2011-09-13
無料理料理について、さらにあれこれ考えてみた
昨日も無料理料理の数々を食いながら、無料理料理について想いを巡らせたりとかするわけだ。
「無料理料理」とは、昨日のブログに書いた通り、味付けを全くしないか、または塩だけの味付けをしておいて、あとは醤油やウスターソースをぶっかけて食べるという、「料理とは微妙に呼べない料理」のことを指す、僕の造語だ。昨日の僕の晩飯を見ても、まず筆頭のサンマの塩焼き、それから冷やしトマト、冷奴、きゅうりとセロリの浅漬がそれに当たることになる。
この無料理料理スタイルは、世界的に見てどうなのだろう、どちらかと言えば少数派と言えるんじゃないか。お隣りの韓国は違うだろう。韓国ではほとんどのものは、しっかりと味が作り込まれている。「ヤンニョム」という唐辛子だの味噌だのニンニクだのを練り合わせたものが、日本の醤油的に使われるわけだが、それは基本的には料理の味付けとして使われるのであり、それを自分で付けたりかけたりして食べるというのは、そうそうはないような気がする。
中国だと「点心」が、無料理料理に当たるのか。餃子やらシュウマイやらを、小皿に自分で醤油や酢を混ぜわわせて調合したものに付けて食べる。でも点心はあくまで、簡易的な食べ方であって、日本の寿司や刺身、とんかつみたいに、料理の中心に躍り出てきたりはしないんじゃないか。あくまで味付けをして出すのが、中国料理の基本だろう。
ヨーロッパの料理は、僕はよく解らないところもあるのだが、やはり基本はソースで、ソースをかけた料理が出されることになるんじゃないか。ドイツなどウィンナーに粒マスタードを付けて食べたりするのは、あくまでオプションであり、ウィンナーに基本的な味付けはされているだろう。
世界の中で、無料理料理大国であると思えるのは、日本の他には、アメリカなんだよな。アメリカ人は、何にでもケチャップをつけて食べると言われる。ハンバーガーが典型で、ただパンの間に肉やら野菜やらを挟み、味付けはケチャップだ。日本が醤油やウスターソースをかけるのと、まったく同じセンスで、アメリカ人はケチャップをかけるのじゃないかと思える。
日本の中でも、実は地域により、無料理料理を好むのかそうでないのかということに、違いがある。無料理料理を好むのは、東京、それに大阪だろう。東京は、基本的に何でも醤油をかけて食う。大阪はウスターソース。京都と、それから名古屋は、料理を作り込む習性があると思う。名古屋では、とんかつを食べると、多くの場合、東京のように卓上に置かれているソースを自分でかけるのでなく、ソースがかけられて出てくる。味噌カツの場合はもちろんそうだし、味噌カツとドミグラスソースを選べる店があったりする。
無料理料理を「素材主義」と関係付ける人がいるのだが、それはどうなのかと思うのだよな。アメリカの友人が、「アメリカの料理は素材のおいしさを大事にするんだ」という説明をしてくれたことがある。素材のおいしさを大事にするから、塩だけで味付けして、あとは足りない人は、自分でケチャップをかける、という論理だ。大阪の友人からも、同じ言い方を聞いたことがある。
しかし「素材を大事にする」ということと、「味付けをしない」というのは、別のことだろう。京都のように、素材を大事にしながらも、素材に応じた様々な味付けをしていくという考え方だってあるわけだ。味付けをしないということは、何か積極的な意味合いがあると、考えなければいけないだろう。
無料理料理は一つには、たしかに素材と関係あるところはあるとは思うんだよな。寿司や刺身のことを考えてみれば、醤油はあらかじめかけてしまうより、食べる直前に付けたほうが、生魚の風味を損なわないということがあるだろう。サラダにしても、食べる直前にドレッシングをかけたほうが、野菜のシャキシャキした食感を味わうことができる。とんかつも、ソースは食べる直前にかけたほうが、衣のサクサクとした味わいを残すことができる。
しかしそれだけでなく、無料理料理は、「料理の味付けを他人にまかせてしまう」ということがあるだろう。味付けは、料理の方向性を決める、中心であるとも言えるものだろう。しかし例えば、とんかつ屋が、ソースをどこからか仕入れるのだとしたら、料理の中心であるはずの味付けを、ソース会社にまかせるということになる。寿司屋なら、醤油会社に、味付けをまかせてしまうということだ。
この一番大事なことを、人にまかせてしまうことって、いかにも日本人らしいという気がするんだがな。会社の方針は社長が決める。国の方針は、政府が決める。自分はそれを社長や政府にまかせているのであり、それについてはとやかく言わない。自分は自分のできる範囲のことを、精一杯やればいいんだ。僕などもわりと、そういう考え方になりやすいのだが、そのほうが何となく、いさぎがいいような感じがする。
昔のヤクザとかでも、「オレの命は、親分に預けた」みたいなところがあって、「仁義無き戦い」では、命を預けたはずの親分に、子分が片っぱしから裏切られていくわけだけれど、それが日本の美学みたいなところもあるんじゃないか。
さらに無料理料理では、タレをかけるのを、食べる人にまかせるということがあるわけだ。醤油でもソースでも、かけるものは決まっているのに、それをかけないで出すことで、食べる人が「自分で選択した」という気持ちになる。日本でも選挙とか、そんなところがあるんじゃないか。組織でがんじがらめにされて、結局投票する人は決まっているのに、一応投票所へ行って、その人の名前を紙に書いて出す、みたいな。
こうやって書いてみると、料理を作る人の責任逃れの尻拭いを、ただ食べている人がしているだけのようにも思えてくるが、まあしかし、僕もこの無料理料理が好きなのだから、日本人的な人間であると言えるのかも知れない。それに僕の場合、自分が作り、自分で食べるわけだから、何も問題ないのである。
昨日はサンマの塩焼き、焼き網からもうもうと上がる白煙と、さらにそのうち炎も上がりだし、火事にならないかとヒヤヒヤしながら見ているうちに、つい焼きすぎてしまい、黒焦げになってしまった。
万願寺の炊いたん。三条会商店街の八百屋で万願寺とうがらしを買ったのだが、やはり京都の野菜は、スーパーで買うより、八百屋で買ったほうが圧倒的に安いな。袋にいっぱい入ったのが130円。スーパーだとこの3倍か4倍はする。
八百屋だから、おっちゃんに万願寺の炊き方を聞いてみた。京都だから、野菜を煮るには薄味にするのだろうと思っていたら、なんとこってりと味付けすることが多いとのこと。それで昨日は、みりんと醤油をたっぷり入れて炊いてみたら、たしかに唐辛子のほろ苦い味と、甘辛い味とが非常によく合いうまい。万願寺はよくジャコと一緒に炊くが、かつお節でもまったく問題なく炊ける。
京都産のトマト。これも八百屋で買ったがほんとにうまい。
昼飯は、塩焼きそば。味付けは醤油と酒、チューブのニンニクと生姜なのだが、この醤油を少なくして、塩を入れてみた。これが大変成功し、野菜の炒め加減も、シャキシャキとした感じがきちんと残り、この焼きそばは非常にうまかった。
昨日は十五夜。このお月さんを眺めながら、ベランダでビールを飲んだりもしたが、十五夜のお月さんというのは、たしかにまんまるで、大きくて、しかも明るく、ほんとにきれいなものだな。