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2011-09-18

サンマを三枚におろしてみたら、かなり失敗

四国の香川へは、これまで10回近く行き、そのたび何軒かで讃岐うどんを食べているが、多くの店が簡素な店構えで、言葉は悪いが、小汚い感じすらするところがおもしろい。

高松市の繁華街などでも、名店と言われる店は、東京でいえばガード下にある立ち食いそば屋のような、何の色気もない、雑然とした店構えをしている。ところがそういう店で食べる讃岐うどんが、ファミレス風の小じゃれたチェーン店より何倍もうまいのだ。だいたい讃岐うどんは、1玉100円そこそこで出すのだから、ほんとにうまいものにしようと思ったら、店舗になどお金はかけていられないということだろう。

丸亀の郊外にもすごい店があった。畑の隅に道具置き場にでもするような掘っ立て小屋が建っており、それがうどん屋になっている。入り口は道路のほうを向いておらず、90度横を向いている。最近はその店も有名になり、観光客で賑わっているらしいが、30年前はお客は全員地元の人で、薬味のネギが足りなくなったら、お客が自分で畑へ行き、引っこ抜いてきたネギを自分で洗い、刻んで入れたりしていたものだ。

名店の店構えが簡素であるというのは、広島のラーメン屋にも言える。広島市には、全国的にはほとんど知られていないが、非常にうまいラーメン屋が多数ある。そのどれもが、飲食店の水準としてみると並以下の店構えで、しかも多くが、市の中心地から遠く離れた、便の悪いところにある。繁華街に一軒いい店があるのだが、そこは広さ2坪ほどの、それこそバラックだ。

広島のラーメン屋の名店は、多くがおばちゃん一人とか、または夫婦や家族など、ごくごく小さな範囲でやっていて、それを崩そうとしない。40年も50年も、小さな店のままの店もある。その店は、最近は多少の観光客も来るようになっていて、店先にずらりと行列ができるようになっている。しかし生ラーメンの通信販売程度はやっているが、相変わらず事業として拡大しようという気は、これっぽっちもないようだ。またその店のニューが、「中華そば」のみで、それを何十年にもわたり、一切変えようとしないのは、すごすぎると言えるだろう。

有名店であれば、事業拡大の話は、それこそ山のように飛び込んでくるだろう。しかし広島のラーメン屋は、頑ななまでにそれを拒否しているのだろう。実際チェーン化して、味が変わらなかったという話は、あまり聞いたことがない。ラーメンをうまく作るということと、事業を成功させるということとは、まったく別の才能だろうから、その両方をたまたま兼ね備えた、稀有な人でない限り、ラーメン店のチェーン化は難しいのじゃないか。


よくフランチャイズのラーメンチェーン店で、「絶対に儲けさせます」などと言って、定年退職後の人などを募り、チェーンを拡大していく例がある。でも多くの場合、そういう店は非常につまらない。うちの近所でも、最近そういう店が一軒つぶれた。

そういうラーメンチェーン店が、多くの場合採用する基本的考えは、「顧客満足」だ。だいたいそういう店では、店員のあいさつが非常にいい。店構えも流行りのセンスで、きれいにデザインされている。ラーメンの味も時流に合わせ、和風だしが流行れば和風だし、背脂が流行れば背脂を入れた、多くの人が好みそうなものに調整していく。そうやってできたラーメンを食べてみると、たしかに各所で、こちらのツボを突いてくる。「なるほどねえ」と思うこともないではない。でもそういうラーメンには総じて、「お客に対して伝えたいこと」がない。

ラーメンを食べるというのは、たしかに食欲や、また自分の嗜好を満足させるためのものではある。しかしラーメンは、お客にとってはただ単品の物体として存在するものではなく、ラーメン屋の店主から、自分に向けて渡されるものでもあるだろう。その時そこに、自然に「コミュニケーション」が発生する。お客がラーメンを食べることは、そのラーメンを作った店主との、心の交流でもあるわけだ。

