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2011-01-18

読書感想 「美味しい名古屋を食べに行こまい」


名古屋というのは、不思議なパワーに満ちあふれた場所なのだ。
パワーといっても、東京や大阪のように、いわゆる都会の猥雑なエネルギーが発散しているというのとは、ちょっとちがう。
名古屋は実際、道は広く、繁華街でもあまりごちゃごちゃした感じがなく、端正な街づくりがされていて、都会というものを、個人が自由に自分の利益を追求し、それが折り重なることによって、あの看板やらネオンやらが無秩序に密集する、雑然とした雰囲気だと考えるとすると、名古屋は都会ではない。

キャバクラは名古屋発祥と言われているが、名古屋のキャバクラへ行ってみてちょっと驚いたのは、少なくとも東京ではふつう、そういう場所で働くオネエちゃんというものは、だいたい一人暮らしをしているもので、親兄弟といっしょに住んでいながら水商売の仕事をするというのは、あまり聞いたことがないわけだが、名古屋のキャバクラでは、働くオネエちゃんたちの発する雰囲気が、いかにも親といっしょに住んでいます、という感じなのだ。
若い女の子が親と住んでいるか、一人暮らしをしているかというのは、やはり見た感じがちがうもので、一人暮らしの子はどうしても、生活の疲れが見えてくるものなのにたいして、親と住んでいる子は、瑞々しい感じがする。
温かい人間関係というものに、囲まれているかいないかが、そういう見た目のちがいになるものだと思うが、名古屋では道を歩いたり、電車に乗っている女の子を見ると、圧倒的に家族と住んでいる感じがする。
瑞々しい、明るい色気を発散していて、それがキャバクラのオネエちゃんまでがそうなのだ。
実際あとで聞いたら、名古屋では、キャバクラに実家から通うというのは珍しくないのだそうだ。

キャバクラが名古屋発祥というが、だいたい名古屋という街自体が、全体としてキャバクラみたいなのだ。
居酒屋へ行ったとする。
4人くらいで行って、そこへ二十歳くらいのバイトのオネエちゃんが注文を聞きにきて、こちらはオヤジ4人組だものだから、オネエちゃんに何かとちょっかいを出したりするわけだ。
そうすると、東京のオネエちゃんの場合だったら、いちおうそれを笑顔で受け流すものの、ほんとはこのオネエちゃん、心の底では、「このバカオヤジどもが」と思っているのだろうな、というのが伝わってくるわけなのだが、名古屋はちがう。
オネエちゃんがこちらに、一歩踏み込んでくるのだ。
オネエちゃんのほうから、何か質問してきたり、同じ目線でこちらがウケるようなことを言ってきたり、かならずする。
これはほとんど例外がなく、どの居酒屋のどのオネエちゃんも同じで、居酒屋はおろか昼間の喫茶店でも、ファミレスでも、若いオネエちゃんがいれば、かならず同じ反応をしてくる。
東京のキャバクラの、かわいいばかりで話ができず、こちらがチヤホヤしてやらないと場がもたないオネエちゃんとはエライちがいで、これはキャバクラというものが、名古屋の土着の文化に深く根ざしたものであるということを意味しているのだと思う。

名古屋の人がいいのは、とにかくストレートなのだ。
いいも悪いも、まっすぐぶつけてくる。
ふつう体面だとか、これを言ったら相手にどう思われるのかとか、人間はものをしゃべるとき、あれこれ考えるものだと思うのだが、そういうくびきが、名古屋の人は、おどろくほど少ないように見える。
だから人と人との距離が近く、濃密な人間関係というものをつくり上げる。
よく名古屋は閉鎖的で、商売にしても県外の企業が入り込むのはなかなか難しいといわれるが、たしかに入り込むまでは時間がかかるかもしれないが、一度入り込んでいしまうと、すべては人間の関係性のなかで決まっていくので、これほど居心地がよく、やりやすいところはないともいえるのだと思う。
数年前、名古屋の地下鉄工事で談合をしたということで話題になったが、だいたい名古屋駅桜通口の、駅前のビルの高さが、ピタリとそろって、なんともきれいなのは、戦後ビルを建てるとき、地権者が談合して、そのように取り決めしたからなのだそうだ。
たがいに土地をやり取りして、区画整理のようなことまで、その談合でやってしまったらしい。
今の日本では、談合は悪であるということになっているが、それは法律によってすべてを決めるという、西洋流のやり方が、明治以降になって入ってきたからであって、もともと日本は、そうやって談合によって、すべてを解決していたのじゃないのか。
名古屋へ来ると、そんな風な気にさせられる。

