雇っていて、その中国人を見るのもまた楽しい。
たぶんみな留学生で、学校の友達関係のなかで、誰かが卒業していなくなったら、また新しい学生を呼び入れて、という形で、代々そのラーメン屋のアルバイトを補充する仕組みとなっているらしい。
男の子たちも、今どきの日本人の若い子には見られない、溌剌とした感じがいいのだけれど、やはりおっさんの目から見ると、女の子がかわいい。
どうして中国人の女の子は、あんなにかわいいのだろうか。
中国が現在、まさに発展途上にあるということなのかとも思うのだけれど、とにかく素朴な感じがして、ラーメン屋での、日本人の若い子なら、たいして面白くもないと思いそうな仕事を、喜んでやっている様子が伝わってくる。
どんな仕事だって、仕事があるだけ幸せで、それを心を込めてやっていれば、喜びがわいてくるものだろう。
そんな当たり前のことを、あらためて思い起こさせてくれるところがある。
またこれは中国人の、女の子にかぎらず、男の子もそうなのだけれど、お客の目をまっすぐに見てくるところもいい。
いま日本では、人の目をまっすぐ見るということは、少なくなっているだろう。
知らない人の目ならなおさらだ。
それぞれ立場やら、システムやらのなかで動いているから、自分の「役割」を果たそうとがんばっているのはわかるけれども、人間同士の自然な交流は、どんどん希薄になっているところがあるように思える。
でも中国人は、もともと立場やシステムなどをあまり考えない国民性なのか、それとも祖国を離れて日本にいるからそうなるのか、とにかくまっすぐに、お客の目を見る。
若い女の子にじっと見られたりすることは、おっさんとしてはたまらず、ついヘナヘナとなってしまうというわけだ。
そういうわけで、土曜日は餃子とラーメンを腹いっぱい食べるから、夜は軽いもので済ませたい。
このところ、土曜の夜は、いつも湯豆腐だ。
今回、ネットで湯豆腐のレシピをいろいろ見てみたのだけれど、湯豆腐については、基本的に異なる2つの考え方がありそうだ。
それは、
「豆腐を煮るか、煮ないか」
という問題だ。
京都では、湯豆腐は豆腐を煮ない。
湯豆腐はあくまで、豆腐を「温める」もので、煮るものではない。
湯豆腐屋でも、豆腐の外側は熱くなっているけれど、中はまだ少し冷たいくらいで食べさせる。
ところがレシピを見てみると、湯豆腐を「煮る」としているものも少なくない。
池波正太郎もその一人で、「そうざい料理帖」を見ると、湯豆腐を「煮る」と書いている。
池波は生粋の下町っ子だから、もしかしたら湯豆腐を煮るのと煮ないのとは、東京と京都、または東日本と西日本のちがいなのか。
東京で育ち、長年を過ごして、今京都に住んでいる者の目から見ると、東京と京都、あるいは東日本と西日本では、ずいぶん大きな文化のちがいがあると感じるのだけれど、それはこんなところにも表れているということなのかもしれない。
しかし今は、京都に住んでいるのだから、湯豆腐は煮ないで作る。
昆布を入れた鍋を中火にかけ、沸騰しかけた頃に、昆布をとり出す。
そのまま沸かして、酒を少しふり込んだら、まず砂出しし、よく洗ったハマグリを煮る。
ハマグリの口が開いたら、エノキを入れ、豆腐をすべり込ませ、火を落とす。
あとは鍋を決して沸騰しないように火を調節し、豆腐が温まったら食べる。
タレは醤油に、削りぶしと青ネギを入れる。
タレが辛すぎるときは、鍋のだしですこし割る。
ハマグリのうまみがたっぷりと出ただしは、タレで割って飲んでも、醤油で味を付けうどんにしても、たいへんうまい。
昨日は思い立って、酒を鍋に入れて温めるようにしたら、わざわざ台所まで燗をつけに行く手間がはぶけたおかげで、つい飲み過ぎてしまった。