鍋の魅力は、数えだすとキリがない。まずもちろん、手軽なことがあげられる。魚介や肉、野菜など、何でも好きなものを放り込んで、グツグツ煮ればいいだけだから、これほど簡単なものはない。
どんな材料を使っても、つくれることもいい。煮て食べられるものなら、何でも鍋になる。煮て食べられないものは、そう多くはないだろうから、鍋にできない材料も、少ないことになる。
もちろんうまいのは、言うまでもない。鍋のうまさは、出来たての熱々のところを、食べることが大きいだろう。鍋は食べる人の目の前でつくるから、それが可能になる。
しかしこうして、鍋の魅力を言いたて、分析していっても、鍋の魅力は、つねにその分析の先に、立ち現れるといえるのではないか。
鍋には決まった形がない。「鍋」でつくられるかぎり、どんなものでもアリだ。分析とは何よりまず、分析の対象が明確に規定されなければならないのだから、決まった形がない鍋は、そもそもその定義からして、分析を拒否した存在であるといえる。
鍋がすべての料理の、源流のひとつであることは、まちがいのないことだろう。何でもかんでも、好きなようにごった煮していたところから、さまざまな料理が生まれていった。
材料を限定したり、煮方を工夫したりすることで、「汁」や「煮物」が生まれていく。「だし」にしても、はじめはごった煮のスープそのものだったろう。それをだしとして、単独にとり出せるように、さまざまな工夫が凝らされ、かつお節や煮干しが生まれていくことになる。
そうやって、鍋から生まれていった料理は、すでに何らかの限定がされているから、定義されうる存在となる。「親子丼」は、「どんぶりにご飯をもり、その上に、鶏肉と玉ネギをしょうゆ味のだしで煮、卵でとじたものをかけたもの」などという具合に、はっきりと説明できるものになる。
しかしその元になった、鍋は依然として、定義されぬまま、存在しつづけている。定義されず、その魅力をことばで汲み尽くすことができないからこそ、愛される。鍋とはそういうものだと、いえるのではないか。
昨日は、カキの味噌鍋をすることにした。カキはしょうゆやポン酢でももちろんうまいが、赤味噌のこってりした味が合うことも、いうまでもない。
そこでまず、濃いめのだしを取る。昆布を水にいれ弱めの火にかけて、鍋肌に気泡が付きだしたら、昆布をとり出す。
とった昆布だしをさらに沸かして、いったん火をとめ、削りぶしをいれ、ふたたび弱火で2、3分煮て、火をとめる。削りぶしが沈んだら、キッチンペーパーで濾す。
八丁味噌を溶かし込む。
カキは片栗粉をふり、もみ洗いする。
いれる材料は、カキの他には、まず長ネギ。長ネギを煮込むことにより出る風味は、鍋には欠かせない。それに、鍋の汁の味を吸い込む、豆腐。一風変わった、しめじ。さわやかな三つ葉。
これを食べるぶんだけ、卓上で沸かした汁にいれ、弱めの火でコトコトと煮る。まずは、豆腐と長ネギ。それからしめじ。カキと三つ葉をいれたら、ひと煮して火をとめる。
ひとり鍋をすると、材料を煮ているあいだ、静かな部屋のなかで、鍋の沸くコトコトという音だけが響く。鍋が煮えるのを見つめながら、無心の境地にいたる。
熱い鍋を食べながら、あたたかい酒をのむ。
うどんを煮込んで、しめる。