というか名古屋は、ひとことで言うと、いまだに江戸時代なのだ。
信長、秀吉、家康の天下人3人ともが、名古屋近くの出身であって、名古屋は尾張徳川家の本拠地でもあるわけだから、江戸幕府を倒したクーデターである明治維新を、名古屋の人はよく思っていない。
だからいまだに、名古屋の象徴というものは、名古屋城の天守閣に飾られている、家康から下賜された金のしゃちほこなのだ。
そういう場所だから、名古屋の人は、明治以降、日本に入ってきた「近代」というものにたいして、つねに疑いの目をもって見ている。
トヨタが社内でものを決めるのに、ただトップが決め、社員はそれに従うということではなく、あらゆる部や課、またそれをこえた、入社年度や出身地別のサークルなどによって、徹底的に話し合い、それこそ談合していくことによって、全体の意思決定をしていくというやり方は、近代以前の日本の風土を色濃く反映したものなのではないかという気がする。
いまトヨタが揺れているのは、そうやって徹底的に話し合うということが、トヨタが大きくなりすぎて、できにくくなってきたからではないかと、名古屋の人は言う。

そうやって考えると、名古屋が独特のバワーに満ちあふれているというのは、たんに一地方として、独特であるということではなく、ある意味京都とならんで、古来からの日本の精神というものを、保ち続けているということなのではないかという気がするのだ。
それを名古屋の人は、確信犯的にやっている。
名古屋の人は、規模としてみればじゅうぶん都会であるはずの名古屋のことを、あえて「偉大なる田舎」であると言う。
これは近代というものが凝縮した場所である、都会というものにはならないぞ、という、決意表明であるともみえる。
名古屋にはついこのあいだまで、高層ビルというものがまったくなかった。
東京では40年くらい前に建てられ始めたわけで、大阪だって他の都市だって、名古屋より早いところはいくらでもあるだろう。
これはもちろん、高層ビルが建てられなかったわけではなく、あえて建てなかったとしか考えられない。
名古屋駅前にミッドランドスクエアという、トヨタの高層ビルができるというちょっと前、近くの床屋へ行ったら、そこのおやじは、ふつうなら高層ビルに何千人という人が来ることによって、お客が増えることを期待し、喜ぶのだろうというところ、そんなに人が来たら、電車や道が混雑するのじゃないかということのほうを心配していた。
発展を無条件に喜ぶのではなく、それを仕方ないと受け止め、それによって今まであった良いものが、失われないことに気をつかう、そういう精神が名古屋にはあると思う。

目の前の横断歩道の手間で、青信号が点滅するとする。
ふつうならそこで小走りになって、横断歩道を渡ってしまおうとするものだと思うが、名古屋の人は、信号が点滅する前にすでに、反対側の信号を見て、目の前の信号が青であっても、渡りきれないと思ったら、歩みをゆるめて、次の青信号まで待つことに備えている。
エレベーターでは、扉わきのボタンの前に立った人は、例外なく、「開」ボタンを押して、他の人が全員降りるのを待ってから、最後に自分が降りる。
飲食店の、どんなに若い店員でも、お勘定がすんだら、かならずお客の目を正面から見て、「ありがとうございました」と言う。
そんなことを身についた習慣としている人たちが住んでいる街など、日本全国、他のどこにあるだろうか。

そういう場所だから、名古屋の食べ物というものも、また独特だ。
スガキヤのラーメン、味噌カツ、モーニング、ひつまぶし、台湾ラーメン、きしめん、手羽先、味噌煮込みうどん、あんかけスパ、等々。
他のどこにもない食べ物が目白押し。
しかもそれらは、観光客目当てということではまったくなく、名古屋の人たちが、自分たちが好んで食べるものなのだ。
この「美味しい名古屋を食べに行こまい」では、それらを一つずつ、他県の人にわかるようにという趣旨で、ていねいに紹介している。

ところがこの本、いわゆる名古屋めしについてのグルメ本であるはずなのだが、グルメ本には欠かせないはずの、詳しい店の情報というものが、一切のっていない。
漫画仕立ての本なのだが、それぞれの食べ物を紹介しているベージの半分以上は、著者がそれらを、どの具をどういう順番で、いかに夢中になって食べ、食べ終わってどれだけ満足したかということを、こと細かく描写することに費やされている。
これはほんとうに、名古屋らしいと思う。
ふつうなら、何かの物事を説明したいと思ったら、少なくともこうやって本にして出そうとするなら、何がしかの客観的な説明に意味があると思うもので、情報の記載などということには、かなりの努力が払われるものであると思うが、そういう客観性などという考え方こそが、近代というものに特有な、必要でないとは言わないが、べつにそれほど大事なものでもないということを、この名古屋人である著者は、無意識に思っているのだろう。
この本の、徹底的なまでに主観的な説明の仕方そのものが、名古屋というものを色濃くあらわしていて、この本は、名古屋の食べ物について知るというだけではなく、名古屋というものそのものを知るためにも、計らずして、とてもよく出来たものとなっている。

名古屋というのは、観光名所もあまりないし、他県の人間にとってどうもとっつきにくく、東京と京都・大阪のあいだで、ただ通るだけの場所になってしまいがちなのだが、この本は、名古屋の食べ物、および名古屋について、まず触れてみたいと思うとき、なかなかいいものであると思う。