コミュニケーションにとって最低限必要なのは、「内容」だろう。店主がお客に対して、何らかの伝えたい内容を持っている。それをお客が受け取り、理解して初めて、コミュニケーションは成立する。伝えられた意味が、奥深い、味わいに満ちたものであればあるほど、お客はそれに感動することになる。

しかし店主がお客に伝えたいことが、単に「顧客満足」であったとしたら、それはなんにも言ったことにはならないだろう。顧客が満足するのは、あくまで結果なのであり、その前提として内容が必要だ。その内容が、スープをどうしました、麺はこうしました、などということだけならば、それはただお客に媚びていることにしかならないじゃないか。

ラーメンがほんとにうまいと思う時、お客は無意識に、そのラーメンに「個性」を感じているのじゃないか。個性こそが、ある特定の人間を表すことができる。ところがその個性は、「かたより」の中にしか表現されない。顧客満足を目指し、問題点をすべてつぶして、全方位にまんまるにしてしまったものの中に個性はない。個性は必ず、なにか大きく欠けたものの中に表現される。

大きく欠けた所がありながらも、それがひっくり返ってしまわずに、危ういバランスを保っている。それが人間のおもしろさがあり、そういうおもしろさがあって初めて、その人間を「愛する」気持ちが生まれてくる。ところが物事が事業化され、それが進んでいくと、多くの場合、そのかたよりがなくなってしまうのだよな。


というように、食品の事業化は、独特の難しさを持つものと思うが、醤油や味噌を初めとして、それが大きく成功している例も山ほどある。そういう成功例の一つが、「冷凍うどん」だろう。

これは事業のやり方というより、うどんの特質によるのだろう。冷凍うどんは、冷凍されなかったうどんと、味がそれほど変わらないようだ。スーパーで売っている、1玉60円程度の冷凍うどんでも、下手なうどん屋のうどんよりよほどおいしい。最もうまいのは加ト吉だが、これは定価で100円以上するからほとんど買わない。加ト吉のうどんは、よほどの店じゃないと、これよりうまいことはないんじゃないか。


またうどんは、食い方を選ばないのがいい。そばなどだと、ああして食えこうして食えと、いちいちこだわりが多くうるさい。よくそば屋のテーブルに、店主がそばについてのうんちくを長々と書いた説明書きが置かれていることがあるが、余計なお世話だ。その点うどんは、好きな薬味に醤油をぶっかけて食べるだけでも、十分うまいのがエライ。

しかも冷凍うどんは、湯がいて水にさらし、それを器に入れるのに、5分とかからない。食べるのにも1分。朝飯としてこんなに優れたものは、他にはなかなか無いだろう。



昼飯にはソーミンチャンプルー。ツナ缶と、ニラや長ネギなどの香味野菜、それにゆがいて水で洗ったそうめんを、塩コショウして炒め合わせる。非常に簡単だが、これがまたうまい。



晩飯には、昨日の残りのぶり大根。なぜか煮凝りにはなっていなかったのだが、味がしみて大変うまい。


ぶり大根の汁が余っていたから、ナスを煮てみた。甘辛い汁にナスがよく合い、これもとても良かった。

それから昨日、サンマを刺身にしてみようと思い立ったのだ。


魚を三枚におろすのは、今まで一度もやったことがなかったのだが、ナニやってみれば、それほど難しくもないもんだ。


ただこの刺身、一見うまそうに見えるが、実は失敗したのだな。皮を剥がなかったのだ。だから食う時、ひと切れずつ、皮を剥いで食わないといけなくなってしまった。ただし味は良かった。

あと小骨をそのままにしたのだが、やはり食うのが面倒だ。でもこれを骨抜きで取らなきゃいけないとかいう話になると、それはそれで面倒なのだが、どうしたらいいのかな。


あとは冷奴にセロリの浅漬で、昨日も冷酒を2合。