読売新聞で「日本の知力」という特集をやっていて、今日が第3部の最終回だったのだが、「社会を導く知識人が不在になっている」と書いている。
1968年に「5月革命」という騒乱がフランスで起きた。学生が大学に対して不満を訴える運動を起こし、それが労働者の運動にまで広がり、当時のドゴール政権は学生や労働者の要求を受け入れることで、騒ぎを鎮圧したという。その時には新聞や雑誌、大学の教壇から知識人たちが運動に共鳴し、異議を声高に唱えることで運動に思想的支えを提供したのだが、現在ではそのようなことは全く見られなくなってしまっているという。
その背景として、「東欧革命とソ連消滅により、マルクス主義に依拠してきた左翼知識人たちが沈黙してしまった」のだそうだ。また日本では丸山真男氏ら非マルクス主義の知識人たちが平和と民主主義のために戦った歴史があるそうだが、今では学者の発言が政治までを動かすということは、減ってしまっているという。
フランスの社会学者アラン・トゥーレーヌ氏は、「知識人たちの誤りは、20世紀後半に出てきた新しい思想や運動を、マルクス主義の古典的な言葉で解釈しようとしたことだ」と言う。「女性問題や文化の問題、若者たちの性といったことまで、『階級闘争』の文脈でとらえると、問題は単純になる。『革命が起こればすべてが可能だ』と思い込むか、『起こらなければ何もできない』とあきらめるかだ。91年にソ連が崩壊すると、『何もできない』派が圧倒的になり、左翼知識人は自滅した」のだそうだ。
「現代ヨーロッパにも、知識人がかかわるべき社会問題は山積している。イスラム教徒とどう融合していくかという問題は、一例だが、社会の将来像について、誰も提示できないでいる。今の若者は、行動する用意を十分持っているが、何ができるかについては全く確信が持てないままなのだ」
日本で発言が盛んな知識人といえば、例えば脳科学者が思い浮かぶ。もう捨ててしまった週刊文春に書いてあったことなので定かではないのだが、立花隆はある脳科学者の発言として、「生命科学はもうほとんど終わりであり、言語学も終わりの時が近い。これからは脳科学が、言語とは何か、人間とは何かということを見つける主戦場となるのだ」というようなことを書いていた。
ここまで傲慢な発言はひとつの極端な例としても、「脳が分かれば人間が分かる」と思っている人は多いだろう。しかしそうである限り、人間が何らかの意味で行動することによって、人間について新たな発見を得る見込みはないことになる。脳科学者が実験室で研究し、何かを見つけてくれるのを待つしかない。
しかし本当にそうなのか?脳が分かれば人間が分かるのか?
それは明らかにそうではないのである。人間が何かを「感じる」ということがあったとして、それは確かに脳科学によって、脳細胞の何かの電位の変化とか、分泌される物質の量の変化とか、そういうものとして記述されることはあるだろう。しかし「感じた」ということは、主観的にではあったとしても、あくまで「事実」である。それは脳の電位や物質がどうしたということとは次元の違う話であって、この主観的な事実を、事実としてまっすぐ受け止めることからしか、次の時代は見えてこないのだと思う。
科学は客観性が金科玉条である。確かにそれによって巨大な成果をあげてきた。それを全否定するものは、ただの気違いである。
しかし、問いが、物体がどう運動するのかや、電気がどう伝わるのか、などといったことだけでなく、「ことばとは何か」「人間とはどんなものなのか」ということに向けられたとき、ただ物事を外側から見るというだけの意味での客観性は、意味を持たない。なぜなら人間は実感する存在だからだ。人間は実感を出発点として、全ての行動を生み出していく。
これまでは主観的であると呼ばれてきた人間のこのような側面を、どのように中心に据えることができるのか。そのような思考の基盤を、これまでの科学をきちんと取り込みながら、どう新たに構築していけるのか。これは本来、知識人だけの課題ではない。全ての人間一人一人が持つべき火急の課題なのである。